暗闇のシロ

瞳の奥に

日本代表がコロンビアを下して、W杯で南米の国に初めて勝利。「サッカーの歴史を塗り替えた」といわれる翌日。
早朝に用足しにトイレに立つと、玄関で横になっているシロはこちらの興奮も知らぬ気に背中を向けたまま微動だにしない。

最近はこんなとき、つい「まさか!」と思ってしまう自分がいて(笑)、縁起でもないと自分を戒めること再々だ。
だいたい、そうなったら気配はあるもので、すぐにわかるはずだ。

気配といえば、最近、デスクワークの息抜きに千日回峰行の映像をよく観ていて、ある修行僧が9日間の不眠不休断食断水の堂入りの荒業に挑んでいるドキュメンタリーで、何日目かに「死臭がした」というのを思い出した。

彼らは死にギリギリまで近づいて生還することによって阿闍梨となる。その成否の境に死臭が漂うのだろう。

ユーチューブなので関連付けられた動画が次々に出てくるから、それらを観ながらデスクワークをしているうちに、かつてリアルタイムで観た記憶がある酒井阿闍梨が比叡山を天狗のように駆け回っている光景がパソコン画面に映った。

何気なく観ている視界を、ふと犬の影がよぎった。
それで意識をパソコンの画面に集中するとシロとそっくりな犬が誇らしげに、また愉しそうに酒井阿闍梨を先導して山を駆け巡っている。

それからは引き込まれるように、また微笑みながらしばらくその番組を注視していた。

たしか何十年か前に観ていたはずだが、犬の記憶はまったくなかった。
シロとそっくりな犬はもちろん白い犬で、その親の黒犬と、息子の茶色の3頭が交代するように阿闍梨を先導しているのだ、とナレーションではいっていた。

見事な配剤ではないか。
黒・白・茶の三代で阿闍梨を先導しているというのだ。まさに神仏の使いというしかない。

それを実感したシーンが番組の中にあった。
酒井阿闍梨は行のひとつとして京都市内もまわることがあって、その道中で沿道にかしづく信者の頭に数珠をかざして加持祈祷をしながら歩く。
ある場面で、何人かが並んで待ち構えたところにシロが先導して酒井阿闍梨がやってきた。
阿闍梨が信者の頭につぎつぎと数珠をかざす傍で、なんとシロは嬉しそうに尻尾を振って、からだを摺り寄せるように信者たちの周りをひと回りしたのだった。

それがシロなりの加持祈祷であることはすぐにわかった。
酒井阿闍梨の行為の意味を彼か彼女は知っていて、自分もそれに習ってやっているのだ。

まさに「寿げ、ワンワン!」だ。

もしかして犬の知性や能力、人間との関係性の深さを僕たちは侮っているのかもしれない。
その光景を見ながら、そう思った。

シロを飼っていて、それらしいことは感じている。彼女が僕と野性とをつないでくれる神の使いのような存在か、と思うことがあるのだ。

いつだったかシロの瞳を見つめていたら、その奥に広大無辺な野性が潜んでいて、彼女を通してそこにつながったのを実感したことがあった。
たぶんシロは自然との仲立ちをしてくれる存在でもあるのだろう。

犬は愛玩動物という存在にとどまらず、どこか人間とは宿命的な関係性を持っている。
そのことを意識している愛犬家も少なくはないだろう。




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