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藤崎彩織『ねじねじ録』刊行記念インタビュー|音楽では絶対に伝えられなかったことが、書けました。

4人組バンド「SEKAI NO OWARI」のメンバーで、ピアノを担当するほか作詞作曲やライブ演出も手がけるSaori。2017年10月に発表した初小説『ふたご』(第158回直木三十五賞候補)を機に、「藤崎彩織」名義で作家活動も本格化させた彼女が、2冊目のエッセイ集『ねじねじ録』を刊行する。初エッセイ集『読書間奏文』(2018年12月刊)では自分の人生と本との関係性が綴られていたが、今回はかなり読み味が違う。その理由を本人に詳しく伺った。(取材・文 吉田大助)

雨が自分を濡らすのを守ってくれる
傘になり得る言葉を探していった

──初エッセイ集『読書間奏文』は、小説『ふたご』ともシンクロする「青春記」のテイストが強かったように思います。今回の『ねじねじ録』は、現在の彩織さん、SEKAI NO OWARIの全国ツアーでは数十万人のファンと向き合い、家では夫と共に息子を育てる彩織さんの、等身大の姿や日々の思考がありのままに綴られていますよね。とはいえ書いているのは同じ人ですから、「くよくよ」悩んだり「うじうじ」を抱えたりしている。そんな自分を、「面倒くさい」と書いていたりもする(笑)。ですが今回の本では、「くよくよ」や「うじうじ」を、「ねじねじ」と言い換えています。
<『ねじねじ』という言葉からは、大小さまざまな歯車が絡み合っているような様子が浮かんだ。ああでもないこうでもないと、前に回ったり後ろに回ったりする歯車。上手く噛み合わずに何度も止まりながら、何とか回ろうとする歯車>(「ねじねじ録 あとがきに代えて」)
 つまり「くよくよ」や「うじうじ」とはちょっと違って、「ねじねじ」は自分を動かし前へと進める力になるんだ、と……。本の中でも明かされていますが、この言葉との出合いを改めてお話しいただけますか。

藤崎 「ねじねじ」という言葉は5、6年前に、バンドメンバーの深瀬くんから言われたものなんです。「サオリちゃんって、いつもねじねじ悩んでるよね」と。その時に、いい言葉だなと思ったんですよね。「くよくよ」や「うじうじ」だとネガティブな感じがするんですけど、「ねじねじ」ってちょっとかわいい(笑)。どこか前向きさのある音だなぁと感じて、自分の中にずっと残っていました。今回、エッセイの連載のご依頼を編集者さんから頂いた時に、「この言葉を使う時がきたのかも」と思いタイトルにしました。

──「ねじねじ」と出合ったのは5、6年前だった。では、その後に流れた時間の中で、悩むという行為や悩みがちな自分を肯定できるようになったのでしょうか。

藤崎 アーティストとして、作家として活動する時間を重ねていくなかで、少しずつ肯定できるようになっていったんだと思います。私はどうしても性格的に、悩んでふさぎこんじゃうことはあるんですけど、そういうことも作品に変換していける。そのことがだんだん、実感として分かるようになってきた。
 1冊目のエッセイ集を出した経験も大きかったんです。文章を書くことは、自分の中の錆びついていたり軋んでいたりする歯車を点検して、こすったり洗ったりすることに繋がる。書くことで歯車が動いていって、実際にあの頃、仕事のスランプを抜け出せたりもしたんです。
『ねじねじ録』でも同じようなことが起こりました。後半のエッセイはコロナ禍になってから書いたものなんですが、バンドの予定していたライブが延期になり、数ヶ月かけて用意したプロジェクトも全て潰れてしまった。1度目の緊急事態宣言の時は、レコーディングスタジオに入ることさえできませんでした。発信する場が失われアウトプットできなくなることで、自分の体内に「熱」がこもっていくような感覚があったんです。その「熱」を外に出す術が、『ねじねじ録』を書くことだったんですよ。コロナ禍で落ち込んでいた私を、このエッセイが救ってくれたんです。

