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青き獣を野に放て「5話」

再編 平成3年川崎警察署襲撃事件

1章 勇と了と秋雪

5話 「 平成元年4月22日 」


◆ 了 19歳 

朝日を後頭部に受けて、うつ伏せのまま眼を開けた。

身体が動かない。

当たり前だ。昨日、全速の車に轢かれた。
横には、会長の息子が寝ている。唇が紫色のままだ、昨日、車で海に落ちて、俺が海に飛び込んで助けた。
まだ身体が冷えているのだろうか?

俺も無理に動かないで眼線を室内に遊ばせ、部屋の入り口を見た。
「鍵が開いている…後で閉めよう」
そう思った時、気味の悪い〝手〟がドアを開け入ってきた。肘の下ぐらいで切れた手は、部屋の中を窺っていたが、俺に気付き、右の脚首に飛びついてきた。
「おい」という声を聞いた瞬間、手の感触が消えた。

「夢か…」

氷が解けるようにゆっくりと身体を動かした。
動く度に、身体のどこかで、皹でも剥がれ落ちるような感じがした。

「おい」

もう一度、声を掛けられた。声のする方へ首を動かすと、毛布に包まった会長の息子が、こっちを睨んでいた。

「風呂を温めてくれ、また入る」

紫の唇が震えていた。
俺は軋む身体を起こして、フラフラと歩いた。

給湯器のグリップを捻ると、こもった破裂音がして、浴槽のぬるま湯に細かい泡が浮いては消えていく。

「15分くらい待って下さい」

会長の息子は、返事もせず毛布に包まっていた。

「何か買って来ます」

部屋を出た。

パンとコーヒーとタバコを買った。
部屋に戻ると、会長の息子は居なかった。
足元を見ると、濡れた靴が有った。
風呂場から呻き声が聞こえ、ちょうど湯船に浸かるところみたいだ。
磨りガラスの外から膝を付いて、声を掛けた。

「あの…」
「ああ?」
「食いものを買ってきました、会長」
「ああ…」

その瞬間から、その人を〈会長〉と呼んだ。


会長と俺は駅に向かった。

「横浜に兄弟がいる」

会長がそう言った後、駅までの道を歩きながらポツポツと会話をした。

「タクシーをとめましょうか?」
「いや」
「金は俺が払います。サイフ…駄目にしちゃったし」
「ああ、じゃあ、靴を買ってくれ、ゴム草履はまだ寒い」
服は乾いたが、さすがに靴は乾かなかった。
下駄箱に転がっていたのもそれしかなかった。

「兄弟って?」
「兄貴がな…」
「お兄さんですか」
「ああ」
「…ええと、タバコ吸います?」
「ああ」

昨日と逆転したように、会長は喋らない。

駅ビルで会長の靴を買い、横浜に向かう特急に乗った。
特急は10分で横浜駅に着く。
電車の中、はしゃぐ子供を見ながら、会長は「俺の親父は最初、豚で儲けたんだ」
と言った。
黙って聞いていた。

「奪われたものを取り返す…車もポシャったしな」

苦笑いをして目線を逸らした。

「金がいるな」
また言った。

「豚はな、効率がいいんだ」

会長はそのまま黙った。

10分後、
人の波に流されるように駅に降りた。

「横浜はみんな、キラキラしているな」

会長は言った。

「そうですか?」
「ああ、俺にはそう見える。あの町で生まれたからな」

喋りながら階段を下りて、タクシーに乗り込んだ。

「みなとみらいのタワーマンション」

そう言った後、会長はもう喋らなかった。

最近始まったみとみらい開発地区に並ぶ真新しい高層マンションの足元は、日が射さず寒々しかった。
会長に「ここにいろ」そう言われて、ガラスの自動ドアの間で待たされた。会長は、エントランスのインターフォンを押して相手と話しをしていたが、直ぐに戻ってきた。

「嫁が出た、また後で来る」

そう言って、タクシーで来た道を歩いて戻った。

歩く道すがら、目に付く酒屋に何度も入った。
会長は何とかっていう〝ウォッカ〟が欲しいらしく、入っては店主に聞いた。酒屋の人間は大概がやる気が無かった。ウォッカも無かった。
タクシーで10分の距離を、歩きながら酒屋を巡ると2時間近く掛かった。
以外に根気強いところもあるんだな、と思った。

