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『霊柩車の誕生』 井上章一 文庫解説


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 本書、『霊柩車の誕生』は1984年に生まれた。

  1990年、この本の新版が朝日選書から単行本として、そして2012年、今回の増補新版が朝日文庫へと三度戸籍を変えて生まれ変わった。

  「死」と「喪」を扱う書にして、この誕生から永らえる長寿こそ名著の証明であることは言を待たない。
 また、この本は建築史家にして日本人の美醜ヒエラルキーを紐解いた『美人論』で1991年にベストセラー作家になった著者の出版デビュー作=作家「誕生」作でもある。

 「美人」という観点で言えば、著者は大正~昭和十年代の文化エリートたちによる、帝冠様式霊柩車の酷評を拾い集め、言わば「霊柩車不美人論」を先に著していたことにもなる。

 しかし、この「不美人」こそ官製霊柩車の人気の源泉であったことが、まるで上質のミステリーを読むかのように解き明かしていく。
  謎解きは自動車登場以前の葬祭文化にも踏み込み、大名行列が葬式に導入され「奴(やっこ)の行列」という特殊な芸能が、葬列の中に保存され、昭和初期には消滅したなどの意匠の歴史を遡る。

  この辺りは、時には大胆な「推定」も混ざると断りつつ、“朝日”文庫的に言えば「霊柩車~奴(やつ)の正体」を掘り下げていく。
  その筆致は知的興奮が満ち溢れている。

 さて、ここで読者は、何故、一介の「漫才師」に過ぎないボクが「弔辞」、いや、この名著の文庫化の「祝辞」とでも言うべき解説を依頼されたか、不思議に思わないだろうか?

  僕は世評に名高い、この名著の解説を依頼された瞬間「何故知っているのだろう?」と不可思議な想いに囚われた。

 まるで霊柩車が我が家に止まったような、突然の訃報、いや、この突然の朗報に接し、その奇縁に、僕が今まで何処で話したこともない、記したこともない霊柩車にまつわる逸話を解説に交えて応えてみたい──。

 1962年岡山県倉敷市生まれの僕の生家の三軒隣が地元でも大手の葬儀会社だった。
  幼少時、死とは何か?生とは何か?葬儀とは何か? 
  もちろん知る由もなかった。
  この葬儀社は田舎の近隣には無い、天井の高い倉庫を持ち、そこには荘厳な霊柩車が何台も停まっていた。

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  道を隔てた向かいの空き地は更にだだっ広い駐車場で、奥の方は野草に覆われていた。
  この本で語られている「官製」の霊柩車がデーンと鎮座し、黄金の装飾は、お祭りで見る神輿のように華やかに見えた。
  大衆車のいすゞのベレットが当時の我が家のマイカーであった。 
  そんな、ごく普通の子にとって霊柩車以外にも葬儀社の駐車場に停められたリンカーンやシボレー、キャデラックなど巨大なボンネットも誇らしげなアメ車たちは正に目で見る『自動車ショー歌』であった。
  そして荘厳なるアメ車たちも、いすゞ製の乗用車も今や寿命を終え、過去帳入りする……。
 まるで官製霊柩車のように。

  60年代の幼年期、ボクは此処にしか無い異形のアメリカ製の車に興味を惹かれ、なにも意識することなく広場で遊び、鍵もかけず放置したままの霊柩車の中に出入りし、こともあろうに「かくれんぼ」をして遊んだ。
  葬儀社で働く人たちが、その行為を咎めることはなかった。

  青空の下、近所の子供が無邪気に遊ぶ様子を笑って眺めながらキャッチボールをしていた。
 グローブが舶来モノで日本製ではなかったのが今も印象に残っている。
  そこに「死の気配」は微塵もなかった。

  著者が「霊柩車には聖なる力はほとんどない。聖性を失いつつあった葬送からさらに聖性をもぎとったのが霊柩車だったのである」と描く、そのままの光景が目の前にあった。

  さらに「死のポルノグラフィー化」に即せばポルノ写真は、この草薮に散乱し、子供にも容易に目の当りにすることができた。 
  近所の小学生高学年は、この広場に捨てられる、輸入モノのPLAYBOYなどエロ雑誌にたむろしていた。
  その大っぴらに反して、一歩通りを隔てると通学路で大人たちが霊柩車を見ると顔色を変え「親指を隠しなさい」指図し、見てはならぬ物を見るように顔をしかめた。
  幼児には、まだ「意味」も「忌み」もわかっていなかった。

 大人は何故、僕たちのあの車を「エンギがワルイ」と目を背けるのか?

