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球場巡礼 第1番 「雁の巣球場」

雁ノ巣インフォ

1996.8.16

雁ノ巣正面

雁の巣にホークスみたり蝉しぐれ

 5ならびとは巡礼の初日に乗る一番列車にはまたとない縁起のよさ。乗り継ぎを調べた夜に時刻表を片手にほくそ笑んだ午前5時55分広島発の小郡行は、改札口の上にかかった案内盤で4番ホームからの発車とわかった。
 ホームに向かう前にたすきがけのショルダーバッグ抱え直したのは、いざ旅立ちという芝居がかったポーズ、みずから巡礼を気取った旅行の第一歩をもったいぶってみたのだが、われながら滑稽ではあった。
 エスカレーターを使うのは巡礼には安易というもの、階段のぼって高架を渡り、4番ホームに下りてみれば、ひと気のないプラットホームは、早朝の薄明かりのなかで、ぼんやりと寝ぼけて見えた。
 構内を移動する人影の影は薄く「ここが冥界じゃ」といわれれば、素直にうなずいてしまいかねない白っちゃけた光景。縁起のいい電車はまだホームに入ってはいなかった。

 目的地は雁の巣球場、広島駅から各駅停車を乗り継いで行っても午後1時プレイボールの試合に間に合うはず。出発までの数十分の時間をもてあますことになったおれは、とりあえず自販機に詣でて、投入口から110円の賽銭を入れて『麦茶』のボタンを押す。自販機の霊験はあらたかにして、ご利益は迅速、ガッタンと音がして、たちどころにひと缶の麦茶が転がり出た。

 山陽本線下り5時55分発の小郡行が有り難い球場巡礼の初列車となったのだが世間ではただの通勤電車、まさか車内販売のサービスはないだろうから、道中のどが乾いたときの備えで、つまりはお守りがわり。夏真っ盛りとはいえ、まだ暑気の気配すらない早朝、手にした缶は思いのほか冷たく咄嗟にボール弄ぶように二、三回投げあげてみる。そして、先発ピッチャーがマウンドに向かうようなゆったりとした歩みで、地下通路への階段口まで行くと、コンクリートの桟にそれを置き、肩からショルダーバッグをおろした。

 1泊2日の旅行の携帯品のカサから、たまたま選んだその色褪せた黒い布製のバッグ、しげしげと眺めれば、それはまるで雲水が提げている頭陀袋に見えないこともなかった。中には着替えのTシャツとパンツ、手ぬぐい2本と、何年ぶりかで引っ張り出してきたニコンの一眼レフ、サイドのポケットには、内田百閒の『阿房列車』一、二巻の文庫本と時刻表が入っている。  
 装束はデニムのジーンズにTシャツ姿。頭には黒の野球キャップのせ、羽織った花柄のサマージャケットのポケットには息子にかりたスポーツタイマー忍ばせ、ストラップの黒い紐はさしずめ数珠といったところか。

DREAMFIELDイメージ

 Tシャツには野球場の外野フェンス、といってもトウモロコシ畑だが、胸のあたりにプリントしてあって、日光に当たるとユニフォーム姿のゴーストたちが登場する仕掛け。映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となったアメリカのアイオワ州にある『フィールド・オブ・ドリームス球場』のグッズとかで、映画にエキストラ出演したメンバーたちがつくったゴースト・プレイヤーズというチームを仲間とつくった野球場『ドリームフィールド』に前年の5月に招いてくれたK氏から譲りうけたものだった。

 向かいのホームを行き来する駅員やホームで餌をあさる鳩の姿を何気なく眺めたり、高架からたまに姿を見せる人影を追ったりしていたが、ふと気になって先刻改札で提示した青春18きっぷの所在確かめる。
 脇腹のウェストポーチを腹の前に回し、猿が蚤をとるような格好でまさぐると、チケットはサイドポケットにおとなしくおさまっていた。そのプラスチック製のカードをつまみだし、暇つぶしに仔細に眺める。

『 企 青春18きっぷ (普通列車乗車券) 旅客鉄道会社全線(特急(新幹線含む)急行列車及び自動車線を除く) 利用期間は平成8年7月20日から同年9月10日まで。各回(人)とも当日限り有効』

 とあって5回、つまり5日分のスタンプを押すスペースが並んでいる。値段は1万1300円で、これで5日間、JRの各駅停車ならいくらでも乗り継げる、いわばフリーパスのチケット。

 このきっぷの存在を知ったのはたしか十数年前、コピーライターをしていた頃のことで、JR西日本の商品広告を依頼され、どんなチラシ広告をつくったかの記憶は定かではないが、こりゃめっけものの企画商品、いつか使ってやろうと目輝かしたことは鮮明に覚えていた。
 どっこい、ついにこのきっぷで旅行する機会はきょうの日までなく、つい先日、とつぜん全国の野球場を見て歩こうと思い立ったとき、あれがあったと突然ひらめき、不惑を過ぎてやっと叶った青春18きっぷの旅。ついに手を握ることもなく別れた初恋の人と、十数年ぶりに結ばれたような心境といえばいいか。