7、8件まわったところの酒屋で、珍しく威勢の良いにいちゃんが、「あるよ」と言って、色んな種類の瓶が100本位並ぶ棚から、一本持ってきた。

「うちはバーとかにも卸すから、こういうのは揃えているんだ」

会長も「助かった」と言ってニコニコしていた。
レジで俺が会計を済ませていたら、会長は「もう一本くれる?」と言った。にいちゃんは「あいよっ」と言って棚に戻った。

会長はニコニコと歩いていた。
その場の雰囲気で、「何です、それ?」と声を掛けた。
会長は答えてくれた。

「これな、度数98のウォッカだ」
「98?」
「ああ?アルコール度数な。火が着いてもほぼ完全燃焼だから見えないぜ」
「そんな酒があるんですか?」
「あるんだな、これが」

終始、会長は機嫌が良かった。よっぽど嬉しかったんだろう。

「凄いですね。それをどうするんです?」
「おお、お前が昔住んでいたアパートの大家に飲ませるんだよ」

自分の顔から、血の気と表情が顏から引いていくのが分かった。

「そんな顔しても駄目だぜ。行こう」

会長は、ニコニコと瓶を眺めながら歩いた。

関内の高架下にあった露天のバッタモン屋で、紺のネクタイと、キャップと、ショルダーバッグを買った。
ネクタイは会長が首に巻いている。
キャップは被れと渡された。
バックには2本のウォッカを入れた。

〝あのアパート〟がある町を歩いていた。
そこは、根岸駅の近くにあった。
駅で降りた時、会長に言われて、薬局で白い布マスクを買った。

「お前のその顔…」

そう言われて、薬局の窓ガラスに自分の顔を寄せた。
口のまわりが丸く黒紫に腫れていた。

「ずっとジロジロみんなに見られていたぜ。こっからはそれしとけ」

会長は自分の咽仏に手をやって、作業服の、一番上のボタンを閉めろというジェスチャーをした。何もかも訳が分らないまま、首のボタンを詰めた。

日が翳り出す中、アパートへ向かって歩いていた。
後ろを歩く会長は、不自然に浮かれていた。
道の途中、右手にある公園を見た。

会長が「こっちなのか?」と声を掛けた。「いえ…」と言って先に歩いた。

会長の影は、夕日に押されて、長く、細く、俺の足元に重なっていた。
咽が渇いて、吐き気がした。

「この角を曲がれば見えます。」そう言って、会長の前を歩いた。
角を曲がって、息を漏らした。
漏らした息はマスクに当たって上に吹き上がり、睫を小さく揺らした。
その場所には何も無かった。
アパートも、大家の家も無く、広い駐車場になっていた。駐車場の向こう側に、3階建てのねずみ色の建物が建っていた。

「どうした?」
「いえ…」
「どうした?」

もう一度聞かれた。

「…有りません…もう有りません。アパートも大家の家も」
「ふーん…あれは?」

会長は、駐車場の奥の3階建ての建物を指した。

「さあ?」
「あれは無かった?」
「そうですね。ここら辺だけ変わっていますね」

会長は建物に向かって歩いた。
会長の歩脚に合わせて、辺りは暗くなった。まるで暗闇を連れて進んでいる。
会長は建物の玄関先に立って、〝何か〟を探しているようだ。その何かを見つけ、影で表情の見えない顔が手を振っていた。

ふと、朝の〝手〟を思い出した。
そう考えた時、手は、今も歩みを遮るように脚に絡み付き、進む足取りを健気に静止しているように思えた。
分っているよ。
脚元の手を、やさしく振り放すように最初の一歩を踏み出し、妹の名前を2回呟いた。

「…」「…」

俺は会長と行くと決めたんだ。

会長の横に立った。
これ、と指す会長の手の先には、表札があった。

「間違いないです」
下を向いた。

「大家の苗字です」

そう言うと、会長は迷わずインターフォンを押した。
こもった〈大家のばあさん〉の声が、インターフォンの丸い網目から返ってきた。

「ショカツノモノです。ちょっとお伺いしたい事がありまして」

会長はとても優しく言った。
玄関が開くまでに、30秒位掛かった。
会長はその間に、「黙って、後ろに坐っていろ」と言って、正面を向いた後、「お前の妹の金を取り戻す」と言った。

