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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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私とネオロマンス

 浅葱みこと様の企画に乗っからせていただくことにした。

不要かもしれない前提:ネオロマンスについて

 コーエーテクモゲームス(旧コーエー / 光栄)のゲーム開発チームであるルビーパーティーが開発した女性向け恋愛ゲーム群の総称。2024年9月23日で、ネオロマンスゲーム第1作である「アンジェリーク」発売から30周年を迎える。

 長いスパンで自分の趣味に根付いているコンテンツについて書くことは、自分のオタク人生を振り返ることにほかならない。自らのライフイベントや当時の社会状況と密接に結びついてしまっているこれらの内容では当然、筆者である自分の年齢モロバレになる。普段、ネット上では年齢についてぼかす物言いを意識しているので、これが大変気恥ずかしく難しい。奥歯に物が挟まったような書き方になるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

私と「遙かなる時空の中で」

 まだ配信サイトがほとんどなく、マイナーなアニメは2クール深夜枠で放送されるのが常だった女子高生時代、私は好きなアニメを録画機器で録り貯めて視聴していた。2004年下半期には友達から勧められて好きになったオカルト・ファンタジー漫画「tactics」がアニメ化されたため、これも気合を入れて毎週録画した。明治時代後期を舞台に、民俗学者兼妖怪退治屋である一ノ宮勘太郎が、「鬼喰い天狗」春華と妖狐のヨーコとともにさまざまな怪異を解決していくという和風ファンタジーだ。

 …………が。

 年末という時期を考えると、番組特別編成かなにかだったのだろうか。放映時間がズレていたのである。「tactics」の代わりに録画されていたのは、前番組だった「遙かなる時空の中で ~八葉抄~」第13話であった。
 再生開始して「あれ……ああ~~~!? 録画失敗してる!!」と気づきつつもまるまる30分間見てしまった後、私はこの録画を消す気にはなれなかった。
 この第13話というのが、全26話のちょうど折り返し地点だった。いわゆる“全員集合回”で、メインキャラクターが全員登場し、この回だけでもおおまかな世界観設定やストーリーを把握できたというのが大きかった。また、ちょうど文系志望で受験科目としての古典が身近だった私にとって、ファンタジーナイズドされているとはいえ平安時代の京を描いた物語はこの上なく馴染みやすいものだった。「tactics」とメインキャラクターの声優がダダ被りしていたのも、なんとなく視聴を継続した理由のひとつだったかもしれない。
 私はこの「遙かなる時空の中で ~八葉抄~」を録画予約リストに放り込み、以降順調に最終話まで継続視聴した。

 ……というようなことを、同じく受験勉強に励んでいたクラスの友人に話したのだと思う。彼女も興味を持ってくれたので、二人でちょっと調べた結果、「遙かなる時空の中で ~八葉抄~」の原作がPlayStation(以下PS)で遊べる「遙かなる時空の中で」というゲームであることを知った。ゲームソフトを中古ショップで安く入手できたので、PS3を所持する友人宅に何度か通って遊ばせてもらった(PS3はすべての型番でPSソフトを遊ぶことができる)。
 “龍神の神子”として異世界に召喚された主人公は、毎朝、八葉と呼ばれる八人の男性から二人を供として選び、決まった行動回数を消費しながら京の各地を巡る。そして期日までに、土地の霊力を高めるとか、呪詛を祓うなどの特定のミッションをクリアする……というのがこのゲームの基本的なルーティンで、私たちは楽しく進めていった。私はクールビューティー陰陽師の安部泰明、友人は心優しくたおやかな法親王・永泉がお気に入りだったと記憶している。
 自分で方針を決めながら動き、さらに課題を達成すればキャラクターたちから褒めてもらえるのはうれしいし楽しい。このころから私は「ネオロマンスゲーム」なるものを認知するようになる。