──彩織さんの「ねじねじ」を追いかける読者も、自分の中にある歯車が回り出す感触を味わうことになると思います。自分の心を動かすメカニズムのようなものを理解して、軋みのある箇所に潤滑スプレーをブシャーッとかける、と言いますか。言葉を組み合わせることで完成した文章は彩織さんのオリジナルだけれども、使われている言葉自体は、誰しもが普段使っているものですから。

藤崎 人生って大前提として、すごく大変ですよね。生きていくのってつらいし、晴れていたはずなのに突然、雨が降ってくるようなことも起こる。そういう時に、言葉は傘になり得る。雨が自分を濡らすのを守ってくれる、傘になり得る言葉を探していった過程が、『ねじねじ録』の中にはいっぱい書かれていると思います。

自分を理解することは、他人への愛にも繋がる
そのためにも、自分を研究し続ける必要がある

──全42編の内容は本当にカラフルで、テーマは多岐にわたっています。とはいえ1編目のエッセイ(「子育てが苦手でも」)が、『ねじねじ録』を象徴しているかなとも思うんです。書き出しの文章は、<ミュージシャンに向いている人がいるように、サラリーマンに向いている人がいるように、子育てにだって向いている人がいると思う。言い換えれば、子育てに向いていない人だっていると思うのだ>。自身の子育て体験も記しつつ、人にはそれぞれ向き不向きがあり、不向きな部分は他の人に頼ってもいい、と筆を進めていく。最後の文章は、<上手くできないことは、みんなで助け合ってやろうと言える社会でありたい。子育てのみが、親だけで解決しなくてはいけないなんてことはないのだから>。
 この「社会」という一語は、『読書間奏文』には出てこなかった言葉です。『ねじねじ録』の他のエッセイでも、個人の問題がいろいろな歯車を経由して、社会の問題へと繋がっている。この繋がりも、ここ数年で獲得していったものなのでしょうか。

藤崎 子どもが生まれた、ということが大きかったと思います。子どもが生まれる前は、社会というものをどこか他人事のように思っているところがありました。政府は今どういうことをしていて政治情勢はどうなっているのか、フェミニズムの問題や環境問題など、今の日本が抱えてる問題はこの先どうなるのかということに関しても、一歩引いたところから見てしまっていた。でも、子どもが生まれてからは、子どもたちがこれから生きていく世界が、今よりもいい世界であってほしいと願う気持ちがすごく出てきました。そこから自然と、社会に対して繋がっていく気持ちが強くなっていったんだと思うんです。

──社会人となり社会生活を営む中で学んでいったこと、作中の表現に近付けると「学校では教わらなかったこと」が何編かで記されていますね。特に、性教育についてのエッセイ(「未来を変える性教育」)は印象的でした。日本の学校では「生殖」については教えるけれども、「セックス」については教えていない。性にまつわる知識の少なさが、生きづらさに繋がっているのではないか、と。

藤崎 日本の性教育が遅れていることで、自分はたくさん傷ついてきたんだなということは、大人になってから初めて気付いたことでした。すごく大事なことなのに、知らないことがこんなにたくさんあるんだ、と。避妊リングもそうです。エッセイでも書きましたが(「T字の正体」)、今は少し上がったそうですが、避妊リングは日本人ではわずか0・4%しか使われていない。存在すら知られていないからだと思うんです。知らなければ、選択肢自体が出てこない。必要な知識はもっともっと共有されるべきだし、自分のことを自分で選択できる世の中になればいいなと思います。
 何かがうまくいかない時に、自分じゃなくて環境のほうが悪いってことは結構あるんだなということも、大人になってからわかったことの一つです。自分の置かれている環境が悪いのかもしれないと気付けば、環境を変えることによって、いい方向に変わるかもしれないですよね。