玄関を上がった左手の仏間に通された。
会長は、玄関を上がる時、靴棚の上に置かれた電話の受話器を少しだけずらした。
仏間に入ると、壁に埋まった仏壇に向かって、俺達は座らされた。部屋には、真新しい畳と線香の匂いがした。
大家のばあさんは〈息子〉を連れて入ってきた。
息子は相変わらず怒った顔をしていた。耳の辺りの髪の毛が、白く斑になっていた。
顔は50歳ぐらいに見えた。
大家のばあさんは「警察の方が何でしょうねえ…」と言いながら、目線をこっちに向ける事は無かった。

「ご主人は?」

会長は相変わらず優しく言った。
大家のばあさんは、その事にハッとした様に喋り出した。

「いえね、主人は亡くなりましてね、まあ、うちも息子が病気なものでねえ、随分、心配はしていましたし、とりわけ主人はもう亡くなるまで残される者の心配をねえ、まあ、あたし達は戦後から…」
「いつ頃ですか?」

会長がブッツリと、大家のばあさんの話を切った。

「え?」

大家のばあさんは鳩が豆鉄砲くらった様な顔をした。

「いえ、お亡くなりなられたのは?」
「ええ?ああ、まあ、一昨年です」
「2年前?」
「そうなりますねえ…」

息子は天井を見たり、自分が入って来たほうを見たりしていた。

「息子さん、すいませんね。すぐ終わりますから」

会長は、優しく声を掛けた。
息子は「ひょっ」と言って、一瞬だけ泣きそうな顔になったが、また怒った顔になって天井を見た。

「じゃあ、手短にお話進めますね。4年前にね、こちらにアパートありましたよね。そこに息子と娘のいる母子家庭が住んで…」
「そういうのは主人にま…」
「…ましたよねえ?」

大家のばあさんが、何か話しを挿もうとしたが、会長の声に追い出された。

「娘さん、その時、5歳ぐらいですかねえ。そこのキチガイの息子さんが駐車場で事故死させていますよね。で、単刀直入に言いますと、お宅さん、その娘さんに払う保険金を払っていませんね?」
「キチガイって…」

大家のばあさんはそこだけ引っ掛かった。

「5百万は払っていますね?5百万は払いましたね?事故後、直ぐにに持って行きましたね?おかしいですね、そんなに早く保険金って出るもんですかねえ?障害があるとはいえ5歳の子供の死んだのに、保険金が5百万というのは安過ぎますねえ?」
会長は脚を崩して、膝を立てた。

「ばあさん、あんたが死んでももうちょい出るぜ。ネコババしたな?」

大家のばあさんは顔を上げ、天井をにらみつけた。

「私有地なんだ、家賃も払わず逃げた奴らなんかしるもんか」

「おいっお前、警察手帳見せろ」

息子が始めて喋った。

「お前のそれ、何なんだ?それが警察の態度か?」
「俺がいつ警察なんて言った?」
「言ったよう、この人、息子も呼んでこいって」

大家のばあさんが慌てて、息子に言い訳し出した。
会長は確かに、「ショカツノモノです」としか言っていない。

「まあ、いいや、で、実際には幾ら支払われたの?」

会長は、息子を無視した

「証拠があんのかよっ!」

息子が口の端に、細かい泡を溜めながら喚いてきた。

「証拠をみせろ!証拠をみせろ!証拠を見せろ!」
「証拠?」
「証拠をみせろ!証拠をみせろ!」
「あるよ」

会長は気怠く肩を廻して、俺の膝の横に置いていたバックを指した。
何が始まる合図なのか分らず、会長の尻の後ろにバックを置いた。

「ちょっと待ってね」

会長はそう言って、バックの中に手を入れ、ウォッカの瓶を力任せに横に振り抜いた。同時に、夕立のような音を響かせてウォッカが降ってきた。
瓶は、振り抜いた時には息子の側頭部で粉砕していた。

「へあああ!」

倒れた息子に、慌ててにじり寄ろうとした大家のばあさんの頭を、会長は立膝のまま、踵で蹴った。
大家のばあさんは仏壇の横に吹っ飛び、立膝で蹴った会長は、背中から倒れ、息子の頭から湧き出る血が、畳に押し広がってきた。
その血に妹の血を思い出した。
会長がもう一本のウォッカの瓶を取り出し、息子の胸倉を掴んで首を浮かせると、線を引く様に血が滴りだした。
息子に跨った会長が、大家のばあさんに首を向けた。