 アニメの原作となった水野十子先生のコミカライズも、もちろん読んだ。当時は7巻まで出ていただろうか。

 こうなってくると、舞台となった京(京都)への思いがいよいよ募り始める。大学1年生だった私はバイト代をつぎ込み、夏休みの旅行先を京都に設定した。ゲームで八葉たちとともに巡った、あるいはコミカライズやアニメに登場した名所を訪問して、異世界に入り込んだ気分に浸る時間は、夢のようだった。
 自分で稼いだお金を使って、自分で行きたいところに行き、食べたいものを食べ、見たいものを見る。史跡の情報や天候を事前に調べ、行動範囲の予測を立てる……。思えば、私が初めて「親にやってもらうのではなく、すべて自分で決めて実行すること」を経験したのがこの京都旅行だったかもしれない。初めての京都旅、初めての一人旅にして初めての聖地巡礼はとても楽しい経験になった。大学の先輩に勧められて食べに行った都路里の夜パフェ、まさしく禁断の美味だったな……。

 ――と、ここまで書いて、私と「遙かなる時空の中で」の出会いが約20年前ということに初めて気づいて悲鳴を上げてしまった。助けて! 生まれて初めて時間の流れの速さに戦慄した!

私と「金色のコルダ」

 そんなこんなで「遙かなる時空の中で」の世界に耽溺した私は、2年次への進級に伴って専攻を決める際、国文学を選ぶことになる。いま考えると「完全に将来の実益よりも目先の道楽を重視したな」となるのだが、強く後悔しているわけでもないので、まあこれはこれでよかったのだろうか。
 進学先の大学は都内だが、全国のあちこちから学生が集まる、いわゆるマンモス大学であった。秀才がいればアホもいるし、勝ち組がいれば負け組もいる。陽キャがいれば陰キャもいるし、パリピもいればオタクもいる。一年経つうちに、私の私的な友人は、隠れオタク女子の数名に絞られていった。
 そのうちの一人の友人が、私よりも「遙かなる時空の中で」ひいてはネオロマンスシリーズ作品をよく知っている人物だった。知り合って間もなく「『金色のコルダ』もおもしろいよ!」と勧められた私は、彼女からPC版「金色のコルダ」を借りてプレイすることになる。

 普通科と音楽家が併設された高校で行われる学内音楽コンクール。その参加者として、ヴァイオリン未経験の主人公が抜擢され、妖精が手掛けた魔法のヴァイオリンを手に強力なライバルたちに挑む――というストーリーである。
 コンクールは全4回のセレクション(発表会)に分けて行われ、最終的な順位はその総合成績で決まる。主人公は各セレクションの期日までに楽譜を用意し、楽曲を仕上げなければならない。学校内に現れる妖精を捕まえて楽譜をもらい、楽曲の方向性を決める解釈をもらい、弾き込んでいく。そんな忙しい生活の中で、同じコンクールに取り組むライバルたちや協力者たちと会話したり、あるいは彼らの前で曲を演奏したりすることで、親密度やライバル度などのパラメータが変化し、さまざまな交流イベントが発生するのだ。
 とにかくやることが多く、プレイ時間の密度が濃い。難度の高い本格派のシミュレーションゲームである「金色のコルダ」は、「遙かなる~」と異なり、攻略サイトを見なければまともに恋愛エンディングを迎えることすら難しい。リアルタイムで時間が過ぎていくため、効率的にプレイしようと思うと1秒たりとも無駄にできない。
 だが、「楽曲を弾けるように練習する」「楽曲を自分の好きな解釈で表現する」という、実際の演奏家たちの練習過程を落とし込んだシステムは、斬新で唯一無二の魅力がある。クラシック音楽およびヴァイオリン未経験者の主人公とプレイヤー自身が重なり、コンクール期間を通じて、自ら演奏する喜びや音楽の楽しさを知ることができる、プレイヤーの体験を大事にしたゲームだった。

 友人からの借り物だった「金色のコルダ」は、残念ながら時間をかけてやりこむことはできなかった。その後まもなく発売された「金色のコルダ2」(PS2/2007年)が、私にとってシリーズで最長時間をかけて遊んだタイトルになる。

