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【#キナリ杯】岸田奈美が私にもたらしたもの



岸田奈美という存在は、私に苦悩を生んだ。
話題になった「赤べこ」の記事以来、彼女の綴る文章を読むと心の端が、ぐにゃりとつねられたようで淡い違和感がはしる。はじめ私はこの理由がわからなかった。だけど、わかった。

わかるまでに、半年以上かかり、それまでに関連するいくつかの出来事があった。(なんと時系列関係なく、私が触れたい順で触れてく。)

一つ目に挙げる出来事は、かなり直近。今年の5月頭に、我が家に起こった「空前絶後の多様性めざめウィーク」についてである。

それは、普段忙しく家にいなかった夫が緊急事態宣言以降、毎日家にいるようになって約一ヶ月経ったころ。夫が子供たちにゲームのことで注意して、それに対し6歳長男が言い返したときに起こった。夫は長男に、こういったのだ。

「口答えするのやめな?」と。

同じ部屋で別作業をしていた私は耳を疑った。
あえて説明すると「口答え」というワードに違和感を覚えたのだ。「口答え」というワードは、相手の立場を格下に定めている場合にしか出てこない言葉だと思う。

自分が育った環境によるものなのか、夫は「息子たちに対する態度だけ」簡単にいうとやや偉そう。叱るとき、声を張り上げ威嚇するようなところもある。付き合って13年、結婚して7年、私には一度もそんな態度取らないし仕事でも後輩先輩全方位から信頼が厚い彼なのに。

そこがたびたび気になり「気を付けて欲しい」と軽く言ってきたが、夫は基本家にいないし土日だけのことだし、と思って私もそこまで強くは言ってこなかった。だけどだけど。「口答え」というワードだけはもうあまりにもあまりにも、聞き逃せなかった。多様性が謳われる時代に、やばい。 


だけど。これだけじゃなかった。先に書いたがこれは「空前絶後の多様性めざめウィーク」。この日付近、多様性を考えるできごとが我が家に噴出することとなった。


「口答え」事件の少し前だったと思う。
その日、子供たちと夫が過ごすリビングに私が遅れて行くと、テレビ画面には【伊藤詩織さんが号泣している】映像が流れていた。「え?これ、何みてるの?」と私が思わず夫に問うと、彼はこう答えた。

「障害のある方々が出ている番組」と。

ようするにバリバラだったのだけど、夫のその言い方に私は違和感を覚えた。その時はその正体がわからなかったけど、真夜中、一人紅茶を淹れにいった台所で突然思い当たった。

「夫はいつも、弱者を特別扱いしすぎる」と。
「障害のある“方々”」「お金がない“方々”」「生活に困っている“方々”」...
まったく無意識であろうが、夫は【「弱者である人たち」を見下すことは悪であると意識しすぎるあまり、逆に敬語表現を使う】のだ。今まで、ずっとそうだった。

「空前絶後の多様性めざめウィーク」はこれだけで終わらない。
ここからは完全に私サイドの出来事。この頃、話題になっていたラジオがある。岡村隆史のオールナイトニッポン。そこに矢部浩之が登場し、岡村隆史の炎上を謝罪しつつ、岡村隆史に公開説教した回だった。そのラジオを私が聞いたのは、「口答え」発言の翌日だったと思う。私は「ああ私はこの多様性の問題を、どう夫に伝えるべきか…!」と悩みながら、だけどその時点では夫に直接指摘することなく自分を落ち着かせようとしていた。なぜなら夫の誕生日直前だったから。根がロマンチックである私は夫の誕生日だけは甘やかな気持ちで終わらせてあげたいと思っていたので、「せめて、誕生日が終わってからすべて伝えよう!」と決めていた。だからこの日も私は心を落ち着かせるため一人、台所で料理しながらそのラジオのアーカイブをradicoで聞こうとしたのだった。

話題だから聞いておこう、という好奇心しかなかった。だけど聴き終わる頃には、駐車場で車のタイヤがそれ以上後ろにいかないようにするあの長四角のコンクリートの塊を、後頭部斜め右後ろめがけガツンと投げつけられたような、ふらめく衝撃を浴びることとなった。

ネットニュースなどで散々話題になったが念のためおさらいすると、その放送回で矢部浩之が話したことは以下だった。

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・岡村隆史にはもともと女性蔑視の傾向があった。
 (女性や年下、立場の低い人間に対して挨拶やお礼を言わないなど)

・テレビ番組内でも「ズレてるなあ」と思う発言がたびたびあったが矢部浩之がスルーするなどしてカットしてもらっていた。

・そういう発言や態度を直視するのが嫌で、矢部浩之から言い出して、楽屋を別々にしてもらっていた。

・50歳前で風俗の話ばっかりしてるなんて幽霊みたい。そろそろ、見ている景色を変えないといけない

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など。これを聴き終わった時、なぜ私が大きなショックを受けたのか。そこには2つの理由がある。1つは「自分の子供たちが、“岡村隆史的”になってしまったらどうしよう。つまりここまで自分で気づけないところまで、多様性認識が歪んでしまったらどうしよう」ということ。2つめは「私こそ…人のことが言えるのだろうか?」ということ。

