100回すべての選手たちに
この夏の大会で全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は100回を数える。
今はそれほど熱心に注視しているわけではないが、中高生の頃はテレビに釘付けになって観戦していたものだ。
100回と知っての遊びで「甲子園私のベスト100」を上げてみようと列挙してみた。
しかし記憶の中から名前が出てきたのは70人たらずだった。
もっとも衝撃を受けたのは、やはり栃木県・作新学院の江川卓で、練習での初球を見た時、あまりの早さに背筋が凍ったようになったのを覚えている。
まったくバットにかすらせもせずに三振を3つ奪って、何事もなかったかのように平然とマウンドからもどってくる滑るような走り、そして円陣に加わった後ろ姿の大きな耳の印象とともに、あの甲子園での江川を忘れることはできない。
また、もっとも衝撃的だったのは青森・三沢高の太田幸司のフィーバーで、あんな騒動は後にも先にも記憶にない。
調べてみると、この太田のときが、ちょうど第50回の節目だった。
PLの清原和博、桑田真澄のKKコンビが甲子園を騒がせたのが第66回大会。
そして松坂大輔が怪腕ぶりを見せつけたのは80回大会。もう20年も前のことになるのだった。
先の70人のリストに「衣笠祥雄」の名前は出なかった。衣笠さんが甲子園に出た昭和39年の第46回大会。このときぼくは11才。すでにこの頃からテレビ観戦はしていたようで、翌年に甲子園を沸かせた銚子商高のエース木樽正明投手のマウンドは、微かに記憶があるのだ。
ということは名門平安高の捕手としてブラウン管で「衣笠」という選手は見ていた可能性はあるのだが、まったく記憶にはなかった。「4番、強打の衣笠、バッターボックスに入りました」そんなアナウンスも聞いたのかもしれないが、11才の耳にそれは残ることはなく、その他大勢の中のひとりとして見逃してしまっていたのだろう。
衣笠さんは3年次に春夏連続して甲子園に出場しているものの、スタンドに白球を打ち込むこともなく、ヒットを何本か打った程度。本人も記憶に残るような結果を残せなかったと自覚されていた。
そんなこともあってのことか、衣笠さんにとって甲子園は「入場行進が最も印象に残った」という。それで生前は「必ず入場行進だけは見ていた」と語っていた。
話題の選手も図抜けた才能も関係なく、「甲子園出場」という栄誉を胸に等しくグラウンドに立って行進できる。そのことに意義を感じていた衣笠さん。あらためて彼の人間の大きさ、優しさが蘇ってくるようだ。
すでにこちらも両手を挙げて甲子園を賛美できるような歳ではなくなったが、今年の大会の入場行進は、きっとこれまでとは違った景色としてわが目に映じることだろう。
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