──たぶん、順番がすごく大事なんだと思うんです。エッセイの中で個人の問題がしっかりと書き込まれているからこそ、そこから社会の問題に広がったり繋がっていった時に、読み手も納得しながら文章を読み進めることができる。自分の弱さやダメな部分も、臆さずに書かれていますよね。

藤崎 もっとキラキラのバンド生活と素晴らしい家族、みたいな話が書けたらいいんですけど、実際はそうじゃない時間のほうが長い(苦笑)。それに、読んでいて救われるのって、「きっとこの人はこれが書きたくて、でも書きたくなかったんだろうな」って文章だなということは、私自身が他の方の本を読みながら感じていたんです。エッセイの題材を決める時、「書きたくないことは何かな?」と考えることはよくありましたね。

──彩織さんが自分を深堀りしていく様子は、本人は大変なんだろうと思うけれども、外から見ているぶんにはめっちゃエンターテインメントです(笑)。

藤崎 自分でも興味深く観察している感じです(笑)。もともと私は中学校の時からずっと日記を書いてるんですが、そこでは自分の感情が高ぶった時のこと、ノーマルのラインから上下に振れた時のことを書くようにしています。たまに読み返すと、「自分は思ったよりも、自分のことを知らないな」って毎回驚くんです。怒った時にこんな過激な思想まで行っちゃう人だったんだとか、落ち込むとここまで絶望しちゃう人なんだな、とか。そういうことが分かってくると、例えば「自分は今どん底だと感じているけれども、何度もこんな状態から浮上してきたじゃん」と、ちょっとラクになるんですよね。他の人も同じように感情を動かしているんじゃないかと想像すれば、相手のしんどさに寄り添うこともできる。自分を理解することは、他人への愛にも繋がると思うんです。そのためにも、自分を研究し続ける必要があるのかなと思っています。

──それもうまい言い換えですね! 「内省」と聞くとダークな印象ですが、「研究」ならばカラッとポジティブなイメージがあります。藤崎さんにとっての「エッセイ」は、「研究発表」と言えるのかも。

藤崎 そうなると肩書きは、「自分研究家」ですかね(笑)。

──「自分研究」の面白さが爆発している一編は、「優しさの材料」だと思います。冒頭、彩織さんはメンバーの前で「筋トレを始めようと思います」と宣言するんですが、反応は冷ややかなんですよね。しかし、当の本人は自分は運動が得意だ、という謎の自信を持っていた。「研究」を進めてみたら、何ひとつ根拠がなかった(笑)。

藤崎 普段の自分は、例えばピアノを弾くことだったり音楽を作ることだったり、書くことだったり、人生を尽くして必死でやってきたことに対してはこんなにもたやすく自信を失ってしまうのに、「どうして自分は運動ができると自信満々に思っているんだろう?」と、メンバーの反応から急に謎を実感したんです(笑)。自分を「研究」していくと、「こんな一面があったんだ!」と、知らない自分を知ることができて面白いですね。

──この「研究」の結論がまた、素晴らしいんです。「優しさの材料は筋肉だった」。その結論に至るロジックを、読者の方はぜひ丁寧に追いかけていってほしいです。

なんやかやと落ち込むことの多い人生だったけど
本当に落っこちずにここまで来られた理由は

──『読書間奏文』では息子さんが乳児として登場するんですが、『ねじねじ録』では幼児になりはっきりとした言葉を喋るようになっている。息子さんとの会話を通じて、自分を知る、普段自分が使っている言葉や考え方を疑う瞬間も書かれていますね。

藤崎 子どもに教えられることはすごく多いです。子育ての醍醐味だと思うんですが、子どものフィルターを通してもう一度世界をゼロの状態から見ることができるんですよね。本の中ではカラスノエンドウとローズマリーの違い(「雑草のライン」)について考えさせられたことを書いたんですが、つい先日も子どもが、雷が鳴った時に「パパ、雷で死んじゃわない?」と聞いてきたんです。「大丈夫だよ、パパはいつも鍛えてるから。体が強いから生きてるよ」と言ったら、「生きてるって何?」と言われて。「お話ししたり、だっこしてぎゅってしたり、一緒に寝たりできることだよ」という話をして、最後に「命があるってことだよ」とつけ加えたら、「命って何?」ってまた言われて(笑)。