 おれからは奈落に見える階段の底から、にわかに物音わきたち、のり出してみれば思いもかけなかった一群の乗客。リュック背負ったアベックや手荷物持った中年、行商らしい老婆、盆の8月16日のこととて、墓参の客も混じるのだろう、山門めざす巡礼団よろしく一目散にステップをのぼって来た。  
 突然にぎやかになったプラットホームの客に気おされ、あさましくも座席のことを心配していた目の前に広島駅で折り返し運転となる各駅停車小郡行のクリーム色の車両が滑り込んできた。ドアーが間の抜けたあくびをするように降車客を吐き出し、かわって西下するひとびとを呑み込む。2両目の進行方向右側の空いたボックスに席を確保し、時刻表と百閒を取り出してからショルダーバッグを棚に置き、麦茶の缶を窓の手前の小さなテーブルに供えて腰をおろした。

 ほどなく定刻の5時55分となって発車のベルが鳴り、列車は走り出した。
 ごっうっとん、ぐぅわったん、ふぁっとん、と古典的な三三七拍子のリズムでのんびりとスピードをあげはじめたかと思う間もなく、巡礼列車はブレーキをかけ、やがてゆるやかに停止した。走行距離にして3キロ、所要時間3分であわただしくつぎの駅、横川駅に到着。どやどやと客が乗りこんできて、おれのボックス席には3人の若い男が無言のまま座る。  
 正面にラルフローレンのTシャツが窮屈そうに座り、隣に紫のパンツ紺のノースリーブ、これはおれに背中を向けて目を閉じ眠りはじめ、その前の男は眠そびれて物思いにふける。これから夜遊びに疲れたからだを休ませようとする若者たちと、いまから野球場を巡って歩こうというヘンテコリンな中年男を同乗させて、列車はふたたび牧歌的なアフタービートを刻みはじめた。  

 ほぼ2、3分、長くても5分間隔で列車は停車し、もったいぶってドアーを開け、「ピーーー」という駅員の間のびした笛を合図にそれを閉める。この一連の段取りが一定のリズムになってからだに馴染んできたころ、ほのかな旅情が芽生える。おつむに旅情が膨らめば、そのぶん日常が縮むのは道理で、窓枠に肘をついてぼんやりと景色を追っていたおれは、とりとめのない思いにひたりはじめる。

DFスタンド

ーそれにしても、野球場を巡り歩いて、なんになるのか?   
 まだ拭いきれない寝ぼけ頭に、かすかな迷いがよぎる。  
 つい魔がさしたとはいえ、じぶんで野球場をつくってしまったからには、野球場に興味を持つようになったのは自然のなりゆき。たまにテレビのナイター中継を観ても、ついつい視線はダイアモンドと外野の芝生の手入れの状態、グラウンドとフェンスのたたずまい、スタンドの様子に走りがち。
 それが習い性になると、選手たちの陰影の輪郭が濃くなったように野球がちがった印象で見えてきた。すると、いままでの何十何百と目にしたゲームで、なにか大事なものを見損っていたのではないかという淡い後悔の念がわくようになった。
 世界中の女とセックスができるわけではないのと同様、この世で行われるすべての試合を観戦できるわけではない。だがその少ない機会にも、ただ漫然とプレイを眺めていただけで、ほんとうには野球観戦を楽しめていなかったのではないか、そんな悔いがあった。

 宮島口駅の手前で列車の騒音にお義理で驚いてみせた7、8羽のカラスが朝食のゴミ漁りをしていた地面から舞い立ち、人家の屋根に止まった。その漆黒のからだを横ざまに射る陽射しがようやく赤味を帯びてきていた。
 つぎの大野浦駅を過ぎたあたりから人家が途絶えて景色は一変し、反射的に反対側の窓をのぞけば、宮島沖の海が黄金色に光り、その先に広がる化学コンビナートの煙突のいくつかが白い煙をあげていた。

 ことしを最後に、近鉄バファローズの藤井寺球場、中日ドラゴンズのナゴヤ球場、それぞれの本拠地球場がドームへと変わることになっていた。両球場でのゲームを見ておきたい、いやどうせなら、ついでのことに全国縦断球場巡礼としゃれてみるか、そう勢い込んだのがそもそも今回の道中の発端。最初の巡礼地を九州方面にしたのは、とにかく平和台球場を見ておきたかったからだ。  
 いまはすでにプロ野球の球場としての使命を終えていることは聞いていた。しかし、いま存在しているのかどうかは知らなかった。だが、たとえ壊されていたとしても、現地には行って見たかった。同時代の体験として観ることが叶わなかった昭和30年代の黄金期の西鉄ライオンズ。現在の管理野球とは対極にあったようなチームがホームグラウンドにしていた球場。プロ野球が、ドームなどという、さもしい空間でされるようになる前に幕を閉じた球場。その残り香だけでも嗅いでみたかったのだ。  

 身売りして所沢に移ったライオンズに代わって福岡をフランチャイズにしたホークスのファームが、きょう雁の巣球場でデイゲームをする。相手はブルーウェーブ。その試合を観てから博多湾を渡って福岡ドームへと足を運ぶ。ここではホークス、ブルーウェーブの一軍戦がナイターであり、つまりきょうのメニューはホークス、ブルーウェーブの親子丼。それを味わってから、あした平和台球場にまわるつもりだ。  

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