「おい、ばあさん、おい、おい、ばあさん」

ウォッカの瓶と息子の胸倉で両手が塞がった会長は、ウォッカのアルミの蓋を奥歯で開けて吐き捨てた。

「これはなショットグラスで2杯飲んだら、ぶっ倒れるような酒だ」

会長はそう言って、息子の半開きの口に、小便のように注いだ。
ウォッカは「ゴロッ」といって、咽の奥に吸い込まれたが、直ぐに霧のように吐き出された。会長は構わず、ウォッカを注ぐ。
息子は又吐きだす。

「本当はいくらだったんだ?」
「知らないんだよう、本当に、死んだじいさんしか…」

会長はもう一度、息子の口にウォッカを注いだ。
息子はまた噴霧した。

「この酒をラッパ飲みして、急アルで死んだクズがいたけどよ。それがこの瓶の半分くらいだったよ」

会長は、ウォッカの瓶を自分の顔の前に持ってきて眺めた。

「もう一本あるぜ」

〝もう1本〟は無い。会長は、大家のばあさんにカマをかけた。

「死ぬぜ」

会長の駄目押しに、大家のばあさんは諦めたように口を動かした。

「4…」

小さく呟くその声は信じられない事を言った。

「もう一度言ってみろ」

息子に跨ったまま、会長はもう一度、声にさせた。

「4千5百万。」

大家のばあさんは俯いたまま、言った。

「何処行ったかわかんないし、その月の家賃だって払ってないし」

何を言っているんだろう?
契約の時に家賃は最初に2か月分振り込む。それは貸し手の利益を守るためだ。4千5百万は関係ない。妹は、お前の息子がペシャンコにした。その償いの金が、何故、殺した者の懐に入るのか!
とまらない憤りに、視界がおかしくなってきた。

「うえろっげっげげっ…えれえれえれえれ…」

息子は顔を横に向けて、ドロドロと畳に嘔吐した。

「あらら、寝ゲロしちゃったよ。泥酔だな。ばあさん、リーチだぜ」

会長は楽しそうだ。

「どうしろってのよう」
「どうするもこうするも、金をその親子に返すんだよ」
「無理だよう、どこにいるか分んないんだよう」

ここに居る。

「そういうのはどうにでもなっ…」

言い掛けた会長を息子が撥ねるように痙攣して吹き飛ばし、パコーンと音を立て、仏壇の下の戸袋に頭を突っ込んだ。
その勢いで仏壇の観音扉の中から仏具が飛び出てきた。
〝発作〟だ。

「あああっ…大丈夫かっ…げえっ!」

大家のばあさんは、息子に駆け寄ろうとして蹴り倒された。
もう、この場所が耐えられなかった。
俺は立ち上がろうと出したが、脚がしびれて倒れ、尻餅をついている会長の横に顔を突き出した。

「会長…俺、もう…」

会長はこっちを見ない。

「座っていろ」

「トッへー!」

突然、息子が汽笛みたいな声を、仏壇の中に響かせ、

「ばっかじゃねえ、ばっかじゃねえ、かねなんかねんじゃねえ!」

と、歌うように喋り出した。

「あるわけねえじゃん、いえたてたから、あるわけねえじゃん、びんぼうにんはしんでもいいじゃん、ちえおくれ、はいっ、ちえおくれ、はいっ、おめぐみ、おめぐみ、ひっとざいさんっ」