 前作があまりにもシビアだったためか、プレイヤーが遊びやすいように各種の調整が加えられている。リアルタイムで時間が経過するシステムではなくなり、一日の規定の練習回数をこなすまでは時間が進まない仕様になったのはありがたい。
 うれしかったのは、独奏ではなく合奏がメインに取り扱われるようになり、曲ごとにメンバーを集めてアンサンブルを組めるようになったことだ。複数人で練習や発表(ときにはメンバー間の対立を仲裁)して仲を深めていく中で、自分の知らなかった青春をめいっぱい楽しむことができた。体育祭や文化祭などの学園ものらしいイベントに、期末試験の勉強や誕生日会イベントが賑やかだったのもうれしい。恋愛イベントもロマンチックになり、いよいよ女性向け恋愛ゲームの名を冠するにふさわしい充実の内容になった。

 代替わりした「金色のコルダ3」とその関連作品ももちろん楽しんだが、実際に在籍したこともない星奏学院を第二の母校のように思えるのは、「金色のコルダ」「金色のコルダ2」で四季を一巡する体験をしたためだろうなと感じている。あの校門、あのエントランス、あの音楽室、あの公園は、私たちの青春のありかだった。

私とレジェンド推し

 レジェンド推しとは『マキとマミ~上司が衰退ジャンルのオタ仲間だった話~』に登場する概念で、「その後のオタク人生における好みのキャラの基準となったキャラクター」というものである。

「遙かなる時空の中で3」(PS2/2004年)は、源平合戦をモチーフに展開されるドラマチックで重厚なストーリーと斬新なシステムで、女性向け恋愛ゲーム屈指の名作として数えられている。もちろん、私にとっても人生の中で最も記憶に残るゲームのひとつである。
 その追加ディスクとして発売された「遙かなる時空の中で3 十六夜記」(PS2/2005年)で、これに登場する藤原泰衡に、間違いなくレジェンド推しと呼べる沼り方をしたことを特筆しておく。
※本項目では「遙かなる時空の中で3 十六夜記」の一部エンディングについてのネタバレを含むので、ご留意いただきたい。

「遙かなる時空の中で3 Ultimate」より、泰衡の初登場シーン

 先に述べておくと、「一目で恋に落ちた」とかそういうやつではないし、そもそも攻略対象キャラクターではない。選択肢によっては敵として対峙するキャラクターである。
 主人公である望美とその一行に慇懃無礼な態度を取ってくるこの泰衡は、まあこのゲームを知らなくても名前だけ聞いてピンと来る方もいるだろう。平安時代後期に陸奥国平泉で権勢を誇った奥州藤原氏の四代目で、暗愚ゆえに家を滅ぼした(源頼朝によって滅ぼされた)――と一般的には語られる人物である。もちろん私もそれらの評伝を知っているため、彼の将来に待つ不幸な運命を察知しつつゲームプレイを進めていった。

 だがゲームテキストを読み進めていくと、「十六夜記」に登場する彼は歴史上において語られるような“無能”の泰衡ではないことがわかってくる。感情のままに部下を怒鳴りつけるようなことはしない(めちゃくちゃ嫌味を言うが)し、やることなすこと一見怪しげだが、ひとつずつ紐解いていくといずれも合理的で筋が通っている。ただ絶望的に人望がないのである。
 泰衡の父で藤原家当主である秀衡が暗殺され、泰衡が後を継いで鎌倉軍を迎え撃つことになる。戦いの中で、しだいに泰衡の目的と信念が明かされていく。冷徹な魔王のようないでたちにふさわしからぬ情熱と責任感の持ち主であることが判明するにつれ、私はだいぶ彼のことが好きになってきていた。
 攻略対象とのフラグを立てずに話を進めていくと、泰衡は鎌倉軍を退けることに成功し、平泉に平和が訪れた。皆が平和な春を謳歌する中、ハッピーエンドに終わるかと思われた物語は、泰衡が彼を恨む元配下たちに暗殺されるところで幕切れとなる。だが泰衡は、自らの信念を全うする過程で踏みにじってきた人々の恨みを呑み、画面外のプレイヤー以外の誰にも看取られることなく、後悔することもなく、かつて父と夢見た浄土のような暖かな春の光の中で息絶える。