──話が終わらない!(笑)

藤崎 それで「命って何なんだろう?」とまた考えていったんですね。お互いに心臓の音を聞いて、「ほら、心臓の音聞こえてるでしょ? これが死んじゃうと止まっちゃうんだよ」って話をしながら、すごく感動していました。「心臓の音が聞こえるって、生きてるってことなんだ」と。一人では感じられなかったことが、子供と一緒にいることで感じられるようになるんだな、と日々思っています。

──夫という自分とは別の人生を歩んできた存在も、自分や社会や、世界を学ぶうえでいい刺激をもたらしていますよね。パートナーの方がこの本を読んだら、自分へのラブレターだと感じるのではないかと思いました。

藤崎 そうだといいですけどね(笑)。夫婦のことについては、本当はもっとたくさん書きたかったんです。日本は男女の比率で言うと、女性のほうが家事を担当することが多いし、子育てをすることも多いです。でも、我が家の場合は、夫のほうが家事や育児をする時間が長いんですね。本人たちは納得してそのかたちを選んでいるけれども、世の中から受けている風は「女性はこう、男性はこう」というこれまでの規範に基づくものであって、そのことに対する悩みも出てきてしまうんです。今の世の中で、マジョリティではない夫婦のかたちを選んでいる。そうすると、こういう問題が起きるけど、こんな良いこともあるよということは、以前からずっと書きたいと思っていたことなんです。

──さきほど彩織さんがおっしゃった「知ること」の大切さにも繋がると思うんですが、今の世の中に足りない情報っていっぱいあるんですよね。その情報の流通量が増えれば、アクセスするチャンスも増えるし、気が付くチャンスも増える。もっと書いてほしいです。

藤崎 もっと書きたいですね。女性としての悩み、女性の置かれている環境で変えなければいけない問題点も、『ねじねじ録』で書いたこと以外にまだたくさんあるなと感じています。

──その一方で、彩織さんが実際に体験した過去の出来事を詳細に綴って、記憶のお裾分けをしてくれるようなエッセイもたくさん入っています。個人的なイチ押しは「招かざる客」というエッセイで、これはもう稲川淳二さんが朗読したらゴリゴリのホラーになると思うんですが、なぜか笑える(笑)。それから「6歳の冒険」は、1冊の上質な絵本を読んでいるような感覚になりました。

藤崎 ああいう話って、「SEKAI NO OWARIのSaori」として出す場所がどこにもないんです。でも、自分の人生の中ではすごく大きな「初めての冒険」でした。今でも新幹線の中で一人で食べたかちかちのアイスの味はよく覚えているし、新大阪駅のホームでおばあちゃんが待っていてくれて、扉が開いたところにおばあちゃんが笑顔で「あんたよう頑張ったなあ。よう一人でこられたなあ!」と言ってくれた瞬間、泣きそうになりました。そういった今でも大切なものとして抱えている記憶を、作品にできたことは本当に良かったなと思っています。

──それまでは六歳の子供の心情にフォーカスして綴られていったエッセイが、最後の一行でふっと、親の目線に入る瞬間がグッとくるんですよね。そこの文章もきっと今の彩織さんだからこそ書けたんだろうな、と感じました。ご両親について書かれたエッセイ(「両親の珍道中」など)も素晴らしかった。

藤崎 なんやかやと落ち込むことの多い人生だったなとは思うんですけど、本当に落っこちずにここまで来られたのは、自分が愛されている存在だということを、両親の言動を通じて感じられていたからなんだと思います。その感謝も込めて書いたんですけど、お母さんはしょっちゅう「あんなこと全国に言われたらもうかなわんわ」とか言っていますね(笑)。

