あさのあつこ『アーセナルにおいでよ』刊行決定インタビュー|ここにしかない関係の中から、新しい起業が出てくる
シリーズ累計1000万部突破の青春野球小説『バッテリー』を筆頭に、思春期の子ども達の心情を瑞々しく描き出す作風で知られるあさのあつこさん。近年は現代を生きる大人たちの内面に迫る人間ドラマや、時代小説にも力を入れてきたが、最新作『アーセナルにおいでよ』では起業する少年少女たちを主人公に据えた。本作の成り立ちや物語に込めた希望の中身について、あさのさんに話を聞いた。(取材・文 吉田大助)
──本作はまず最初にオーディオブックとして配信され、のちに紙版の書籍が刊行されるという「オーディオファースト作品」です。フジテレビアナウンサー・宮司愛海さんが朗読を担当し、すでにAmazon オーディブルで配信されています。お聞きになってどんな感想をお持ちになられましたか?
あさの 鳥肌が立つぐらい素敵でした。文章自体は自分が書いたものではあるんですけれども、小説とは重なりながらもまた別の世界を宮司さんが声で表してくださった。「オーディオファースト」だからと言って、私が小説を書く時に特別意識した部分はなかったんですが、この作品はこんなにいろいろな色があったんだと気付かされました。
──本作の着想の出発点はどこだったのでしょうか?
あさの 水鈴社の編集者・篠原さんから、「現代もので、若い人たちが主人公のお話を」というご依頼をいただいたんです。今の若い人たちが、大人とか社会に依存せずに生きていくとしたら……と考えた時にパッと浮かんできたのが、起業。そこからのスタートでしたね。ただ、その当時、起業に対する私の知識は皆無に近かったんです。それなのにパッと浮かんだのは、日々の生活の中で起業のニュースっていろいろ入ってきていたからなのかな、と。そこから新しいものが生まれて、そこに若い人たちの新しい生き方があるということを感じていたんだと思うんです。
──あさのさんはこれまでも思春期の少年少女たちの物語を書いてきましたが、「現代もので、若い人たちが主人公のお話を」という依頼に刺激を受けて、新しい引き出しを開けることになったわけですね。
あさの 今を生きている若い子たちを見た時に、上の世代が認識している子ども像とズレるところがあるなとは思っていたんです。それは以前から感覚として持っていたんですけれども、そこを具体的に書いたのはこの作品が初めてでした。例えば、今までは大人たちが子どもたちの生を保証して、守っていくという価値観が強かったと思います。そうした大人たちの役割はいつの時代も必要なんですけれど、そのこととは別に、最近の若い人たちはそんな柔なもんじゃないなって気がしていました。自分たちで自分たちを守るとか、自分たちで居場所を作り上げていく、想像力を武器に旧来の価値観に切り込んで新しい世界を切り開いていく、そういった若者たちの姿を物語で書けたらいいなと思ったんです。
──となると……登場人物たちがどんな事業で起業するのか、が物語のキモになりますよね。その部分のアイデアを最初に固めたのでしょうか?
あさの そこは、書き始めてだいぶ経ってから固めました。どの物語でも私はそうなんですが、どういう人を書きたいのかが一番最初のとっかかりで、一番大事なんです。ですから、なぜ起業したいのか、どういう事業を始めたいのかといった部分は、登場人物たちの人間性から出てくるものでなければいけないんですよね。一人一人についての理解を深めるところから始めなければならなくて、そのためには、ともかく小説を書き出すしかない。実際にどういう起業をするのかは、書き進めていったところで彼らが考えてくれるかなぁ、と(笑)。
投資も起業も究極のところ
人が人とどう繋がっていくかという問題
──物語は、地方都市に暮らす高校3年生の川相千香の元へ、初恋相手の芳竹甲斐から連絡が届く場面で幕を開けます。メッセージは、「久しぶり。相談がある。まずは連絡ください」。リアルで会いたいという要望を受けて近所のファミレスへ赴くと、稲作陽太と名乗るおしゃべりな男性と一緒に、甲斐が待っていました。千香が文科省と大手新聞主催のコンクールで最優秀賞を受賞した論文が、素晴らしかった、自分たちがやろうとしていることと通ずるものがあった、と。これから「アーセナル」という会社を起業するんだけれども、千香にも参加してほしいと甲斐は言うんです。現在の仲間は隣にいる陽太と、後から合流した経理担当のコトリこと古藤里佳子。3人それぞれの視点から起業について話を聞いた千香は、一緒に働くことを決断する。非常に個性的で、魅力的な4人ですね。