最期の独語が相克関係にあった父・秀衡へのものだったことも情緒を握りつぶしてくる

もう、萌えとか燃えとか全部通り越して泣いた。歴史物で、“藤原泰衡”である時点で彼の死は予測できていたのに。清濁併せ呑みながらこんなに決然と命を全うできたキャラクターを、私はそれまで知らなかった。
 この「遙かなる時空の中で3」は“戦乱の中で命を落としてしまう相手を歴史改変によって救う”というコンセプトのゲームだが、泰衡を救済する手立ては存在しなかった。一応、特定キャラクターの攻略ルートで誤った選択肢を選ぶと、主人公が泰衡と行動を共にするエンディングに派生するのだが、戦乱は収まらないのでバッドエンドとして扱われる。

 もちろん私以外のユーザーにも人気を博したためだろう、キャラクターソングやグッズ、イベントでの泰衡まわりのファンサービスはサブキャラクターとしては異様なほど充実していた。また、制作側も手ごたえを感じたのか、シリーズ続編には似たようなタイプの攻略可能な男性キャラクターが何人か登場したが、私の中の藤原泰衡のインパクトを越えるキャラクターはその後も現れなかった。

15年越しの攻略

 泰衡の死の場面があまりにも“完成”されていたため、救済手段が公式から提示されなくてむしろよかったと私自身は思っていたが、PSVita移植版(2017年)のDLCで攻略できるようになったとの報を聞いてひっくり返った。

 実に12年越しの恋愛エンディング実装である。「藤原泰衡を攻略可にするということは、マジでこのVita版を“集大成”にするつもりなんだな……」という空気がファンの間で漂った。

 遙か3が名作であることは間違いないので、買わないという選択肢はなかった。Vita持っててプレイしたことない人はいまからでも絶対やった方がいい。シリーズ未経験でも問題ない。戦闘パートはあるがサクサク進んで快適だし、歴史を上書きするシステムと設定を織り交ぜたストーリーはぜひ体験してほしい。
 それはそれとして購入直前まで「攻略できる泰衡なんてヤダ~~~!!!!!」と半ば錯乱した私は、ソフト自体はすぐに購入したものの、DLCを購入・プレイするまでにさらに3年ほど寝かせてしまったわけだが……(寝かすな)

 結論から言うと、結末に少々煩悶したものの、手のひらを盛大に翻し圧倒的感謝を公式に捧げた。
 別に私がチョロいのではない。15年間こじらせたオタクを舐めないでいただきたい。慇懃な態度がほんの少し緩んだ隙に見せる0.1%のデレ成分は、まさに私が好きになった藤原泰衡その人だった。「この人のことが好きすぎて苦しい」という気持ちはまだ私の中に存在した。そしてその泰衡に接近し、彼の内心を読み解きながら心を通じ合わせて、主人公と彼が希求した未来を掴み取る話を、他ならぬゲームという媒体でやってくれたことが何よりもうれしかった……!

 泰衡本人はそのつもりはまったくなかっただろうに、彼の死の場面を見て15年間、私は彼に囚われ続けてきたのだと思う。そして新たに公式からお出しされた彼は、15年間好きでい続けた私を裏切らなかった。これからの人生も安心して彼に囚われ続けることになりそうである。
 しかし他の攻略対象キャラクターには搭載されているおまけの後日談イベントがないのはちょっと悔しいので、いまからでも追加で配信していただけたらなあと思っている。あったらいいな。

私と「スウィートアンジェ」

 と、ここまで書いてきたが、私のネオロマンスとの出会いは冒頭の「遙かなる時空の中で」が初めてではなかった。ゲームボーイしかゲーム機を持っていなかった子どもの頃に、「スウィートアンジェ」(GB/1999年)を遊び倒した時期があったのだ。
 どういう理由でこれを入手したかあまり記憶にないが、たぶんゲームソフトを買ってよいと父か祖父母かに店頭で言われ、「お菓子作りができる」「女の子向け」のゲームという表記を見た当時中学生の自分か、あるいは妹が希望して選んだものだと思う。【2024/09/07 14:00追記】妹から「私が買ってもらったもの」との申告があった。当時はきょうだい間でゲーム機もゲームソフトも共有していたので、私もついでに遊ばせてもらっていたということになる。