 そして僕が幼稚園の年長の時、祖父・小野嘉一が死んだ。
  一家の家長として君臨していた祖父は長く実家で病床に伏し、病院ではなく家で逝った。
  死後、葬式が生家で営まれ、親戚は勢ぞろいし、真言宗のお経が今も諳んじられるほど儀式は長く続いた。
  祖父は木製の棺桶に入れられていた。
  そして、その棺桶が、僕たちのあの車に積み込まれた時、子供心にも衝撃が走った。
  それまで霊柩車が死体を乗せるものだとはわかっていなかった。
  山の奥の火葬場に連れて行かれた祖父は、そのまま焼かれた。

 人は死に焼かれ煙になるのだ。

 僕が人生のなかで死を見つめた初めての瞬間だった。
 メメント・モリ──。
 ショッキングだった。
 以降、「死への意識」はボクの人生をついてまわった。

  誰にもあることだろうが、小学校の低学年はタナトフォビア(極端に死を恐れる病的状態)にかられ数週間眠れぬ日が続いた。
 この死への強迫観念は長く僕の思春期を覆った。

  読書が好きであったので、高学年で石川啄木(没年26)や太宰治(没年38)の夭折の歳が頭に入ってしまった。
 38歳を過ぎた時、自分が太宰より長生きしたと意識し、次は夏目漱石だと『死』を意識する。 

  多くの人が夏目漱石は「長く生きた」と錯覚しているが49歳と10ヶ月で亡くなっている。
  昨年、その日を経過した時、日記に「吾輩は長生きである」と宣言せずにはいられなかった。

  41歳で初めての子供が生まれた時「もう自分は自死をすることがない」という確信に襲われた。
 奇異に思われるが、死への長い強迫観念があるが故の感慨であった。

  父は、ボクが46歳の時、亡くなった。
  父が乗せられたのは、地味な洋式の霊柩車であったが、僕の脳の残像には、あの日の官製の霊柩車が離れなかった。

  死とは「消滅」であることは分かっているが自分にとっては、たとえ奇天烈な意匠ではあっても和式の霊柩車こそが、あの世への移動手段であるイメージを消し去ることが出来ない。

  さて、この本を読むと銭湯のような歌舞伎座、日本国憲法前文に代表される翻訳調の違和感。
 建築でも文章でも日本人は、この和洋折衷というバランスの中で悩んできたことを知らされる。
  三島由紀夫は『文章読本』の中で「風俗は滑稽に見えたときおしまいであり、美は珍奇からはじまって滑稽で終る」と書いた。

  今後、日本も和式霊柩車から、ただ黒くて長い質素な洋式霊柩車がさらに主流となるのだろうか?
  ますます死は「かくされる」のだろうか?
  異なるものが隠されていく社会構造は広く浸透していく。

  職業、漫才師である、ボクは元々の出自はストリップ小屋出身で、今でも舞台でのみ、放送コードとは無縁のむき出しの漫才をしている。
 テレビとはあえて距離をとっている。
 「ポルノグラフィー化」し、大っぴらに隠すことしかできなくなってしまったテレビ・バラエティーに対しても、和式霊柩車と同じ行く末を重ねてしまう。

  文化エリートたちには嫌われていたが、大衆には喜ばれた霊柩車。
  
 古典落語こそ本寸法の寄席において「色物」という差別を受ける、ボクたち漫才師にとって、権力者がつくりだしたキッチュである東照宮と、大衆がつくりだしたキッチュである宮型霊柩車との対比、二極構造は、我が事のようにすら思えた。
 
  芸能に於いて漫才こそ、雅俗、猥雑、非対称の天こ盛りではないか。 
  だからこそ大衆がつくりだしたキッチュである宮型霊柩車のような、死もエロもタブーも何もかも詰め込み輿のように賑やかに担ぐ、浅草キッドの漫才に存在意義はある。

 「死」と同時に去りゆく芸能──。

 などと、身を捩り、我田引水して、この本を読み通したが、このメタファーはどの業界にも通じる真理だ。

  宗教学者の島田裕巳氏の著作によれば、葬祭業界は出版業界と同じ「2兆円産業」だ。
 違うところは、この「喪の仕事」は今後2040年まで右肩上がりの成長が見込まれるデッドならぬライブ産業という点だ。

  その意味では「失われゆく霊柩車が注目され、その歴史が読まれる」必然はある。
 霊柩車は亡くなることなく形と役割を変え時代に併走し、本書も形と役割を変え長く読まれることだろう。

  さて今年50歳を超えたボクにも死は静かに、あるいは理不尽に忍び寄り無遠慮に生を奪うこととなる。

  そして、幼少時と同じく、僕もまた霊柩車に乗るのだ。
 
  そのときは遊びではない。本物の「かくれんぼ」だ。

 本当の「幼年期の終わり」とは、人生でただ一度、棺と共に霊柩車に乗ることなのだろう。

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