1つ目はわかりやすいがなぜ、2つめの考えが浮かんだのか。さすが「空前絶後の多様性めざめウィーク」。私はこの週、ちょうど届いたばかりだった「ある小説」を読みはじめていたのだ。それぞ話題の『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』である。我が家の「空前絶後の多様性めざめウィーク」はこの小説を持って完全化したようなところがある。

この小説はあまりにも素晴らしく、地球が滅びるその日まで毎日途絶えることなく人類全員に読んで欲しいので一切ネタバレする気がなく内容については言及しないが、あえて解像度粗く言えば「多様性について考えざるを得ない本」である。カテゴライズできない葛藤を抱えるあらゆる登場人物が織りなす、カテゴライズできない出来事。カテゴライズできない繊細な心の持ち主たちは、あらゆる事柄を無闇にカテゴライズしようとする人々に容赦無く傷つけられる。この小説を私は、ラジオを聞く前日から読み始め、聴き終わった深夜に読み終わった。本をぱたんと閉じた瞬間、私はハッキリと、「私も誰かを傷つけてるに、違いない…」と確信していた。恐ろしかった。

ちなみに。
私の母は、差別に関して、わりと感覚がひどい。書くのも躊躇したがあえて書く。リビングのテレビで障害を持つ人が映ると、いろいろな嫌なことを言いながら「すぐチャンネル変えて!」と言うような人である。母だけでなく同居していた父や父方の祖母も、日本以外の国籍を見下すような発言を邪気なく繰り返すこともあった。田舎あるあるかもしれないが、私はそういう発言を実家で聞くたび嫌悪感に苛まれながらも、注意することなどはせず、あろうことか心の奥底で「私はまだまし」と安心してきた。

そう、私はずっとなんとなく「私の多様性認識は正しいのか」ということに、実は迷いを持ち続けてきた。というかそこだけに注目してきた。自分が誰かを傷つけているかどうかではなく【自分がアウトかどうか】だけに注意深くあった。だから母や夫が少しでもアウトな発言をしてくれると、嫌悪しながらも強く安心してきたのだ。「よかったまだ私はアウトじゃない」と。

前半、夫の「口答え」発言に対し、私が危惧したポイントが「子供達の気持ち」などではなく「多様性が謳われる時代に、やばい。」だったのがその証拠。「時代的に取り残されてないか?」ということだけに、怯えていたのだ。

だけど。タイミングも合ったのか、たった一冊の本が私に与えた衝撃はあまりに巨大だった。『はい、この辺で、正々堂々向き合いましょうよ』と、ずっと目を背け続けた自己嫌悪の核の、その正面に、私を座らせた。
私は深夜、ひとり考え続けた。


ここで暴いた自分の実情はこうだった。
まず私は「多様性を受け入れる」という考えを自分ごととして捉えていない。「今時の考え」として、乗り遅れないようにしてるだけ。ポーズとしての「多様性理解」をキメようとする自分の胡散臭さにずっとコンプレックスを持っていた。顔面に大きな怪我を持った人を道端でみかけたとき目をそらしてしまう自分に、知的障害を持つ人と同じ電車車両に乗り合わせた時反射的に身を守ろうとする自分に、常に言い表せない恥ずかしさと不穏を抱きながら。だから母や夫だけでなくTwitterで炎上する差別発言者などを見ることでも、無性に安心したりしたのだ。

ここでいきなりいきなり。
Netflixを操作するリモコンの、三角矢印くらいのペースでババババッ、と一瞬でめちゃくちゃ冒頭に戻る。


岸田奈美という存在は、私に苦悩を生んだ。
話題になった「赤べこ」の記事以来、彼女の綴る文章を読むと心の端がぐにゃりとつねられたようで淡い違和感がはしる。はじめ私はこの理由がわからなかった。だけど、わかった。わかったのだ。

突然インターネット上にあらわれた「岸田奈美」は、多様性について「圧倒的に正しい」存在として私に映った。私はその「正しさ」にうちのめされそうになった。彼女は、ダウン症である弟、そして車椅子で生活する母のことを、心の底から大事に思い、特別扱いせず接している。それを目の当たりにするたび私は、自分自身の「正しくなさ」をまざまざと見せつけられたような気になっていたのだ。だから苦しかった。わたしは勝手に、彼女の眩しい文章にふれるたび「私みたいな中途半端に正しくあろうとする人間は、彼女にとって汚く霞んで映るのでは?」と、不安になった。

だけど。

(ここから一度時間軸が大きくずれるが最後は着地するからしっかりついてきて大丈夫ゴールはすぐそこ)