あさの まず最初に、起業の言い出しっぺとなる甲斐が生まれました。18歳なので子どもっぽいところがあるんだけれども、ものすごく思索の人、思考の人というイメージがパッと浮かんだんです。じゃあ、それはどうやって培われたんだろうか、と。そこから、中学1年生で学校という集団生活の場からドロップアウトしたこと、そのおかげで他者の価値観に侵されず一人でじっくり考える時間ができて、思索や思考力、想像力を自分で育てていった……というエピソードに辿り着いたんです。甲斐という人の基軸となる部分が分かったところで、彼を照射する光みたいな存在がこの物語には必要だなと思いました。その役を千香に与えることにして、今度は彼女についての理解を深めていくことに。千香の物事に対する深い洞察力であるとか、友人関係や最近巻き込まれたSNS上のトラブルなどが具体的に自分の中で分かり出したところで、彼女は単なる引き立て役ではないな、と思ったんですよね。甲斐の物語と一緒に、彼女自身の物語も書かなければとなっていったんです。
──アーセナルに参加したことによる変化や成長の度合いで言えば、千香がもっとも大きいですよね。
あさの 千香は身体が大きいとかいろいろなコンプレックスの持ち主で、最初はもっと他人の価値観とか評価に縛られていたんです。けれども甲斐たちと接することで、あるいは起業に携わることで、少しずつそういうものから自由になっていく。言い換えると、「あの人がこう言った」ではなくて「私がこう言いたい」と、主語を自分にできるようになるんです。自分を主語にして語って動ける人って、憧れなんですよ。千香は、私の中にある人間としての理想像を反映した女性なんです。
──アーセナルの残り2人のメンバーはちょっと年上で、コトリは元大手会計事務所の敏腕社員で、陽太はなんと元詐欺師です。
あさの 陽太は声質がいい……といった一文を書いた時に、昔詐欺師だったという設定が浮かんできました。「人を引き込む声の持ち主」は昔から好きな材料で、結構いろんなところで使ったりしているんですけれど、陽太に関しては人をたぶらかすっていうか、迷わせることができる声の持ち主なんじゃないかな、と。陽太の人物像ができてきたところで、コトリがポンっと生まれました。起業するならばチームの中に計算に強い人が要るな、それがかわいい女の子だったら面白いなとは思っていたんです。ただ、こんなにクセの強い陽太と対等に立ち合えるのは、陽太よりももっとクセの強い女性じゃなければダメだなと思ったんですよね。ヒールで人の頭をぶん殴るとか、まさかあそこまでの子だとは思わなかったんですけどね(笑)。
──それまで全く異なる現実を生きてきた4人が集まったこと自体が奇跡で、そのことをお互いに喜び合えている。事業内容も含めて、応援したくなる本当にいいチームです。
あさの 甲斐のことや彼の周りにいる人間について書いていくうちに、彼らが起業するならば例えば空飛ぶ自動車とか新しい薬品とかではなくて、人と人との繋がりを作っていくような事業だろうなということが見えてきたんですよね。じゃあ、具体的にそれはどういう事業なのかを徹底的に考えていきました。普段はまず手に取らないような経済関連の本を読んだり、証券会社の人に話を聞いたり、それから弟が税理士なものですから、レクチャーしてもらったりして猛勉強したり。その事業は物語だからうまくいってるんだよね、みたいな思われ方は絶対したくなかったんです。
──アーセナルは「武器庫」という意味の言葉です。甲斐は起業して、お金をどんどん儲けたいわけではない。自分たちの事業を通して、若者たちに「武器」を与えたいんだという起業方針が甲斐の口から語られています。その辺り、『僕は君たちに武器を配りたい』という主著を持つエンジェル投資家の故・瀧本哲史さんの思想との共鳴を感じたんですが、お読みになられたりしましたか?
あさの 篠原さんが薦めてくださって、何冊か読ませていただきました。瀧本さんの本を読んだことで、起業に投資をするってどういうことなのか、起業して成功するってどういうことなのかについて、私はすごく浅いところでばたばたしていたんだなと気付かせてもらったんですよ。投資も起業も究極のところ、人が人とどう繋がっていくかという問題なんですよね。投資することでその企業と繋がりを持つことになるし、起業することで社会やユーザーと繋がる。本当に目からうろこというか、違う価値観を提示された感覚がありました。だからといって、瀧本さんの価値観をそのまま物語に写し取るようなことは、絶対にしてはいけない。瀧本さんの本から得た気づきを基にして、自分たちなりの思考、甲斐なら甲斐なりの思考をさせていったつもりです。
「起業した若者たちの物語」
という言葉では括れない
──一章では4人の出会いが語られ、二章でアーセナルの事業が本格的にスタートします。アーセナルの事業は、「SQUARE」と名付けられた仮想空間の運営。悩みを抱いていたり助けを求めている人が声を上げると、それに対して意見や感想、アドバイスを送ることができる。ネガティブな意見は排除され、本人の目には届かないようなシステムになっている。詳しくは本文で……という感じなのですが、緻密に構築されていますね。
あさの 身近にいる誰かには言えない悩みごとを言える場があって、それに対して反応してくれる人がいる。ただ単に喋って終わりではなくて、いろいろな意見をふるいにかけながら、現実的な解決の方向性を見出すまでのシステムがちゃんと作れたらなと思ったんです。しかも、事業ですからきちんと収益を上げなければいけない。もしもこの事業が現実にあったら絶対に成功するかはわからないけれども、成功する可能性があるかもしれない、と思えるくらいのところまで叩き上げていったつもりです。
