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微分で身に着ける努力の自己管理

何回かに分けて、「微分には何の意味があるのか」という記事を書いてきました。(↓はその初回記事)

中学・高校と、いつの世代でも、受験勉強にいそしむ生徒たちに立ちはだかる数学。多くの生徒が苦しめられ、受験を終えたら二度と関わるものかと固く心に誓う人も少なからずいると思います。

一部の理系に進む人たちは、その能力を活用して、専門職をこなしたり、研究職に就いたりします。彼らならきっと、数学の価値について答えられるでしょう。

微分ができなければ、現代の高度技術の発達はありえない。家電もパソコンもスマホも、微分を始めとした基礎理論の土台の上に成り立っている。

とかそんな感じに。
しかし、彼らが知る数学の価値は、大抵の場合、数学にトラウマを抱えて巣立った人たちと共有されることはありません。

中高の6年間をかけ、苦しみを伴いながら学んできたのに、その努力をその後に活かさないというのは、何とももったいないのではないか。今、テーマに取り上げた微分にしても、誰にでも共感できる学ぶ意義が見いだせないだろうか。

今日は、そんなことに思いを馳せ、微分の意味を考えてみました。

傾きを計算するのが微分

微分と傾きについて深掘りした記事は、こちらにあります。傾きと言われてもピンとこない方はクリックしてみてください。

微分が扱う「傾き」が、何の傾きかは問いません。何でもありです。
計算できるかどうかは別にして、あらゆるものは日々移ろいゆき、移ろいゆく以上、変化には傾きがあるのは事実です。

そのことについて考える視点を与えるのが、微分を学ぶ本質ではないかと思います。

努力を縦軸にしたグラフを考えてみる

その努力、成果は、日々変化していきます。例えばこんな感じ。

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順調な右肩上がり。この時、努力という関数 f(t) を時間 t で微分することを考えた時、

f’(t) = 5 とか、f’(t) = 3 とか・・・、f’(t) = 定数 の形になってます。

定数の値が大きければ、傾きは大きく(成長が早い)、小さければ傾きは小さい(成長が遅い)という理解ができます。

いずれにしても言えるのは、f(t) が右肩上がりであるためには、時間で微分した f’(t) が、何かしらの正の値だということです。

定数というと、なんかしょぼい感じがするかもしれませんが、そんなことはありません。3日坊主の努力ではなく、毎日欠かさずやるということを意味します。f’(t) = 定数 の努力を言葉で表すなら、「継続は力なり」。並大抵のことではありません。

アスリートだったら、腹筋100回/日、縄跳び1000回/日、走り込み10km/日とかいったトレーニングメニューを毎日欠かさずやるということです。大変な努力ですが、右肩上がりの直線的な成果の伸びを実現するには、必要なことと言えます。

そう考えれば、

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軽はずみにこういう成長を妄想するのは、慎重になるべきかもしれません。この場合、f’(t) は日を追うごとに大きくなります。毎日のトレーニングメニューが、どんどん大変になるわけです。

できない妄想は、いずれ挫折をよびかねません。勢いに任せてがむしゃらに頑張り、結果、3日坊主で終わっては、やらないのと変わりません。多少余力を残す分量でも、毎日続けられるメニューにすることはとても大事といえるでしょう。

気をつけないといけないのは、こういうの ↓

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日を追うごとに、伸び悩み始めている。伸びているには伸びているが、伸び幅がだんだん小さくなっている。一応成果が伸びているからと言って、安心してはいけない。自身の f’(t) と向き合い、その現実を直視するならば、一旦、これからのやり方を考える必要があるでしょう。

飽きてきて頑張れないのか、今の方法で身に就く効果の限界なのか、だから別の方法を考えないといけないのか。とか。

少し高度な微分の表現をすれば、f’’(t) は既にマイナスになっています。

こういう時、線が右肩下がりにならないうちに、自己の立て直したいものです。

f(t) なんて計算できないのが現実の世界

グラフイメージを示して、それっぽいことを書きましたが、大抵のことはグラフかなんかできません。

しかし、振り返ってみれば、だからこそ、学校での勉強って重要だったのかなと思います。

定期的にある試験。ある試験が終わり、次の試験までの間、勉強したりしなかったり。。。f(t)f’(t) 計測なんかできませんが、自身の肌感覚としては、確実に記憶されます。そして、試験結果が出ます。試験結果はある意味 f(t) の計測値です。

自分の努力 f’(t) (←計測不可能だが、経験として感覚は残る)が、どのレベルで日々推移し、f(t) (←試験結果で計測可能)となるか。学生時代の勉強は、その感覚を養うトレーニングと捉える方もあったのではないか。

学生時代を終えるまでに、このようなイメージで、

今日の自分の努力は及第点か否か

を、管理できる訓練を積めたなら、それは世の中に出てからもあらゆることに応用が利きそうです。

高校2年で学ぶ微分を、こんなふうに自身の努力の概念に解釈できたら、高校3年の1年間は実りある時間になるのでは、そんな気がしました。

まとめ

微分の学習から、自身の努力の時間微分という視点を見出せたら、意義深いものがみいだせるのではないか。

抽象的で、無味乾燥な数学のグラフは、縦軸を自分に関わることに設定することで、自分にいろいろ示唆を与えてくれるのではないかと思えます。

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