会長は、大家のばあさんを見た。
大家のばあさんは丸く蹲って、息子の股間に両手を合わせていた。
会長は、大家のばあさんの襟首を掴んだ。

「どういう事だ?」
「キチガイの言う事だよう、気にすんなよう」

もう畳の匂いも線香の匂いもしなかった。甘いアルコールの匂いが鼻の付根まで占領していた。

「きたきたきたきた!」

湯気を発てて、テンションが上がってきた息子が、仏壇に頭を突っ込んだままズボンを脱いだ。
右手に仏像を持ち、左手に位牌を持ち、中空に腰を動かし出した。

「おおいっ!あの女をお、つっれてこおい!あんのっちえおっくれっのかああちゃんをよう!」

股間の突起が真っ赤に怒張し出すと、息子は左手の位牌をポーンと捨て、自分の手で輪っかを作り、真っ赤に膨らんだ股間の突起を突っ込んで、バッコンバッコン動かした。

「やっちんをたっだにすっからっていってまんこおさっせろおい!」

アパートの壁は、向いの道路の足音が畳に響いてくるほどに薄かった。遠くに女の靴の音がする時、それは母さんだ。
その足音を鳴らさず、静かに帰ってくる事があった。

「おまんこさせろううう!やっすいグルメええのお!やっきにっくうくえるずおお!」

そういう日は、必ず「明日、グルメに行こう」と言った。〝グルメ〟は近所の焼肉屋だ。
母さんは、帰りが遅い夜の次の日にグルメに連れて行ってくれた。

「あのちえおくれえのおかあちゃんのまんこにちんぽいれさせろいいいっ、いっつものののののこととととととっへええええっ!」

脚の痺れが取れたと同時に体を起こした。
俺は叫んだ。

「おかあさんっ!」

膝を立て、脚の指で畳を摘み刺した。

「おかあさんっ!」

妹ばかりを気に掛ける母さんを恨んでいた。
子供だったんだ。
母さんは文字通り自分を犠牲にして〝食う〟という事を俺達に提供してくれていた。

「おかあさんっ!」

こんなに大きくなりました。
僕の拳は人を殺せます。

左肘が背中に付くほどに、胸を張った。
力は溜った。
邪悪に威きる息子の股間に、全ての力を乗せた拳を放つ。
一発で殺せ。 
左目から零れた涙が、頬に筋を作り、口の端に溜まった。
血の味がした。
全身を弓にして限界まで引かれた拳を、今、汚らしい大家の息子の股間に振り下ろす。
その後はババア、お前だ。
親子共々、この拳でペシャンコにしてくれよう。
と、
拳を振り下そうとした時、突然、視界が暗くなり、意識を失った。

あまりの怒りにショートした。


◇ 勇 20歳 


ウォッカの匂いが充満した部屋に、俺は尻餅をついて、立膝で胸を張るあいつを見た。

振りかぶった拳に、あいつに遭った夜を思い出した。
ああ、殺すつもりなんだ。そう思った時、糸が切れたようにあいつは倒れた。
顔を畳に押し付け、白眼を剥いている。
あまりの怒りにショートしたんだろう。
キチガイ息子が全力で腰を振りながら、叫んでいる事が本当なら、俺でもショートする。

「ここまでか…」

ウォッカを持って、丸く蹲る家のばあさんの前に立った。
ばあさんは俺を無視した。

こいつは、いつもこうしてきたんだろう。
眼を瞑って、その時間をやり過ごして、三階建の家まで建てた。
立派だよ。

俺はウォッカを、大家のばあさんの頭にかけた。

「うへっ!」

大家のばあさんは、肩を窄めて畳に蹲った。

「さむいよう…」
「アルコールは揮発性が高いから、直ぐに蒸発して気化する。その時にまわりの温度を全て奪っていくんだ」

ちょろちょろと大家のばあさんの頭にかけ続けた。
震えながら見上げてきたばあさんの顔には、黒々としたネズミのような眼が二個、埋まっていた、その眼が、ウォッカを顎に滴らせ、俺を見る。

「もういいだろ?」

黒々とした眼は瞬きもせず、俺を見ている。
寒気がした。
貧乏につけ込み、あいつの母親を自分の息子の性欲の捌け口に宛がい、その息子はあいつの妹を殺し、キチガイを理由に罰を受けない。そして、残された被害者家族への償いの金で、これ幸いにと家を建てる。
すごいよ、開いた口が塞がらない。
父親殺しの俺でも寒気がする覚悟のある眼だ。

「もう、いいだろう?」

眼は、俺を見据える。
畜生、こんな役回りばかりだ。
今までの強気な自分が、嘘のように足元から力が抜けていった。
中身の無くなったウォッカの瓶を畳の上に落とし、慌ててあいつを引きずって部屋から出た。
大家のばあさんは、仏壇に頭を突っ込んでいる息子に、手を合わせて拝みだした。
ひと時もこの場所に居たくなかった。

仏間を出れば、直ぐに玄関だ、俺は靴を履いて、あいつの胸倉を揺さぶった。

「おいっ起きろ!」

薄眼を開けたあいつは、俺の手に何かを握らせた。
ライターだった。
あいつはゆっくりと、俺に言葉をぶつけてきた。

「行きましょう、ふたりで…」

重く切ない愛の詞。

「会長、俺とふたりで…」

甘く優しい悪魔の愛。

俺は瞬きをする為に眼を閉じた。
この眼が開く時、〝答え〟が出ている。

全て。

眼を開け、あいつの胸ポケットのタバコから一本抜いて咥えて、そっと火を点けた。靴を履いたまま立ち上がり、もう一度仏間の引き戸の桟の上に立った。
咥えていたタバコを部屋の中に指で弾いた。
タバコは回転して、重力に従って落ちてゆく。
火先が畳に着く前、ボンッと、給湯器のレバーを捻った時の様な音がした。
部屋中に充満した気化ウォッカに引火した音だ。
それでも、空気の色は変わらない。
アルコールは純度が高い程、炎の色は透明になっていく。ただ、蜃気楼のように揺らめく視界の中で、炎も煙も出さず物が燃えていく。