 ネオロマンスゲーム第一作である「アンジェリーク」の、学園パロディのすごろくゲームである。お菓子作りができると言っても、すごろくゲームの報酬として入手した“レシピカード”と複数の“材料カード”を組み合わせることでお菓子を作るだけなので、難しい操作は特に必要ないのもよかった。メインはあくまでもすごろくである。ただし、完成したお菓子は採点され、ライバルの少女たちに勝つにはなるべく100点満点に近いお菓子をコンテストに出品しなければならない。材料カードにはランクがあり、高得点のお菓子にはランクが高い材料カードが必要になってくる。
 元のキャラクターや世界観を知らなくてもじゅうぶんに楽しめたので、私も妹も夢中になって遊んだ。後年、ネオロマンスシリーズを知ってから「あれはアンジェリークの派生ソフトだったのか!」と驚きつつ納得したことを覚えている。

女性のためのゲーム

 いわゆる沼入りのきっかけはメディアミックス(アニメ)からではあったが、私にとってネオロマンスの一番の魅力は“女性のためのゲーム”であることだったと思う。「人類の半分は女性なのだから、女性の好みを踏まえたゲームを作れば、女性もゲームを楽しんでくれるはずだ」とのコーエーテクモゲームス・襟川恵子会長の先見の明にまんまと中てられてしまったわけである(下記で紹介するインタビューは非常におもしろい内容なので、ぜひリンク先で全編ご覧いただきたい)。

――でも、海外でも今に至るまで乙女ゲームのような女性向けゲームが確立しているとは言えませんよね。一体、なにを根拠にして会長が可能だと思われたのかが気になるのですが。

恵子氏:
 だって、人類の半分は女性でしょう?
 ゲームが男性だけのものであるはずがない、きっと女の子がドキドキできるゲームを作れば喜んでいただけるとずっと思っていました。女性がパソコンに興味を持つ時代が来ることも、私は信じていましたね。

――つまり、何か具体的なデータがあったわけではなくて、会長のなかにあった”信念”というか、「ゲームが男性だけのものであるはずがない」という強い確信が、世界でも例を見ない女性向けゲームを生み出した?

恵子氏:
 そう言われるとなんだか凄そうですけれども(笑)、仮説を実行しただけです。
 女性の好みをふまえたガーリーなゲームを作れば、女性たちもゲームを絶対に楽しんでくれるはずだと思ったんです。
 やはり、男性と女性の好みは違います。男性は能動的、女性は受動的というところがあって、 女の子には「垂れ流しの文化」のほうが受け入れられやすいというのはあるんです。実際、女性には映画や小説が好きな人は多いけど、男性のように操作したり、自発的に行動を起こすような楽しみ方はどちらかと言えば苦手な人が多いと思います。子供でも、男の子はもう目覚まし時計なんかをバラバラに分解したり、物を投げたり、走りまわったりしていますが、女の子はおままごとやお人形さんごっこを楽しんでいることが多いでしょう。

電ファミニコゲーマー「信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」」

 私自身はもとから歴史物・戦記物が好きだが、襟川会長の分析通り、アクションゲームは特段の理由がなければ選ばない。三つ子の魂百までと言うが、大人になったいまでも、ニンテンドーeショップの新作一覧でゲームを物色する際、きれいでかわいらしいモチーフの画面を見つけるとついクリックしてしまう。

プレイヤーの分身としての主人公の性別

 襟川会長の語る「女性のためのゲーム」とは、一方で「女性が主人公のゲーム」でもある。私がゲームを遊び始めた2000年前後、世の中にはぼちぼち女の子が主体となって遊べるゲームが出始めていた。上述の「スウィートアンジェ」を遊んでいた頃、並行して「きせかえ物語」(GB/1999年)を楽しんでいたのを覚えている。魔法少女がファッションを極めるために1年間人間界で修業するという、女児向けファッションゲームである。

 ネオロマンス作品を含め、最初から女性プレイヤーが自己投影するための女性アバターを主人公に据えたゲームが多数発売される一方、これまで男性アバターの主人公しかなかったゲームが男女の性別を選択できるパターンが増えてくる。

