見出し画像

大人になる。


自分の中の知らない部分とか、脅威性を帯びている部分を、自分が知らないことがすごく怖い。

たとえば何か悲しくて腹が立ったことがあった時、生まれたばかりの赤ちゃんは

・泣く

しかできないのが、
わたしの場合、

・泣く

の他に、

・暴飲暴食をする
・寝る
・好きな映画を見て気晴らしをする

といった選択肢がある。
そしてここに、例えば

・人を殴る
・人を殺す

といったものもある。これは実際にしてはいけないとわかっているし、もちろん他者に対してしたこともないけれど腹が立った時に人を「殴るあるいは殺す」という行動の例を日々のニュースやテレビドラマ、小説で触れているので、選択肢の中にこれが存在してしまう。

使うことはなくとも、わたしはこの選択肢を持っている。そして残念なことに、使ったことがなくても、選択肢を知っている以上わたしはいつかこの選択肢を使う時がくるかもしれない。

それが怖い。

つらくてつらくて死にそうになったことがある。そういう時は、なにも冷静ではなくて、ただ身体だけが死に向かうように走ってしまうので、それがいけないことであるとか、危険なことであるとか、もっといえば楽しみにしているLIVEに行けなくなる、とか、親が悲しむかもしれない、とかそういったことは一切考え(られ)ない(考えないというか思いもつかない)。

だからもし、そういった窮地に立たされた時に、
人を殺すという選択肢が自分の中でだめだと判断できるかわからないし、いくら今理解していても、その時になってしまわないとわたしのようすはわからない。

窮地とはいかないまでも、平常から少し逸れたところに立ったり、足元がぐらつくことが最近はよくあって、そういう自分のこわさに、自分で怯えている。

わたしはなにをしてしまうんだろうかって。

演劇などの舞台を見ながら、このクライマックスのシーンでわたしが叫びながら舞台に走り飛び乗って、躍り出たらどうなるんだろうと思うことがよくあるし、(舞台を見ていると必ず一度はその考えになる)ほとんどの確率でそのようなことはしないけれど、その思考を知ってしまった以上、わたしはもうその選択肢をなしにすることはできない。

知識や選択肢は、自分を守る盾にもなるし、誰かを傷つける凶器にもなる。殺してはいけないことを知っているし、でもそれは殺してしまう可能性も孕んでいる。

何も知らないということを知ってしまっている、というひどく矛盾しているこの状況に怯えている。


知識がたくさんある人や経験を多く積んできた人は、そういった矛盾と日々戦っているのかもしれない。

もちろん、時には忘れることもあるけれど、知識や経験は、年齢に比例するし、こんなことなら歳なんてとりたくなかったと思う。良いことだってあるのはわかっているけれど、生きていたら、選択肢の良し悪し(そもそも矛盾があるから良し悪しをつけるのは難しいけれど)をみて選択肢や知識を選ぶことはできない。

わたしはわたしの中のたくさんの自分と相談して生きているし、謙遜しているわたしも好き勝手に生きているわたしもいるし、そういうのを丁寧に飼い慣らせていたら、こんな生きづらくはないんだろうな。

あるいは、知識量とか経験が関係なくて、"大人"になったらそういうのがうまく飼い慣らせるようになるのかもしれない。分別がつくようになるのかもしれない。大人は子供が大きくなっただけだと思っているけれど、見えないところですごい棲み分けがなされているのかもしれない。
理解と感情が別のところにできるなんて、生きやすいだろうなと思うし、それと同時に、世界に慣らされている気もして、やっぱりまだ大人になるのは怖い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?