息子は仏壇に頭を突っ込んだまま硬直し、燃えるビニールの様に皮膚に穴を開け、股間の怒棒は、赤から黒へと焦げては剥けるを繰り返す。
ばあさんは蹲ったまま背中を燃やしていたが、突然、身体を撥ね上げると、低く溜まる透明な火炎が起き上がる勢いに押し上げられ、ばあさんは顔面の全ての穴から轟々と火柱をあげ、のろのろと俺に向かって来る。

亡者だ。

地獄の亡者だ。
迫りくる顔面に靴の裏を当て、部屋の中に押し戻そうとしたら、炎を纏った顔は靴底に張り付き、俺の脚を取り込もうとした。
往生際の悪い奴だ。
地獄へ帰れ。

柱を掴んで、真直ぐに膝を炎の中に振り切った。
顔は、靴の形の模様で皮膚がえぐれ、背中から倒れ、倒れる背中に業火は巻き上げられ、眼に見える炎となって部屋中を濛々と燃やし出した。
もうただの火事だ。

あいつを背負って、建物を後にした。

俺はよろよろと歩いた。
広い駐車場にポツンと立つコンクリートの建物は、立ち去る俺達の背中に黒々とした夜の影を覆い被せていた。
突然、
猛獣の咆哮のような音とともに立ち上がった炎が、蛸の脚のように俺達を追い越したが、直ぐに消えた。
燃えやすい何かに引火したんだろう。
火事は明々と背中を照らす。
俺は振り向かなかった。

来た道筋とは別の、路地を歩いた。
あいつの身体はクソ重い、車の往来が多い通りに出て、タクシーを拾う事にした。

「みなとみらいまで」
「本牧を抜けますか?ふ頭を回りますか?」
「どちらでもいいです」

運転手と俺は、こなれた台詞のように言葉を交わした。
あいつは俺の横で、投げ出された格好のまま寝ていた。
進むタクシーの中に、遠くで駆けていく激しいサイレンが聞こえた。

兄貴に用があった。
寒々しい高層マンションの足元で、タクシーを停めて貰った。

「待っていて下さい」

そう言って、マンションの、広いエントランスに足早に入った。
インターフォンには、例の鼻の穴の広い〈嫁〉が出た。
エレベーターを出て、部屋のドアを開けると、嫁が立っていた。
嫁は黙って、封筒を俺に突き付けた。
それを受け取り、封筒の口に息を吹きかけ、間抜けなひし形に広げた。中には銀行の通帳とカードが入っていた。
通帳を取り出して広げると、〝7〟の後に〝0〟が6つあった。
〝0〟の並びを見るだけで、兄貴がどんな顔をしているか、手に取るようだ。
通帳を封筒に戻した。

「酔っているの?」

嫁は初めて口を利いた。
俺の服に付いた〝ウォッカ〟の匂いの事を言っているんだろう。
俺は嫁の顔を見た。
顔の真ん中の二つの穴は黒々と闇を湛え、時々ふかふかと小さくなる、馬みたいだ。あんまり綺麗じゃないなあと思った。

父親が生きていた頃、あの家でも滅多に顔を遇わせなかった。
大家のばあさんや、その息子に感じたものとは違う嫌悪感が沸いてきた。

「汚らしい女だ」

声に出して言った。
ウォッカの匂いに顰めていた嫁の眉が丸く上がった。
驚いている顔だ。
俺は封筒を落として、顎を掴んだ。
手を放そうと暴れる嫁の腹に、残った拳を振り子のように振って、何発もくれてやった。嫁は崩れそうになったが、顎を掴む手に力を入れて、嫁の腰から下の服を破った。
嫁は、もう一度抗ったが、今度は一発で黙り、涙と鼻水と涎で、俺の手を汚した。

