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大和王権の氏姓制度を少し調べたメモ2

前回の記事に引き続き、大和王権の姓について調べた内容をメモにしていきます。前回、臣と連についてまとめたので、今回は伴造、国造、百八十部、県主についてまとめていこうと思います。

伴造

大雑把に言って、連の下部組織に位置づけられる役職のようです。伴造の上層部は連とオーバーラップしているところもあり、例えば、弓削氏は連にも伴造にもみられます。

伴造の「伴」はお供の「とも」で、大王に奉仕するの意味、「造」は集団の長という意味があります。伴造は、「部(べ)」という各分野の技術職を統括する役目のようです。それぞれの職掌を持つ豪族を束ね、大和王権に奉仕するのが、伴造の位置付けということです。

伴造には、秦(はた)氏、東漢(やまとのあや)氏、西文(かわちのふみ)氏などの渡来系の氏族のほか、弓削(ゆげ)氏、矢集(やずめ)氏、服部(はとり)氏、犬養氏、舂米(つきしね)氏、倭文(しとり)氏などがあったようです。

国内の伴造の氏族名は、氏に用いられる漢字で、大体何の専門職か読み取れますね。

百八十部(ももあまりやそのとも)

国造の前に、こちらから紹介します。

先ほど、各分野の技術職を「部(べ)」と呼ぶということを書きましたが、その総称がこれにあたります。恐らく、「百(もも)」も「八十(やそ)」も、「数ある」「たくさんの」というような意味合いで用いられていると考えられ、「百八十」を「ももあまりやそ」と読むのは、180という数字的な意味ではなく、百でも八十でもどちらでもいいけどとにかくたくさん、というような意味かなと思います。

国造

地方豪族の長を指します。それぞれの地方の国を治める豪族が国造となり、国内の軍事・裁判権等を認められ、自治権を与えられました。公家時代の国司・郡司、武家時代の守護・地頭とかの前身にあたる役回りのように思います。

個人的には、この職掌には非常に興味があります。徴税権があったかどうかについて、可能なら深掘りしてみたいかな。確か、室町時代の守護大名の台頭は、守護・地頭の役割分担が崩れ、守護に権力が集中したことに起因していたと思います。この辺、各時代の地方の自治がどのようになされていたか、知りたいと思ってます。

国造は結構複雑そうなので、もう一つ独立の記事を設けて、まとめていきます。

県主(あがたぬし)

国造の下部に位置し、国の中のさらに小さな地方単位を治めた氏族になります。ただし、その起源は国造よりも古いとされています。「みやつこ」という言葉に対し、「ぬし」という言葉はより古く、大和王権の支配体制以前からの土着の有力者がこれにあたるようです。

造(みやつこ)が朝廷の官職であるのに対し、県主は官職ではないようで、その点からも、県主の土着性が見て取れます。県主の氏族名は、地方の名前がそのままついているようです。

時代が下るにつれ、中央の支配体制に組み込まれる過程で、各地の土地柄は中央の文化に影響を受け、徐々に均質化していくものと思います。現代はその最たるもので、JRの駅前の風景が、どの駅でもあまり変わらないというような状況もその観点で言えるかと思いますが、逆に、中央の影響をまだほとんど受けない純粋な意味での地方の特色というのは、県(あがた)の単位が残るこの時代だったのかなと思います。

弥生時代に百国以上の小国に分かれ、互いに相争っていたとされる時代の小国が、多分この県に相当するだろうと思ってます。内容の真偽は一旦措いておいて、神武東征とかの内容を紐解いていくと、県の雰囲気が分かるものでしょうかね。



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