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働かない夏

エアコンの冷たさをまとったシーツとFPS50の日焼け止めの匂いが8月の夜である。そんなことも働き始めてから忘れていた。ここには井草の匂いもなく、19時頃、生い茂った緑からのむしっとした蒸気で、生々しい夏を感じることができる。

朝の日照りと電車の汗臭さ、日中のエアコン吹雪に、夜は風呂の熱しかおぼえていない。母がデスクワークよりも農業とか人間活動しろ、といっていたが一理ある…と思えてきた。帰る気はまだないけど。

時間がたっぷりあると、書く、ということもいっぱいできると思っていたがやはり違う。書けたなーと思うときはいつだって、気持ちが震え上がっていた時だけだ。

最終出社から一週間、ふと、シーツの上で脱力しているときに、夏の匂いというのを思い出した。逆に今まで何も感じていなかった。春夏秋冬はただの気温と湿度の変化でしかなかった。

庭のよくわからない雑草の露の匂いだとか、白い外套の明かりに、藍を濃くした静寂に包まれた時の解放感、布団の上で魔法のじゅうたんに乗ったかのような気持ちになっていた夜や、子どもの街でいつまでもゲームやったり探検したりしていた夢も、ふたをしてしまっていた。

当時、それらの創造力を自分でも、とても大切なものだと思っていた。大人になりたくないと思っていた。もし大人になるのだったら、子どもっぽい人にはなりたくない。みっともないし。でもそれは大変そうだ。

スポーツ選手になりたいわけでも、社長になりたいわけでも、海外で活躍するようなエリートになりたいわけでもないけど、ある程度、一回り上のいとこぐらいの大人になりたいと思っていた。

色々あって、理想とは違う結果になることも多かったけど、私は成人した。

扇風機がざらばん紙をかっさらっていくような教室とは違い、クーラーが効いた快適な空間で、昇降式の椅子に座り、苦手だったタイピングをやってのけている。

また、東京にいると知ったら、さぞ驚くだろう。当時は、地元のために何か働きたいと漠然と考えていた。小学校2年の将来の夢は、農家だったから真っ直ぐ育てば、母の思い通りだっただろうに。

誰かが、人生は旅だ、と表現したが、それに私も同意している。実験だ、という人もいたようだが、それも確かにと頷く。

上司からみた私の印象は、おそらく父から見た私の印象と同じで、働く人というのはこういう考え方をするのかと妙に感心した。

私はというと、なんだか全く視点が上がったという気がしない。いつだって、自分から世界を観察しているような気分になっている。

神奈川県のワンルームで、ふとベットから起き上がった時、今の自分は小学4年生の自分が見ていた夢なんじゃないかと思う。

社会人になってから、過去を振り返ることをやめた。

子どもの時は、知らないがゆえに自分に自信があったし、ちょっと大人びた考えがあるだけで優越感に浸れた。

大人になったらどんなマインドで居ればいいんだろう。

ビジネス用Twitterを見ていると痛い。始めた頃は、お役立ち情報やこの界隈の雰囲気を知れてとても良いと思っていた。

たとえるなら強い夏の日差し。握ると痛い電流。「正論」「正論」「正論」がなぜか痛い。否応なしに痛い。そういう自分を認めたくなくて、消えたくて、己自身が追い打ちをかけるように深く刺す。

自分のこと、認めてもらわなくてもいい。共感してもらいたいわけでもない。ただこういう人なんだ、と知ってほしい。それだけ。

…という実験結果が得られたので、何かに活かせないかなあと思って、興味に任せて余った時間をネットサーフィンに費やした。


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