 例えば、ポケットモンスターシリーズ。いわゆる第二世代である「ポケットモンスター 金・銀」(GB/1999年)のマイナーチェンジ版である「ポケットモンスター クリスタル」(GB/2000年)以降、主人公の性別を選べるようになった。ポケモンが爆発的にヒットし、女性プレイヤーも増えたからこその措置だろう。

 牧場物語シリーズも何作か遊んだが、特にやりこんだ「牧場物語2」(N64/1999年)は男性主人公のみだった。「牧場物語GB」(GB/1997年)は主人公性別選択可、「牧場物語GB3 ~ボーイ・ミーツ・ガール~」(GB/2000年)も主人公性別選択可だが、「GB3」では女性主人公でプレイしてプロポーズを受諾するとゲームオーバーになるというのは、いま考えるとだいぶ理不尽である。結婚後もプレイ可能、パートナーの出産イベントを見届けられるのは男性主人公のみなのだ。そりゃまあゲーム内容が妊娠・出産・育児とかみ合わないというのはあるだろうが、もうちょっとこう、なんとかならなかったのか。

 さらに時代が進み、2010年代後半からは、性別と明示はせず、主人公のボディタイプを2種類から選ぶ形式のゲームが増えた。近年私が遊んだ中でも、「ポケットモンスター ソード・シールド」「ファイアーエムブレム 風花雪月」「ファッションドリーマー」は、プレイヤーの分身となる主人公のボディを選ばせるタイプのゲームだった。
 ただし、どちらのボディタイプを選んでも大きな格差が生じないようにするゲーム作りは、ジャンルによってはなかなか難しい。例えばファッションアイテムでキャラクターを着飾っていくことがゲームの主な要素である「ファッションドリーマー」は、男性タイプボディ用のアイテムが少ないことが欠点として指摘されている(異なるボディ用のアイテムを着用することができないため)。

 スマートフォンアプリゲームにおいても、主人公ボディ選択制を採用するタイトルは数多い。これは先に挙げたポケモンシリーズ同様、プレイヤーが男性であっても女性であっても遊びやすいようにという配慮だろう。だが対象を女性に絞った女性向けコンテンツにおいて主人公の性別を選べるタイトルが存在する事実は、女性プレイヤーの求める主人公像や関係性が多様であり、必ずしも男性キャラクターと女性プレイヤーのロマンスを求めているとは限らないことがうかがえる。
 「魔法使いの約束」(2019年~)「18TRIP」(2024年~)で主人公が両性用意されており、ストーリー進行に性別が影響しないため、プレイ中に性別を切り替えることもできる。
 もっと顕著なのは、「刀剣乱舞ONLINE」(2015年~)だろうか。こちらはキャラクターの行動コマンドを決定するプレイヤーを「審神者」と称するのみで、この審神者が男か、女か、若者か、老人か、はたまた人外の生き物か、あらゆるプレイヤーのイメージを許容できる存在になっている。

自己肯定につながるゲームプレイ

 ゲームの楽しみというのはいろいろあるが、これまでシミュレーションゲームやアドベンチャーゲームを中心に遊んできた私は、ゲームに“与えられたタスクを解決する楽しみ”を見出してきたと思う。
 ゲームは、プレイヤーに対し、短期間で解決できるタスクを用意してくれる。プレイヤーがタスクに取り組み、楽しんだり苦労したりしながら解決すると、ゲーム内でなんらかの報酬が与えられる。このときプレイヤーは、報酬と同時に達成感を得てもいる。私個人の経験からくる実感としては、この達成感は自己肯定感の向上にもつながっていると思う。

(ゲームを遊ぶことによって得られる自己肯定感についての学術研究があるのではないかと考えて日本語・英語で検索してみたが、たまたま見つけた上記の記事以外に類似の内容が見当たらなかった。あればぜひご教示いただきたい)

