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あの時の選択

「あの時の選択」?
数ヶ月前 タイトルだけ付けて 下書き保存していたのを見つけたため 当時何がいいたかったか
自答自問してみた。

あの時、とは いつ、何があったのだろうか。

少なくとも半年程経った自分は
全く違った心境と苦痛を抱えている。
あの時、を想定しても 今の一瞬一瞬の選択自体が とても か細く、か弱い気がする。
選択のできる数が少ない、ほぼ無いような気分なのだ。

あの時、、とは 今より 意識がはっきり自分らしく生きようとしていた。その証に
選択する、したくない、の反発が強かったはず。

どう選ぶが 自分に問えることは 自由に生きている証拠だ。

あの時は いつだ、、
多分 母のことを きょうだいに委ねた時だ。
母の側で 何か幸せになれるよう手助けするべきだと 当然考えていたのが、きょうだいからすると中途半端な関わり方では 許してやらないぞ、と追い詰められた時だ。

そんな家族がこの世に存在するのか?
と 信じられない人が殆どかと思うが、
私も 未熟者な自分も 家族なら許しあって支えていけると考えていたのだが、
長く離れていると 家族の中でも 役に立たない存在、他人として扱われると同じことかもしれない。

それを鼻先に突きつけられた時、

きょうだいという呼び名の他人に
母をどうぞ宜しくお願いします、と頼む選択肢をした時だ。

頼んだのだ。

私が家族として出来ることを
諦めた瞬間だ。

過去の私が その選択は 間違いだったと
言いたかったのか、 それで良かったと思いたいのか。 
恐らく 書けなかったから下書きに残してる。

今も よい選択がどうであったか 自問自答するしかないと わかった。

このnote に書き、公開することで
今の鈍い感性の私へ 更に問うことにしよう。

あの時は  間違えてたのか?
あの時の選択は 母の魂は救えたのか?
あの時の選択で まだ自分が今傷ついているのか?


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