明日の「あなた」は本当に「あなた」ですか?

よく教師が4年後の自分であったり数十年後の自分であったりを考えさせようとするが、いまいちピンと来ない。

しかしこれを。ピンポイントの1点で考えると途端に怖くなるのは自分だけだろうか。

例えば、1日後。の、この時間ピッタリ。に自分が何をしているかを考えてみる。

災害や事故に遭わない限りほぼ確実にこの部屋にいるだろう。

トイレかもしれないし風呂に入ってるかもしれないしTwitterをしているかもしれない。

ここで怖いのは、たった1日先の事なのに明日の自分は、今日(今)の自分のことを全く考えてないということだ。今、自分は明日の自分の事が非常に気になっている。一体何をしながら何を考えているのか。しかし明日の自分はこうして今考えていたということを忘れているだろう。

明日の自分を例にしたが、これは1時間後でも良いし、50年後でも良い。こちら側からは考える(想像する)ことが出来る。大雑把ではなく、〜年後の「ちょうど今の時間」と。自分は何年後であろうとも確実にこの時刻に「いる」わけだ。地球上のどこかに。時間は連続である。つまり〜年後の「今」という一点を確実に過ぎる。しかしもちろん今必死に考えてることなど覚えてるはずもない。

考えるうちに、ふと、今の自分と今以外の自分は全く別物ではないかと思えてくる。

こういうことを考え始めたのは今に始まったことではない。確か小学生くらいの時。家でトイレを済ませ、月の変わり目だったのでカレンダーをめくった。自分にしては珍しい行為だった。その時、来月もこうしてめくるんだろうなあと思ったのが始まりであった。来月の今この瞬間は何をしているだろうかと考えた。暑いから半袖来てるかな、友達とゲームしてるかな、といった程度であったのかもしれない。しかし来月のカレンダーは親がめくり(いつの間にかめくっており)、自分がたまたまめくることになったのはおよそ半年後であった。めくる瞬間にこのカレンダーをめくった半年前を思い出した。あぁ、ごめん半年前の自分、めくるの忘れてた…と思ったのかもしれない。ただその時の事で「今」、確実に覚えているのはとても不思議な感覚に陥ったことだ。まるで時がループしたような。気づいたら時間が経っていた。めくる前は来月のことを考えていた。もちろん半年前から見た来月、つまり5ヵ月前のことなど覚えていない。そして、その瞬間に、同じように3ヶ月後、1年後、そして数十年後のことを考えた。〜年後の僕は今頃してるかな、〜年後の僕は〜だといいな。「〜」に当てはまる内容は全て今は忘れた。ただそのような経験だけ覚えている。

ここでまた怖いのが、その「〜年後の僕」はとっくに過ぎてしまっているかもしれないしまだ数年先かもしれないし「今この瞬間」かもしれない。それは分からないが確実に言えるのは、「いる」ということだ。その時思い描いていた〜年後の自分が。人生の中のどこかには。気づくわけもないのに。
そして今も文字を打ちながら考える。一年後の「この瞬間の」自分を。バイトはしているのか。授業はついていけているか。趣味は上手くいっているか。どうせこの時間だとまだ起きてこのベッドに座っているのだろう、などなど。気になることは山ほどある。そして1年後、この瞬間が訪れる事だけは確定している。未来の自分はいるわけだが未来の自分を作るのは今この一瞬一瞬である。

時間を微分すると「今」になり、積分すると「人生」になるとどこかの名言集で見たのを今思い出した。どんな些細なことも未来に繋がる気がしてならない。そもそもセンターの点数が実際よりもっと高かったらボーダーの高い大学にチャレンジしていたであろうし、低かったら志望校を下げていた。また、この大学に落ちていたら私立に通っている。このような人は自分だけではないはずである。受験規模だけでなく、実際には何十億人もの偶然が絡み合って「今」がある。これから先も。一つ一つの行動が自分や他人に影響を与え、絶えずその人が「今」想像する〜年後の自分というものを常に変え続けている。

自分のことで言うと、夏休みのバイトは何をするか。この後予習をするか復習をするか。明日の放課後に勉強をするかトランプをするか。今2択で悩んでいるAmazon電子機器商品をどちらにするか。明日の靴を左から履くか右から履くか。次のジャンケンでパーを出すかグーを出すか。どんな些細なことも何かしら今後に影響して今想像している〜年後の自分は毎秒毎瞬更新され続けているのだろう。

人生は偶然の連続であるが未来の自分は必然的に「いる」。その事は分かる。どんな先にいる自分でも無限に考えることが可能である。しかし無限に無視されることも分かっている。分かっていることだらけなのにこの気持ち悪さは何なのであろうか。

むしろ分からないことしかない「死」のことについては自分はあまり考えない。極端な例を挙げる。50億年後、太陽が寿命を迎えると言われている。いや、ここでは曖昧な表現を避けるため、1兆年後を考える。1兆年後、確実に地球は存在しない。その事がわかっている。いやいやそれまでに僕達は死んでるでしょw、先の話すぎw、と笑うかもしれない。でも「確実に」自分たち人間が跡形もなく無くなる事が「確実に」決まっている。想像すると恐ろしいことこの上ない。それが何年後であろうと関係ない。マヤ予言やら隕石衝突で怖がってる人はどうかと思う。何を宗教や0.0000何%の確率に恐れるのか。1兆年後には100.0000%誰もいなくなるというのに。どれほど何かに熱中しても、どれほど一生懸命勉強しても、どんなに経済的に発展しても、どれほど便利な世の中になっても、どれほど宇宙のことを理解できても結局は全て無くなるのだ。

しかしまぁこれもどうしようもないことである。確かに怖さはあるが、自分がよく考えるあのなんとも言えぬ表現しがたい気持ち悪さは無い。
それよりもやはり今気になることは、来月の自分はどうしているのかということだ。来月の「今」何を見て何を感じ何を考えているのか。考え出すと気になって気になって気になって仕方なくて仕方なくて仕方なくて。本当に気になって気になって気になって仕方なくて仕方ない。

まぁきっとこのようなツイートをした事もさっぱり忘れ、「カップラーメンなうw」とでも呟いているのだろう

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