「SEKAI NO OWARIのSaori」は自分の一面でしかない
私は母でもあるし、妻でもあるし、そして作家でもある

──『ねじねじ録』にはもう一つ、大きな魅力があります。ミュージシャンの世界を垣間見る、あるいは「ミュージシャンには世界がこう見える」というところを追体験できることです。知られざる「レコーディングディレクター」の仕事や、ライブ中にスタッフと交わすハンドサインの存在、バンド内で行われるコンペ形式の新曲作り。弟さんが勤める飲食店へ行った際の、<コース料理というのは、ライブのセットリストに似ているのだ>という気付きも、ミュージシャンならではだと感じました。
 そしてやはり、「SEKAI NO OWARI」というバンドならではの、メンバー同士の関係性です。幼馴染みで組んだバンドであるため、気の置けない友達同士であるんだけれども、仕事仲間でありライバルでもある。温かな、お互いの思いやりに満ちた関係性も描かれてはいるんですが……二〇一九年に解散危機があったんですね(「30年来の仲直り」)。

藤崎 もうすぐ10周年というところで解散しそうになっていたことに関しては、「大変な時期もありました」と言うようなことはあったんですが、話して伝わることではないなと思って、これまで黙っていました。「サオリちゃん、もう解散しよう」「分かった」と、やめようと思ったあの日のことや、あの時期に自分たちが向き合っていたことは、文章だからこそあそこまでストレートに書くことができた。私たちは時々テレビにも出ますし、ラジオもあるし、紙面のインタビューなどもありますが、自分の書いた文書が一番、自分の感覚に近いです。時間をかけて自分なりに冷静に選び抜いた言葉で、解散しそうだった頃のことをちゃんと説明できたと思っています。

──言い直すことって実は難しいですよね。一度放った言葉の印象って、どうしても残りますから。でも、文章は書き直すことができる。自分なりの納得がいくまで、言葉を追求することができる。

藤崎 すごく静かな場所で、自分が考えたことや感じたこととじっくり時間をかけて向き合えるのが、書くことの良さだと思います。日記が最初の一歩かなと思いますが、この本を読んだ方はぜひ書いてみてほしいですね。

──この本の感想を書くことから始めてみてもいいのかも。そうしたらきっと、お酒をたらふく飲んだ彩織さんが酔った勢いエゴサして、読んでくれるかもしれない(「やっちまった!」)。

藤崎 あれ、ひどいですよね(笑)。

──ああいう姿もちゃんと見せてくれたからこそ、届くものがあったと思います(笑)。ひとりの人間の内なる多面性、多様性を知る。そうすることで、相手を一面的に判断せず、相手の立場や状況を想像したり、思いやったりすることができる。今の時代、自分に対してもそうですし他人に対しても、優しくなれる言葉や考え方をみんな探していると思うんです。それが、この本の中にはたくさんありました。心地いい「ねじねじ」でした。

藤崎 ありがとうございます。確かに、本にするために原稿を読み返してみて思ったんですが、『ねじねじ録』は本当にいろんな要素が入っているんですよね。バンドのメンバーであることやピアノを弾くということ、曲を書く立場や歌詞を書く立場、それから文書を書く立場。さらに妻として母として、子どもとしての視点も入っている。読みながら、いろんな視点やいろんな立場から想像が働くものになっているのかな、と思いました。
 最初からそうしようと思っていたわけではないけれど……もしかしたら、自分というものに一方向から光が当たるのがすごく怖かったのかもしれない。「SEKAI NO OWARIのSaori」というのが私の一番大きなパブリックイメージだと思うんですけど、私は母でもあるし、妻でもあるし、そして作家でもある。それだけじゃないんだ、こういう面もこんな部分もあるんだと、もっと多面的に自分を見せたいという無意識の試みだったのかもしれません。
 音楽では絶対に伝えられなかったことが、書けました。それが皆さんに伝わったらな、と願っています。


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