青春は遠くに在りて思うもの -『タッチ』を読んで

妻のオススメで休業の暇な時間を使ってあだち充の「タッチ」を読んでみた。
読んだのは少年サンデーコミックス ワイド版 全11巻。11時位に読み始めて18時位に読了。本を読むのはかなり遅い方なのだけど一気に読み切れた。
アニメはちょっと苦手意識があって見てないし連載当時も週刊漫画雑誌は暗黙の内に禁止されていた家だったので読んでいない。これが初読になる。
さすがに一時代を築いた作品だけあって大変面白かった。
面白いだけでなく、語り口が絶妙なんだなあとも思った。本を読むスピードは内容ももちろんだけど語り口にかなり左右される。つまらない本でも語り口が上手ければサラサラと読めてしまうし、面白い本でも語り口によってはじっくり読まないと咀嚼できない場合がよくある。
「タッチ」は面白くて、でもサラサラと読める本だった。11巻まで割とあっという間だった。何故だろう。
まあ、検索すればその辺りを解きほぐした「あだち充論」はたくさんあるだろうし、それらを読めばスッキリするのだろうと思うけど、せっかく時間もあるので少し自分なりに考えてみたいと思う。
なおネタバレを含むので、まだ未読の方はお気をつけ下さい。

「タッチ」というタイトル

ワイド版1巻の3分の2位(P337)のところに、達也と南が喧嘩していた時に和也がやってきて、達也が和也に「タッチ」して部屋から退散するシーンがある。タッチ交代の方のタッチ。
これを見た時、初めて「ああ、タッチってバトンタッチ交代のタッチか!」と思った。
他のシーンでももしかしてあるのかも知れないけど私が見つけたのはそこだけ。作品通して「タッチ」という言葉は他のシーンでは出て来ない様に思う。それに、「タッチ交代」の意味合いで納得出来たのは、その後の三人の運命がわかっているからで、連載当時、私がこのシーンを見て「ああ、そういうことか。」と納得できたとは思えない。ただ読み飛ばしていただろうと思う。
ともあれ、その視点で読み始めると非常にしっくりと読みすすめることが出来た。

と同時に、これまで私は「タッチ」をボディタッチなどの方のタッチとして認識していたことに気がついた。
内容を知る人にとっては笑い話だろう。相当プラトニックな話なのだが、当時の読まず嫌いの私はちょっとエッチな話なのかと勝手に勘違いし苦手意識を抱いていた。だってアニメの主題歌でも言ってるもん。言いがかりとは思うけど、あの歌詞を聞いてボディタッチを想像したことの無い人だけが石を投げなさい。

いや、言いたいのはつまり、「タッチ」というタイトルが「タッチ交代」を意味するものだということも、作品の中では特に明示されていないのだ。
ちなみにゲッサン2016年11月号の対談であだち充自身が「タイトルの『タッチ』は『バトンタッチ』の『タッチ』だから」と断言してるらしい。バトンタッチということで言うなら運動会でのバトンリレーのシーンはあった。けど、その時だって、それ自体がテーマだという感じさせるような描写は無かったように思う。

昨今のラノベやマンガでは、第一巻でタイトルの意味がわからない作品はほとんどない。何らかの形で、タイトルの意味が明示される。作品によっては第1話冒頭でタイトルの説明がなされたりもする。
一方当時は、そういう面では不親切な作品が今より多かったように思う。不親切というか、自分でその答えを見つけ出すのも魅力の内というか。

間の表現

あだち充作品の特徴といえば「間の表現」ではないだろうか。
直接、物語を語らない空間描写というか。主人公についても大ごまに大きく描くようなことは少なく、大体はキャラクターの周りに物理的に空間がある。
時間的な間もある。物語が緊迫している時でも、その合間に別なシーンや描写が入ってきたり。
キャラクターの会話に関しても、なんとなくズレていたり言葉足らずだったりな場合が多い。
あとにぎやかなのに無音なシーンとか。激しい動きを静止で見せる(ことさら集中線を使ったりしない)とかも、間の表現の一環な気がする。
もちろん、ギャグとして使っている場合はある。間に突っ込ませるみたいな感じ。でも、多くはそうじゃない。何故、こんなにも間が描かれているんだろう。

