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やってしまわなければ、気が済まない。

子供の頃から、何かを思い付いくと、その事で頭が一杯になって、何も考えられなかった。

家の庭には小さな池があった。
その小さな池に、埃が膜を張っていた。
蝉の鳴き声を聞きながらわたしは思った。

「氷かな?」

分厚く積もった埃が何故か氷に見えた、
真夏である。

「んなわけ無いか、でも乗れないかな?」

真夏の池に埃が膜を張っているだけだ。

「や、やってみないとわかんないよな」

子供のわたしは、何故かこれは行けると、決心し、恐る恐るでもなく、正に歩かんとばかりに躊躇無く池の埃の上に右足をだした。

ズボーン!

右足は池のなかに吸い込まれた。

何とか左足は岸に残ったが、体の右側は腰まで落っこちた。

わたしは飛び出る様に池から上がり、ハハハと笑って、右足のズックをザップザップいわせて庭を出た。

そういう時にふと思う。

「あ、遠くに行きたい」

そう思って何度、家出をした事か。

一度、雨の中に靴も履かず、飛び出して行った事がある。


あの時、

4才上の兄が中学生、わたしは小学生だった。

わたしの兄は、いわゆるヤンキー黎明期の世代で、都会の男は角刈りにソリコミか、戦艦大和みたいな頭だった。

「中学生は全員坊主」みたいな田舎で、そんな髪型をしているのは、さすがに限られたエリートだけだったが、坊主あたまの兄も、気風はヤンキーだった。

彼らの特徴に、後輩をパシらせる。というものがある。

「あれ買って来い。あれ取って来い。先公には言うなよ」

ただ学年が一つ下というだけで主人と下僕の関係性が、出来上がる。

その主人と下僕の関係性を兄は10歳かそこらのわたしにも求めた。

理不尽だった。

わたしは小学生。
そういう中学生から始まる理不尽な上下関係の洗礼をまだ受けていない。

それにわたしは末っ子、年下というだけで奴隷の様に扱いえる下僕がいなかった。

「あれ買って来い。あれ取って来い。姉ちゃんには言うなよ」

地獄だった。
無駄に広く部屋数が多い農家の家の中、顔を合わせたく無くて、兄から隠れていた。

しかし突如呼ばれるわたしの名前、

兄が呼んでいる
兄がわたしの名前を連呼している。
兄がわたしの名前を連呼しながら探し回っている。
わたしは息を殺し、隠れる。

また、わたしをパシらせるんだ。
自分の欲しいものを手にする為に、わたしの名前を叫びまわるエネルギーがあるなら自分で行けばいいのに、
と思いながら耳を塞いでうずくまっていた。

そしてわたしが隠れる部屋の破れたフスマが開くと、そこに兄が立っている。

「パン買ってこい」

わたしはまたかと溜息を吐く。

「何のパン?」
「何のパンがあるか分からん。おまえのせえんすで買ってこい」

わたしはまたかとため息を吐く。

40年前の田舎の駄菓子屋の隅に並ぶパンの種類は限られる。

思い浮かべれば食べたいものはどれか分かる

はずた。

しかし兄は答えを言わない。

そして駄菓子屋のガラス棚からコレか、と選び、家で待つ兄に差し出す。

「これじゃ無い。ハム入ってるやつに変えて来い」

またかと溜息を吐く。

兄は必ず、一度買ってきたものを取り換えに行かせる

わたしはさっき買ったパンを駄菓子屋のばあさんの前に差し差し出し、換えてくれと言う。

またかと駄菓子屋のばあさんも溜息を吐く。

事情を汲んで換えてはくれるが、露骨に嫌な顔をする。

そして交換したパンを持って帰る。

家に帰ると、兄はテレビを見ながら笑っている。

そんな毎日だった。

ある日、わたしの心にリーチがかかる日が来た。

「アイス買って来い」
「何のアイス?」
「いや、おまえのすえんすで買ってこい」
「いや、アイスは無理だ。交換出来ないよ」
「いや、何でもいい、買ってきたやつを食べる」

わたしはもう何も考えれなかった。
どうせこれじゃ無いと言う。
そんな結果が分かっていて、何を推理しろと言うのか。
わたしはメンタリストでもハンニバルレクターでもない。