実は私。
「空前絶後の多様性めざめウィーク」の約一ヶ月前の時点…「4月頭」に起こった「ある出来事」をきっかけに、なぜか岸田奈美への苦悩を抱えなくなっていた。それは4月第一週くらいだったと思う。おもむろに開いたTwitterで、彼女はライブ配信で料理を作ろうとしていた。動いたり喋る彼女を見るのは初めてだった。どんな人なのか、やや探るように見始めた。すると...みるみるうちに彼女への印象はたった一言に集約された。それはこうだ。

「ただの...おもしろ人間やん」だ。

その配信まだ見れるかもしれないから気になる人はアーカイブぜひ見て欲しいのだけど、料理を作り始めるまでも始めてからも常に謎の歌を歌ったり親父ギャグのようなものを挟み続けたり、ひたすら素で、ひとりごとで、おもしろいことを言い続けてる。あまりの無防備に戸惑った。そして夢中で見続けてしまった。不思議とその日から、岸田奈美の文章に苦しむことがなくなってた。その理由がずっとわからなかったけど、真夜中、ラジオと本のショックを抱えたまま一人考え続ける私は、その「爆笑料理風景」をいきなり思い出しながら、急に、すべての点と点が、、、、、、つながった気がした。


『人類全員、ただの、おもしろ人間なんじゃないのか?』と。


まあ聞いてくれゴールはほんとすぐそこ。
私が岸田奈美を恐れなくなったのは…彼女のことを「差別社会を更生させる目的で楽しい記事を書く人」ではなく「ただのおもしろ人間」と認識できたからだった。(それはもちろん、配信中にもかかわらず素でおもしろ部分を爆裂アウトプットしつづけられる岸田奈美にしかできないレベルの「おもしろ」ではあるのだけど)

岸田奈美に関して私は…「障害のある家族を持つ人は、社会に対し、なんらか使命感を持ってるに違いない。そしてそれに反する人のことを、否定するに違いない」と、勝手にカテゴライズして、捉えていたのだ…。(どこにも書かれてないのに!)それが彼女に対する脅威を、勝手に、生んでいた。

だけど繰り返すが、料理をする彼女はただの毎秒おもしろいことをしでかす根っからのおもしろ人間。そう思ったら「岸田奈美さん」が「岸田の奈美ちゃん」くらいの距離感になった。ねえこれじゃない?ねえこれじゃない?わたしに足りなかった視点、これじゃないの?!?!深夜眠っている夫を振り起こしてそう告げようと思う気持ちを抑えて私は興奮で叫びそうになった。




私の発見、まとめます。「多様性を受け入れる」って…
すべての人を「ただのおもしろ人間」と認識することでは?

振り返れば…
「多様性を受け入れる」について私はそれまで…

・障害者の人にも必ず幸せなポイントはあるはず
・弱者の人を弱者と思わないような長所があるはず
・そんな素晴らしい部分を見つけて対等であろうとしよう

と教科書的に、頭ごなしに、無理やり弱者を強者と思おうとしていた。夫がしていたことと同じ。だけどもうその時点で対等じゃない。そもそも友達間で「対等」とか考えもしないし、こんなんコミュニケーションの実情とかけ離れてた。不自然すぎた。だから腹落ちしなかった。

だけど。バカみたいって思われるかもしれないけど…

障害がある人も手足がない人も、街ですれ違う知らない人も、一見不審そうな人も、リアリティショーに出ている自分とは考えが違いそうな人も、すべての人には必ず「おもしろ部分」がある。その部分を知れば「ちゃん付け」できるくらい、心の垣根がなくなる可能性がある。岸田奈美は特別に桁違いにおもしろい人間ではあると思うけど、でも実は地球上の誰もが、深く関わりあいさえすれば、必ず「ただのおもしろ人間」な部分を見つけあえるはず。そう思ったら、急に誰もが身近に感じられてきた。「多様性」という言葉へのハードルがいきなり下がった。

なんだか透明な壁のようなものたちが、一気に取っ払われて行く気がした。こんな幼稚な発見でも、少なくとも私史上では今一番、多様性の本質に近づけてる気がした。はずかしくない。私は自分がどう在りたいか、自分の頭で考えようと踏み出せたことが(遅くても)うれしい。こうしてひとりひとりがそれぞれ、自分なりの多様性の在り方を模索していこうとしたら、無闇に傷つく人が、それによる負の連鎖が、減らせるかもしれない、と大それたことさえ思ってしまう。つぎはこの発見を、夫や家族にどう伝えるか考えて、そして話し合っていきたい。そして自分の考えを地道に更新しつづけたい。もう、ポーズだけして目を背け続けるのは、やめた。

差別しないようにしなきゃとか、傷つく発言をしないようにしなきゃとか、無闇にマイナスに不安に怯えるのではなく、前向きに素直に、まずは第一歩目として「地球人みんなのおもしろ部分、探したらいい」だけ!なんてことだ。岸田奈美という存在は、私に希望を与えた。



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