芝居の場合、間は危険物と言っていい。
間がものすごく大きな印象を与えることもある一方、使い方によっては芝居のテンポを壊し、物語の流れを破壊し、理解を困難にさせる場合も多い。上手い芝居は0.1秒単位で間を管理している様に思う。そこまでしないと、間の効果を最大限に発揮できないからだ。また、空間的な間も然りで、下手な役者は畳半畳でもスカスカに見えるが、すごい。
漫画の場合もまた、間は危険物だろうと思う。
なにも描いてないページとか白いコマを意味ありげに使った作品が世の中にはあるが、かなり好意的に見ないと面白くない場合が多い。おそらく作者はなにかを込めたであろう「間」がスカスカな印象しか与えない様な場面。
それらと比較して、あだち充作品で描かれる「間」は、とても的確で絶妙で躍動感にあふれている気がする。この「間」の巧みさが語り口の良さにつながっているのだろうと思う。

わかりやすさ

語り口が巧みと書いたが、では、内容的にわかりやすいだろうか?
わかりやすさを数値的に表現し比較する方法を私は知らないので印象の話になるが、昨今のマンガやラノベに慣れた人が読んだ場合、それぞれのキャラクター同士の関係性やお互いの感情、思考、あるいは状況の表現などは、たぶん、ややわかりにくいのではないだろうかと思う。
わかりにくさの原因は、キャラクターたちが言葉足らずな所にあると思う。語らない。表に出てくる言葉のほとんどはどうでもいいことで、肝心なことは語らない。
だが、語らないけれど存在する何かは、空間的時間的セリフ的「間」に充満している。だから言い方は悪いが読み飛ばすことが出来る。なにかある、でもそこにはない、だからサラサラ読める。

対比の対象として昨今のラノベやマンガと書いたが、世代的には少し前の作品である「愛と誠」と比較しても面白いかも知れない。あの作品は語る。誠の心はあまり描かないがその思想は語る。愛も語る。敵も語る。お互いがお互いの感情や思想を語りぶつけ合う。
それと比較しても「タッチ」は語らない。語らないことを通して物語が語られている。

別役実

とそこまで書いていて、なんだかなにかに似ている気がしてきた。別役実の戯曲だ。
いや、誤解のないように。普通に読んだ時、あだち充作品と別役実作品を似ていると考える人はいないと思う。あくまで「間」の使い手として共通しているように思うという話。
別役実の戯曲には「…」が多用されている。氏の戯曲を演じたことのある方は多分分かると思うが、あの「…」をセリフ的「間」として演じてしまうと、極めてつまらない芝居になってしまう。あだち充作品で描かれる空間的時間的「間」の様に、なにかがギュッと詰まって無ければ成り立たない作品なのだ。
それと、セリフの使い方。大体の場合、氏の戯曲では会話が会話として微妙に成立せずズレが発生し、それがうまることはほぼ無い。大事なことはだいたい語られず、大事の様に語られていることにはあまり意味はない。そして語られない大事によって物語は大きく動いていく。
と、こうして見るとなんとなく似ているように思えないだろうか。
いや似てはいない。でも同じ力学を使ったドラマツルギー同士の様な気がするのだが、どうだろう。

ちなみにこの二人の名前で検索すると別役実が台本を書いたアニメ映画「銀河鉄道の夜」の監督した杉井ギサブロー監督がひっかかる。この方、「タッチ」のアニメ版の監督をした方でもあるらしい。
と書くと、なんだか繋がりありそうな気がしてくるでしょ?

まとめ

もう少しまとまった論考にしたいと思ったけど、なんだかとりとめのない内容になってしまった。
たぶん、映像文化などとの関連も大きいと思うのだが、知識が無いので…。

上の方でちょっと書いたけど、昔はちょっと苦手意識があったのだ。
なんだかおしゃれでホンワカしたラブストーリーだと思っていた。そういうのは苦手だった。実際読んでみたら、まあおしゃれでホンワカしたラブストーリーだったのだけど、楽しめた。
でもでも、当時リアルタイムで読んでいたらどう感じただろう。やっぱりあまり楽しめなかったのじゃないかと思う。当時は色々なものに対し「正解」を求めていたような気がする。このお話はあえて「正解」を語らない。
「間」の話も、演劇の経験なんかを通した今だからこそ楽しむ事ができるけど、当時は難しかったように思う。「間」の中に含まれる有象無象魑魅魍魎な事々を想像する余裕が当時は無かった。

だから、私個人にとっては、今の段階で、まとめて読むことが出来たのは幸せなことだったと思う。
「ふるさとは遠くに在りて思うもの」という言葉は切ないけど、青春にもそういう面があって、私にとって青春を語る物語は、遠くに在るからこそ楽しめるものなんだろうと思う。
「タッチ」で語られる物語は、私にとってけして交わることのない世界線、モブとしてすら存在し得ない異世界だ。だからこそ楽しめるのだろうと思う。

もし、同じ様に若い頃敬遠していたという方がいたら一読されることを強くおすすめしたい。

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