──小説の中でもAIについての議論が出てきましたが、「SQUARE」で発生している人と人との繋がりの構築は、AIには代替できないことですよね。
あさの AIが仕事を奪うとか、人間に取って代わることで消えていく職業がある、というニュースをたまに目にするじゃないですか。「じゃあ、消えない仕事って何だろう?」と思ったんです。「人間にできて、AIにできないことって何?」と。悩むこと自体が機械にはできないことですし、そこに対応するとなると、人でなければ無理なんじゃないでしょうか。例えば、言っている本人が悩みの本質をわかってないことって多々ありますよね。お金のことで悩んでるつもりだったけど、本当は人間関係の悩みだった、とか。言葉の裏にある心情の部分を読み取っていくには、人間の想像力や思いやりが必要になってくる。人の生存を支えるものって、人しかないんです。
──今ハッとしたんですが、本当にそうだと思います。
あさの アーセナルの4人だからこそできたコミュニティがあり、そこでの繋がりが、彼らだからこその起業に結びついていく。4人の関係がどこにでもあるような一言で説明されてしまうようなものだったら、たぶん新しいものは何も生まれてこない。彼らなりの、ここにしかない関係の中から、新しい起業は出てくると思うんです。
──そこでもやはり、「人」が重要なんですね。
あさの さらに言うと、そういう起業でなければ甲斐を救えないなと思ったんです。この事業だったらこれだけ儲かるという話ではなくて、この事業があることで、中学校の頃の自分と似たような環境にある人々をどれぐらい救えるのか。そこにフォーカスした起業でなければ、彼はまた自分の巣穴に潜っちゃうなと思ったんですよね。
──本作は起業する4人の若者たちが主人公であり、起業にまつわるトラブルやステップアップが物語の筋道を作っていきます。ただ、読み心地としてはアーセナルというコミュニティ、彼らにとっての居場所の話なんですよね。「SQUARE」に集まってくるさまざまな声も含めて、人と人とのコミュニケーションがたっぷりと描き出されている。そして、「SQUARE」がリアルな空間と接続し拡張していくのとシンクロして、人と人がリアルに出会うこと、リアルに話をすることの大切さが輪郭を濃くしていく。その辺りは書き進めながら浮上していったテーマだったのでしょうか?
あさの そこはコロナ禍以降、私なりにずっと考えてきたことでした。バーチャルにはバーチャルの良さがあるし、新しい技術もどんどん進化していっている。そんな中で、2024年の今、人と人がナマで触れ合うってどういうことなのかっていうのは、ものすごく新しい課題だと思うんですよね。体温が感じられるほどそばにいるとか、その人の息遣いを聞きながら話をするとか。好きな人の手を握るとか、守りたい人を抱きしめるとか……。ナマの感覚って絶対に捨ててはいけないものであるし、私たちの基礎にあるものなんですよ。それは人の生存にとって必要だよっていうことを、昔ながらの家族観とか地域観とか、「友達100人できたらいいな」みたいな、既存の価値観に落とし込まずに伝えられる物語でありたいなと思っていました。
──読み終えた時、アーセナルの4人と出会えた、という喜びが胸に充満しました。もちろん彼らはリアルな存在ではないんだけれども、その喜びは本物だと感じたんです。結末も素晴らしかったです。
あさの そう言っていただけるとすごく嬉しいです。物語が表現しているものって、リモートともナマで会うのとも違う、そこにはいない誰かとの出会いなんですが、そこには生々しい息遣いだの、熱だの、声の震えだのが感じられるものじゃなければダメだなと思うんですよね。結末に関して言えば、若い人たちを主人公にしたお話で、絶望は語れないよなとは考えていました。かといって今のこの時代に、「今日よりも明日が良くなる」なんて軽々しく言えないです。希望が語れない社会で、でも希望を語っていくにはどうすればいいんだろうと悩んだんですが、アーセナルの4人の未来をとにかく丁寧に探っていくことで、自然と見えてくるものがあったんです。ぜひ、若い方々に読んでもらいたいですね。よくありがちな「起業した若者たちの物語」という言葉では括れない、彼らだけの物語ができました。
あさの あつこ
岡山県生まれ、在住。大学在学中より児童文学を書き始め、小学校講師ののち、1991 年『ほたる館物語』で作家デビュー。97 年『バッテリー』で第35 回野間児童文芸賞、99 年『バッテリーII 』で第39 回日本児童文学者協会賞、2005 年『バッテリーI~VI 』で第54回小学館児童出版文化賞、11 年『たまゆら』で第18 回島清恋愛文学賞を受賞。他の著書に『No.6 』『ランナー』『火群のごとく』『透き通った風が吹いて』『野火、奔る』など多数。児童文学から時代小説まで様々なジャンルの書き手として、幅広い世代に親しまれている。