「あの町を呪え」

その時、タクシーを待たせている事を急に思い出した。
嫁を床に捨ててエレベーターに向かった。
なぜそんなことをしたのかわからない。

高層ビルのエレベーターはひどく静かで時間が長い。
軽い耳鳴りの後、目の前が暗く成り掛けたが、いつもの自分だった。

外に出ると、運転手があいつを車の後から引き摺り出そうとしていた。

「よっ…よっ…よっ…」

その姿をボンヤリ見ていた。

「よっ…あっ!」

運転手は俺を見て、大声を上げた。
声はマンションの壁にこだました。

タクシーは国道15号を東へ奔る。

「いやねえ、もう戻ってこないのかと思ったんですよ」

運転手は、ルームミラーで、俺に気遣う視線を送り、言い訳がましく声を掛けてきた。

「お連れさん、へべれけだしねえ」

寝ているあいつの唇が、母親の乳首を欲しがるような音を立て出した。
知っている。
これはゲロを吐く人のサインだ。
運転手もこの道のプロだ。その事に気付いて、ルームミラーにちらちらと目線を走らせる。

「チャプチャプ…えっぷ…チャプチャプチャプチャプ…えっぷ…チャプ…えぷ」

汚物噴射のカウントダウンが始まった。

「あのう…お客さん…」

運転手は思い切って、俺に話し掛けてきた。
別にゲロぐらい吐かせてもいいと思って、無視した。
運転手も理解出きたようで、諦めてそれ以上は言ってこなかった。
ゲロ塗れのシートを、どう会社に言い訳しようかとそればかりを考えている事だろう。
照らすライトの向うに鶴見川が見えた。

「橋か…」

俺は歩いてみようと思った。

「ああ、橋の前でいいよ」
「ええ?」

運転手は、ブレーキより早く、料金メーターを嬉々とした勢いで押した。
キュッと止まった車はサスペンションの反動も収まる前に、客席のドアが開いた。
慌てて後ろを向いてきた運転手は「申し訳ないから、端数はいいですよ」と、ソワソワと肩を揺らしながら言った。
早く降ろしたくてたまらないようだ。
金を置いて、あいつを押し出した。

タクシーは逃げるように進行方向に走って行った。
橋を渡って、Uターンするんだろう。

あいつを引き摺って、橋の欄干に顔を乗せさせた。
薄く開いた口元から涎を零していたあいつの頬が、橋のコンクリートに取り込まれていっているように見える。
暗闇は見える世界をボンヤリと溶かす。
現実と夢の境界線、あいつが現れてから、人生の現実味が砂塵のようにどこかへ流されていく。

ため息を吐いて、橋の向うを見た。
暗くて見えない。
夢のような現実も、現実にしたい夢も全てあそこにある。

「行くか…」

声に出して独り言を言ったとき、小魚が水面に撥ねる様な間抜けな音がした。
あいつがうえっとも言わずに嘔吐していた。
気化したウォッカを吸って泥酔する奴だ、よっぽど弱いんだろう。
化け物にも弱点はあった。
酒に弱い。
昔話みたいだ。

水面を見た。
あいつがゲロを零すこの同じ水面に、父親の死体が浮いていた。親父が死んでも町は、さほど変わらなかった。

プッププッ。

反対車線からクラクションを鳴らして、さっきのタクシーが西に奔って行った。
よっぽど嬉しかったんだろう。

「友達かよ」

苦笑いで声に出した。

まさかと思う事がある日、天から降ってくる。

あのタクシードライバーは、自分の早とちりで乗客を路上に捨てようとした。あるまじき行為だ。
ゲロまみれのリアシートは運命だった。
それを、俺の心変わりで回避出来た。

守銭奴の老親子を焼き殺す為に、ライターを持たされた。
強度98のウォッカ2本分の燃料で燃えるか?賭けだ。俺の賭けじゃない。
あいつの賭けだ。
そしてあいつは賭けに勝った。

橋だ。

あいつを背負って橋を歩いた、橋の向うの街灯りを見ながら遠いなと思った。

「地獄で待っているよ」

突然、耳の後ろで誰かが言った、あいつの声じゃなかった。
俺の耳の後ろにはあいつのゲロ臭い口しかない。でも聞こえた、どうせ死んだ奴らの誰かだろう。
ああ、そのうちな。
両腕に掛かるあいつの重みが、俺を現実に引き戻す。
重い、無理だ。

橋を渡りきったところの川沿いに大きな公園がある。そこに置いて行こう。
それでも橋は渡らなきゃならない。

つづく。

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