「かぐや姫の物語」救いのない物語
高畑勲監督の作品は、
とにかく観るのに頭を使う
主人公にしろ、周りの人間にしろ、
物語だからといってドラマチックに、
簡単にその人を描こうとしないからだ
時に我が儘を言い、反発し、牙をむき、
私たちは動揺する
簡単に感情移入をさせてはくれない
そもそも、感情移入は目的ではないのだ
あくまで論理的に、忠実に
まなざしや言葉から、その人を思いやり
初めて理解できるようになる
つまり、受動的に観ているだけでは
おもしろく観ることはできない
周りの人に、この映画が公開された時、
観てみたいと思うかと聞いてみた
多くの人が、否、と答えた
気になるけれど怖そう、と
正しい感情の持ち方だと思った
私も、観ている最中は歯を食いしばるし、
目をこらす
じゃあなぜ観るかと言われれば、
その中にある光のような芸術品を
自分のためだけにつかみとるためだった
光は絶対にある、でも、
つかみとれるかどうかは、
自分の感性を信じて賭けるしかない
私は背筋をぴんとして高畑勲監督の作品を観る
かぐや姫という女の子は
竹から生まれ、成長し
野山をかけめぐっていた日々から一変、
きれいな着物やお屋敷の中で
暮らすことを選ぶ
楽しさにはしゃいで、喜んでいたが
いつしか、彼女には様々な呪いが
かけられていく
眉を剃ってお化粧をする
外を走ってはいけない
歯を見せて笑わない
「ばかみたい!高貴な姫君だって汗をかくし、
時にはゲラゲラ笑いたいことだって
あるはずよ。涙が止まらないことだって、
怒鳴りたくなることだってあるわ!」
「いいえ、高貴の姫君は…」
「高貴の姫君は人ではないのね!」
彼女は日々抵抗する
時には諦めて 琴や畑で心を慰めながら
育ててくれた両親にさえ牙をむき、
どうしてもというなら私を殺せ
とまで言うようになる
なぜかぐや姫は地球に降りたのか
なぜ月に還っていかなければいけないのか
様々な理由が明らかになっていき、
かぐや姫は最後の最後まで抵抗し、
結局月に還っていくのだ
なんて救いのない作品だろうと思った
当たり前だ、かぐや姫は結局
地球にある困難や葛藤だけを味わい尽くして
終わったのだから
エンディング曲だけがあたたかくまろやかに
包んでくれた
私は考える
彼女は本当に誰からも
愛されていなかったのだろうか
地球の美しさを味わうことはなかったのだろうか、
本当にあの日々に意味はなかったのだろうか、
彼女は絶望に負けたのだろうか
でも翁や嫗は、姫を心から愛し、
姫もまた彼らを愛したはずだった
それの何がいけなかったのだろうと思う
どこで違えてしまったのだろう、
どうしてあのままじゃいられなかったのだろう
その答えを探すには私は主人公であるかぐや姫を否定する必要があった
物語の主人公が"善"ではないこと
間違って、失敗して、後悔して、絶望すること
彼女はヒロインでもなんでもない、
土にまみれた人間そのものなのだ
それは私の中で衝撃的なことだった
かぐや姫の物語は、壊された、と本気で思った
「安心して主人公に寄り添い、
作者の導いてくれるままに
ただ感情移入しながら『見世物』を
見るのではなく、
覚醒した目ですべてを見つめよ、考えろ」
「漫画映画の志『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』」岩波書店
高畑監督は叱責する
私にも、そしてアニメーション界にも
緻密なレイアウトによって
分業が必須だったアニメーションの制作現場において全アニメーターのコンセンサスを獲得させることに成功する
戸を開ける、着物を着る、布団をかける
そんなリアルを丁寧に描くことで
リアリティ(現実ではなく現実感)を作り出し、
作品のクレディビリティを
どんどん高める一方で、
その技術が多用され、観客から主体性や
想像力を奪うアニメーション界に
彼は警鐘を鳴らした
すべてを見つめよ、考えろ、疑えと
それは、かぐや姫が地球の美しさを知るために
ここに降りてきたにもかかわらず、
人が決めた不自然な制度ばかりの都に移り、
自然美から遠ざかってしまった罪悪感と
同じだった
私もまた、理解した気でいて、結局は
作者の敷かれたレールの上を歩いていただけだった
でも、と私はまたここでふたたび思う
じゃあかぐや姫の人生は 失敗だったのか
彼女を批判するために
わざとあんな平穏な日々があったのかと
違う、私の中で何かが違うと叫ぶ
あの翁や嫗の漕ぎ出した、
かぐや姫の子育ての日々
あの懐かしくも平凡な日々
こんな歌が作中で何度も流れた
「まわれまわれ めぐれよ はるかなときよ
めぐって心を取り戻せ
鳥虫獣 草木花
人の情けを育みて
待つとし聞かば 今帰りこむ」
アニメーションをみると、
流れる涙に溶けて
自分の身体が崩れていく気がする
こわばった筋肉も
信じきっていた骨も
ばらばらになる 分解されて
私はもういちど自分で組み立てる
そうやってこつこつ生きてきた
それは毎回組み立てている気に
なっていたのかもしれないし、
本当にそうだったかもしれない
真の悲劇はかぐや姫が犯した罪や罰でもなく、月に還ることそのものだ
悩みも苦しみも何もない月の世界に
還ってしまうこと
それこそが美しく、寂しく、本当に救いのない
私たちは悔やまなければいけない
日々を生き、何度も何度も分解して立て直して
やり直すことにきっと意味がある
「あなた」が「待つ」ていることを
知っていれば
私たちは心を震わせて
誰かに駆け寄ることができるのだから
高畑監督はかぐや姫を否定しない
アニメーションのことも、私のことも
だから 走れ、駆け出せ、と追い立てる
本物の私の気持ちで 本当に心を動かして
そうすればどこに向かうべきなのか
アニメーションならきっと表現できる
あなたならきっとわかるからと
かぐや姫は最後に一度だけ、振り返る
自分がいた世界のこと
青くて汚くて悲しみも苦しみもあったことを
もう思い出せない日々なのに
勝手に涙がこぼれるかぐや姫と、
彼女に贈るように流れるわらべ歌
咲いて実って散ったとて
生まれて育って死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちがよみがえる
私の心に湧いてくる
感動とも同情とも違う、このきもちは何なのか
あはれ、の言葉が浮かんだ
「あぁ、我」を語源とする言葉
源氏物語注釈「玉の小櫛」で
本居宣長はその言葉をこう解釈する
「ただかなしき事、うきこと、戀しきことなど、すべて心に思うにかなはぬすぢには、
感ずること、こよなく深きわざなるが故」
本居宣長、子安宣邦(校注)「玉の小櫛二の巻」
版元文庫
避けることができない困難に対すると、
心は深く、内へと向かい、自らを見つめ、
無力感に陥るときに
認識はさらに深化する
そうして生まれる
「あぁ、我」「じゃあ、私は?」の感情
月へ還っていくしかなかったかぐや姫と、
なぜだかこぼれる涙を見ていると
私の心もまた疑問でいっぱいになる
たぶん一生かけて内に問うべきもの
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