 ネオロマンスでは、この報酬を、魅力的なキャラクターからのアプローチという形で実現する。「よし、褒められた! じゃあ次の仕事もがんばってみよう」とプレイヤーの努力につながる。そうしてタスクを積み重ねていく中で、プレイヤーとキャラクターの間には確実に愛着や信頼といったものが醸成されていく。ネオロマンスは、この循環システムを構築するのが抜群にうまいのである。
 単にストーリーを受容するだけなら、小説や漫画を読んでいるのとさほど変わらない。だがシミュレーションゲームやアドベンチャーゲームではプレイヤーが主体となってゲーム内で選択したコマンドに対し、キャラクターからのレスポンスがある。だから楽しいし、自己肯定感が上がる。
 こうしたゲームシステムや楽しさについて、アンジェリークシリーズの最新作「アンジェリーク ルミナライズ」(NS/2021年)発売時のインタビューでは下記のように語られている。

伊藤氏:
 いつもお話しているのですが,ゲームシステムです。アンジェリークのゲームシステムは本当によくできていて,ゲームデザインは初代の時点で完成していると思っています。アンジェリークの主人公はパラメータを持っていないんですよ。主人公である“私”がまずそこにいて,“認められている”状態からお話がスタートするんです。
 ゲームの中にはひたすら孤独にパラメータを上げ続けて,ようやく認めてもらえるようになるものもありますよね。それはそれで楽しいんですが,アンジェは1日めから“女王候補”として認められているんです。
 神のような存在である守護聖が自分の話を丁寧に聞いてくれて,「今日は何がしたい?」とたずねてくれて……それが毎日続いていくと,“認められた”気持ちになって,すごく承認欲求が満たされる。そんなふうに気持ちを満たしてくれるデザインの女性ゲームって,ほかにないんですよ。
4Gamer:
 確かに,そこはアンジェリークの大きな特徴ですね。プレイしていると自己肯定感が高まります

4Gamer「女性向けゲームの先駆者は,シリーズ18年ぶりの最新作で今の女性とどう向き合ったのか。「アンジェリーク ルミナライズ」開発者インタビュー」

 こちらのインタビューでは「アンジェリーク」シリーズでの主人公の立場について語られている。他のネオロマンス作品のゲーム序盤でメインキャラクターの承認を受けられない主人公の方が多数派であるので、確かに「アンジェリーク」の主人公承認状態は大きな特徴のひとつとなっている。ただ、「努力に応じて認めてもらえる、褒められる」という土台の部分は全ネオロマンス作品に共通していると感じる。

女性としての自認がある自分が、女性主人公として受容され、女性のためにつくられた世界の中で与えられた役割をこなし、選択と努力を積み重ねて肯定される――思い返せば初めて「遙かなる時空の中で」を遊んだときに私が感じた楽しさは、この部分にあったのだと思う。
 それはすなわち、人生の縮図ということになりはしまいか。人生は、選択と努力が連綿と続いていく日々のことなのだから。ネオロマンスゲームのユーザーが、「(各自が好きなネオロマンス作品)は人生」といったような表現をすることをときどき見かけるのだが、これは、ネオロマンス作品群がゲームを通じて人生とか人間の生き方を描いているからなのだろうなと私は想像している。

私とネオロマンスのこれから

 ネオロマンスについていろいろ思い返して書いてみたらずいぶんと長くなってしまったが、これでも内容を取捨選択しているつもりである。「遙かなる時空の中で」「金色のコルダ」はシリーズ作品の大半をプレイし、アニメやコミカライズも読んだ。「下天の華」「アンジェリーク ルミナライズ」も楽しく遊んだ。キャラクターソングやドラマが収録されたCDをレンタルショップであさったし、パシフィコ横浜で開催された声優イベントに何度も参加した。友人と聖地巡礼旅行にも行き、二次創作もした。他のコンテンツと並行することが多かったが、冒頭で書いたあの偶然の出会い以降、自分のオタク人生のあちこちにネオロマンスの存在があった。

