見出し画像

これか!

男性ブランコさんに沼ってから早半年。ネタを観まくり、主観分析までしちゃっている今日この頃。

ずっと気になっていた事があります。他のコント師さんとはひと味違うな、という点。


謎のオチ


脈絡も因果もないオチ。これがしばしば見受けられるのです。しかし全部がそうではなく、『ボトルメール』に代表される「ストーリーや流れ自体のおもしろさ」で最後まで走り魅せるネタも多いです。おそらく2軸で作っておられるのでしょう、器用すぎます。。


さて、筆者がどうにも引っ掛かる「謎オチ」コントをご紹介。

『花』『とある女の子のティル』『1パーセント』『親子』(ヘジホジ)『飲食店』(最近ライブでされてるやつ)・・・※こちらに挙げるネタがストーリーはおもしろくないという意味では断じてありません。引けを取らずおもしろいです。あくまでも、オチが気になるという括りです。

観ていただくと分かります。全然流れを汲んでいません。

これだけのストーリーがあるのに、伏線回収しまくったり、ボケをリサイクルしたりしないなんて、素人目からしたら勿体なさすら感じます。感覚としては、「裏切られた、いい意味で」。ここまでやっておいて敢えて違う方向からヒュン!って投げてくる。そのせいで、惚けていたところを現実に引き戻されるのです。これは一体何なのか。どういうつもりなのか。ずっと考えていたわけですが、先日図書館の中をお散歩していたら、思いがけず答えらしきものを見つけました。


落語


男性ブランコのコントには、落語がある。

要するに、この不可解なオチは落語の”落ち”の系譜だと考えられます。


~~~以下、参考引用~~~

まず、落語の「落ち」には「物語を終わらせる」という働きがあります。ここで、物語の「結末」との違いが見られます。結末は、それ自体にれっきとした意味を持たなくてはなりません。起承転結というレールの末尾に相応しい形で、終わるべくして終わる。物語というのは、最初から結末という目的地に向かって走り出しているのです。しかし、落語の落ちはそうではありません。「落ちを言ったら終わり」がルールなので、落ち自体の出来はどうでもいいのです。ストーリーと無関係でもいいし、なんなら面白くなくてもいい。話を終えるのが目的だから。この「落ち」によって客席に生まれるものは、「ここで終わるのか!」という衝撃。”結”に縛られない、”話”に縛られないのが落ちの良さなのです。

では何でもいいのかというと、それは違います。落ちは「高いところから落とす」のが醍醐味。落とすために、高めなければならない。つまり、落ちを言うためには、その前に物語を盛り上げ、観衆を引き込み、緊張を高めなければならないのです。先程、落ち自体が面白くなくてもいいと言いましたが、これは観衆が何に笑うかを図った上での見解です。ズバリ、観衆は盛り上がりの頂点から一気に落とされたことに笑うのです。緊張の極みからストンと力が緩んだ時…これが笑いの原点。物語にのめり込んだところで突然終わって現実に戻ってくる。そういうわけで、落ちは下げとも呼ばれます。


~~~

男性ブランコさんのキャッチフレーズに「文学的コント」があります。筆者はこれを、まるで小説のよう、とストーリーの出来を評するものだと思っていました。その要素も勿論ありますが、もうひとつ深い所に、ジャンルを越えた文学性がありました。お二人は決して、落語を崩してやっているわけではないのです。コントを、やっているのです。落語は抽象性と孤立性からなる「耳の物語」です。対する「目の物語」は、具体性と関連性を求めます。お二人の創る”コント”とは、このすべてが絶妙に掛け合わせられていると思います。分かるところと、分からないところ。つながるところと、つながらないところ。見えるところと、見えないところ。。コントという形でしか、できない表現だから。

落ちに特化してお話してきましたが、ネタの節々で落語が見られます。”言葉遊び”の類では、駄洒落とか、掛け言葉とか、うまいこと言う、とか。
今回、本質的な部分で落語って素敵やなぁと思ったのが、「ダメなやつを笑ってやる」ということ。これは蔑むという意味ではなく、あなたにも私にもある”人間のダメな所”をお話にすることで、くすぐったい気持ちや情けない気持ちをも受け容れて、すべての人間を愛おしく感じられるようにするというもの。あぁこれは、言わずもがなではありませんか。あの二人が、今日新しい形で魅せてくれる世界のこと。


皆様の明日が、美しく彩りますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?