さっと手にしたソーダアイス

それを兄に差し出す。

「これじゃない」

全身の血の気が脚のほうに勢いよく下がっていくのが分かった。

「悪いな、パピコに変えて来い」

わたしは苦笑いで上唇を痙攣させた。

その時わたしは10才

「アイスは無理だよ」
「行ってこい、頼んでみないと判らないだろ?」

少し溶けかけのアイスを手に駄菓子屋に行く。

駄菓子屋のばあさんは無情だった。

「アイスは替えれないよ」

わたしはポケットから自分の小遣いを出し、パピコを買う。

家に帰り、兄にパピコを差し出す。

「え?交換できたの?」

自分で言ったくせに、驚いている。

「うん」

嘘だ、わたしは自分のお金でパピコを買い、兄に差し出した。
ただ、その事は言いたくなかった。
子供とはそういうものだ。

換えれなかったアイスは家の前の草むらに隠した。
早く戻って食べなければ溶けて無くなってしまう。

そわそわと足踏みをするわたし、
兄は胡乱な顔でわたしを見る。

「どうした?」

草むらで溶けるアイスの事で頭がいっぱいだった。

兄の問いに答えず、わたしは外へと駆け出した。

草むらに隠したアイスを慌てて手にした。
アイスは袋の中で、殆ど溶けていた。

それでも食べなければ、

と、袋の口を開け、ドロドロの冷えたアイスの塊を、顎を突き出し、ウケグチで喉に流しこむ。

わたしは間抜けそのもののだった。

「タッハハハハハ!」

遠くからの笑い声がわたしの後ろ髪を撫でる。

兄は、わたしを見下ろす様に
2階の小窓から身を乗り出し、叫んだ。

「そんな事だろうと思ったよ!」

と言って、またタッッと笑い出して
小窓を閉めた。

わたしは泣きながらアイスを喉に流した。

「姉ちゃんには言うなよ」

兄の禁忌を破り、わたしは事の顛末を姉に話した。

姉は話を聞くと、ぐるんと白目になり、わかったと言い、母に話した。

母は話を聞くと、ぐるんと白目になり、わかったと言い、祖母に話した。

祖母は話を聞くと、兄の首根を掴み、祖父曽祖父の写真が並ぶ仏間に座らせると、

姉、母、祖母

女3人で、兄を、畳が震えるほど怒鳴り叱った。

わたしはひざを抱え、広い農家のどこかの部屋でそれを聞いていた。

わたしは家中の女から愛されていた

姉は年の離れた末のわたしを愛し、
母は自ら産んだ末のわたしを愛し
祖母は久々の末の孫を愛した。

わたしは女の愛に囲まれ育まれた。

そんなわたしを兄は憎んだ。 

その愛はわたしが生まれる前、全て
兄に注がれていたものだ。

王子。

農家の長男

それは王子。

家中の愛を受け、育まれた兄、

しかしそれは、4年で終わる。

ネクストベイビー

わたしが生まれる。

姉はわたしを着せ替え人形の様に、自分のお気に入りの服を着せた。

わたしはなすがまま

母はこんな粗野な田舎で、わたしの言葉使いに心血を注いだ。
「俺とかダメよ。僕って言いなさい」

わたしはなすがまま

祖母は、この子はオレが育てるんだと言って、あふれる様な乳房の突起をわたしの口に押し付けた。

わたしはなすがまま

わたしは家中の女の愛を受けて育まれた。

その愛はわたしが生まれる前、全て兄に注がれていたものだ。

それをわたしが奪った。

唯一の兄の味方の祖父は3年前に死んだ。

父は君臨すれども口は出さずで、おちょこ片手に、なんだこらどうしたこらと、映りの悪いテレビを叩いていた。

兄はわたしを憎んだ。

「そんなに弟の方が可愛いのか!」

兄は叫んだ。

呆れた様に母が言う。

「可愛いに決まっているじゃない」

遠くで聞いている子供の、わたしですら、

「母ちゃん、それを言っちゃあお終いよ」

と思ったものだ。
兄の、弟イビリはエスカレートしていった。

ある雨の日、

わたしは所属していた小学校のブラスバンドの練習を休んだ。楽器はユーフォニュウムという自分の背丈の半分もある管楽器だ。
全体の演奏のテンポとベースをなす役目で、音符はとても短調だった

ドミドミドミドミドレドレドレドドレミ

一度として面白いと思った事がない。

その日、練習が夕方からあるが、なんだか億劫だった。

雨か。

そう思い、窓辺で体育座りしていた。

行きたくない。

ま、明日怒られればいいか。

そこに兄が現れる。

「お前、今日、練習の日だろう?行けよ」

わたしは答えない。
いや答えようがない。だってズル休みだから、

そんなの兄だってわかっている。
分かっているから言っている。
答えられないとわかっているから言っている

行けよ
行けよ
行けよ
行けよ
行けよ
行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ
ほら早く
行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ

気狂いである。

生来の気狂いをサイコパスと言い、社会の関わりの中で気狂いになっていくのをソシオパスと言うらしい。

兄はどちらか。
どちらにしろ、兄を気狂いにしてしまった事の一旦はわたしが生まれた事だ。

なんて子供のわたしが思う訳もなく。ただ心を殺していた。

行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ行けよ

遠くに…

行けよ。

わたしはダッと立ち上がり、間広い玄関から外へと駆け出した。

土砂降りの雨の中、裸足のわたしは両手を広げ、空を仰ぎ駆けた。

自由だ!

外に出るには靴を履く。
雨の中では傘をさす。


そんな常識をかなぐり捨て、わたしは駆ける。
野の獣の様に駆ける。

自由だ!

気付けば、見知らぬ農家の、農具置き場の小屋の梯子を登り、二階に隠れていた。

小屋と言っても、大きさは一軒家と変わらない。
当時はどの農家もそんなものを敷地に建てていた。

その2階に藁に隠れて座っていた。
藁は濡れた服から水気を吸い取り、わたしの背中を温めた。

このまま山に行こう、山でハックルベリーフィンみたいな生活をしよう。

暗くなりかけた頃、ミシミシと物陰で音がした。

ネズミ?

嫌だな。

そこににゅっとおじさんの顔か下から出てきた。

「なんばしようと?」

「何をしているだ?」

わたしは何も答えれない。
梯子からおじさんは腰まで身を乗り出し、
わたしに降りる様に促した。

わたしは黙って梯子を降り、小屋の軒先に立たされた。

おじさんは母家の玄関先の引戸を開けたまま、
玄関口の黒電話でどこかにかけていた。

数分。

軽トラックで父が迎えにきた。

家に帰ると、兄が迎えてくれた。
顔の形が変わる程殴られた兄が、
笑って迎えてくれた。


その兄は今、わたしの目の前で、住宅ローンの人を急かしながら、わたしが購入するマンションの手続きをしている。

膨大な書類を前に

わたしは兄が指さす場所にただ名前を書く。

「はよせんかはよせんか、このあと寿司がくるけんもう飯にするけん。はよせんか」

「早くしろ、早くしろ、この後に寿司を注文していて、食事にするので、早くしろ」

住宅ローンの人は

いつかのわたしの様に


兄に急かされ、額から汗を吹き出させていた。




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