 2000年代後半からは女性のための恋愛ゲームが増えていくが、その多くは複雑なシステムを必要としない、テキストメインの単純なアドベンチャー形式を中心とするものへ収斂していく。やがて乙女ゲームと呼称されるようになったこれらの作品群は、プレイヤーの要求によって【優れたビジュアル】【ドラマチックで甘いシナリオ】【人気声優のキャスティング】【プレイのしやすさ】を充実させる方向へ舵を取る。結果、乙女ゲームは高性能の専用ゲーム機を使用するコンシューマーゲームではなく、スマートフォンアプリの形式で提供されることが増えてきた。

 初代「アンジェリーク」を筆頭にシミュレーションゲームの性質が強かったネオロマンスゲームも、乙女ゲームのひとつとして捉えられるようになる。その結果、ここ10年ほどの作品では、周回プレイの妨げとなる複雑なシミュレーションシステムはオミットされ、シナリオ展開もスピーディーかつドラマチックになってきたように感じている。
 おそらく古参ファンに属するであろう私からしてみれば、歯ごたえのある昔のネオロマンス作品が懐かしいが、娯楽産業が消費者の余暇を奪い合う2020年代にかつての流行のじっくり型のゲームスタイルが適合しないのはよくわかる。私自身年を取ったし、日々の仕事・家事・育児をこなしながら本格的なシミュレーションゲームを十分にプレイする時間を確保するのは難しい。どころか、ゲーム機を起動させることすらできない日もしょっちゅうある。

 「金色のコルダ」シリーズの最新作がコンシューマーゲームではなく、iOS/Androidアプリ「金色のコルダ スターライトオーケストラ」として配信されたのも、多忙な消費者の生活スタイルに合わせた結果だったことが理解できる。2024年3月でサービスが終了したが、時代に伴って流行・常識が変化しても、昔と変わらずプレイヤーの生き方を支えてくれるストーリーを定期的に提供してもらえたのは、本当にありがたかったと思う。
 ちなみにこの「スタオケ」はネオロマンスシリーズのロゴが入っておらず、乙女ゲームというよりは、対象をライト層に広げた、恋愛に特化しない女性向けコンテンツとして開発されたらしいことがうかがえる。女性向け恋愛ゲーム市場の縮小と女性向けコンテンツ全体のカジュアル化が進んだ現在、ネオロマンスゲームの開発元であるルビーパーティーの取り扱うコンテンツの幅を広げるのは、妥当な流れだろう。

 任天堂とルビーパーティーが共同開発したアドベンチャーゲーム「バディミッションBOND」(NS/2021年)が、シナリオとキャラクターにおいて高い評価を得たことは記憶に新しい。当初は女性を主人公とした恋愛アドベンチャーとして動いていた企画が、「恋愛に限らず、多様な絆を描く」という方針に変更された結果、バディ物のアドベンチャーになったという。このほかにも、「刀剣乱舞無双」(NS/2022年)「Rise of the Ronin」(PS5/2024年)といったタイトルでルビーパーティーのスタッフが開発に協力して高い評価を得ていると聞き、個人的には喜ばしいことだと思っている。藤原泰衡で打ちのめされた経験からして、ネオロマンスゲームのテキストのよさが、普段恋愛ゲームを遊ばないプレイヤーにも届かないものかと感じていたからだ。
 女性向け恋愛ゲームとしてのネオロマンスの誕生から30年が経つ現在、女性の人生における恋愛は、絶対的なものではなくなった。コンピューターゲームをプレイする女性の絶対数は増えても、明確に恋愛と銘打ったコミュニケーションを目的にプレイする女性は多くない。そんな状況で多様化するファンの要望に応じた内容を展開するのは、簡単ではないだろう。何目線か自分でもわからないが、半ば同情したくなるときがある。

 ネオロマンスゲームは時代に合わせて変化し、私自身も成人してライフステージが変化した。20年近くプレイしてきた中で、そのすべてのコンテンツを網羅しているわけではないにしても、ネオロマンスゲームの根底は変わっておらず、私たちの人生に寄り添ったものを提供してくれているし、今後もきっとそうしてくれるだろうという実感がある。信頼と言っていい。人生の大事な友人として、あるいはしんどいときの癒やしとして、あるいはここぞというときのカンフル剤として、次の30年も(30年も!?!?!?)よいおつきあいをしていきたいと思っている。

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