花子の一生

第14章「チャ子という人」

#創作大賞2023
#オールカデゴリー

緩やかに波打つ線は、次第に直線になった。その瞬間、モニターのスイッチが切られ、目の前が真っ白になった。
 「何?どないなってんの?機械が壊れたんやないですか?」
 チャ子は誰とも目をあわせず、淡々と側にいた看護師に尋ねた。
 看護師は一礼した後、急いで担当医を呼びに病室を出て行った。小走りに、パタパタとサンダルが廊下を叩く音が響いていた。
 「お父ちゃん、死んだん?」
 花子が呟くと、チャ子が突然笑った。驚いた花子は恐る恐る目線を上げると、チャ子は涙一つ見せず、ただ笑っていた。
 「お母ちゃん、笑うとこやないよ」
 「せぇやかて、77て。おかしない?お父ちゃんは、ほんまもんのギャンブラーやわぁ」
 「何、言うてるん?」
 「せぇやかて、77やで。寿命が77。ゾロ目やで。パチンコでも滅多に出んかったんのに、今更、77やて。おかしな人やなぁ」
 チャ子は、政夫の額を撫でながら、そう言って笑った。
 駆けつけた担当医が死亡時刻を告げると、段取り良く、慣れた手つきで看護師数人が息もしていない人間に話しかけながら、処置を始めた。
 二人は廊下にポツンと置かれた古びた長椅子に腰掛け、その処置が終わるのを、ただ、待っていた。
 「お母ちゃん。人って死ぬ為に生れてくるなら、生まれてこん方がえぇのんとちゃう」
 無意識に口をついて出た言葉に花子は、あっ。と、恐る恐るチャ子を見た。
 けれど、横に座っているチャ子は本物そっくりの蝋人形のようだった。
 青白い肌に、呼吸している様子もみえない。ただ、薄汚れた壁のシミ一点だけを見ている蝋人形のようだった。
 花子は愛ちゃんが死んだ時を思い出していた。あの時も、チャ子は枇杷の木を見ているだけで、微動だともしなかった。
 あの時と同じだ。壊れている。花子はそう思った。そして、しばらく、壊れたままにしておきたかった。そうする事で次に進む事を阻止したかった。
 廊下がざわつき、革靴の音が花子達に近づいてくると、夜中だというのに、きちんと礼服を着た葬儀屋の男性が二人の前に立ち、
 「この度は、ご愁傷様です」
 そう言って、男性は深々と頭を下げた。
 ご愁傷様。これは普段、チャ子が花子にむかって何気なく使っていた言葉だった。
 クリスマスにサンタが来なかった時。当てにしていたお年玉を貰えなかった時。商店街の福引きで白い玉が五回出た時。そんな、日常のたわいもない時に使う言葉だと思っていた。
 花子は、葬儀屋の男性が言った、ご愁傷様に救われたような気がした。花子の中の、ご愁傷様は余りにもインフォーマルだったからだ。
 いつの間にか、自宅の座敷で寝かされていた政夫の頭上には真っ白な百合の花が置かれていて、親戚や近所の人達が餌を運ぶ蟻のように、気ぜわしく動き回り、その中にチャ子の姿もあった。チャ子は女王蟻のように目立っていた。
 愛ちゃんの時とは大違いだ。花子はそう思ってチャ子を見ていた。すると、そんな思いを嗅ぎ取ったようにチャ子は花子に向かって勢い良く近づいてきた。
 それはまるで、チャ子が花子を叱咤する前兆のような、なんとも言えぬ威圧感を漂わせていた。
 ただ怒っていた。
 普段と何ら変わりのない大きな声でチャ子は花子を叱咤した。現実と夢の間にぶら下がっている花子を激しく罵った。
 花子にはチャ子の声が聞こえなかった。ただ、チャ子の口元を見て涙が溢れて止まらなくなった。おそらくチャ子は泣けなかった花子の体から涙を出そうとしたのだろう。
 そこには確かに愛があった。
 政夫の体は四角い布に丁寧に包まれた専用の保冷剤で冷やされていて、皮膚の表面が固まっていくのが花子には分かった。人差し指で突いた政夫の頬は硬いゴムのようだった。
 人は死ぬと、皮膚も顔つきも髪の毛の質感までも生気をなくし、色あせていく事を花子は思い出した。愛子もそうだった。
 いなかったように、灰色になる事を花子は知っていた。花子にとって灰色は隠遁する色だった。
 次第に消え行く政夫を、ただ呆然と眺めている花子の横へ恵子が座った。そして、こう言った。
 「お父ちゃん、えぇ人やったなぁ。なぁ」
 恵子はそう言いながらも、微かに震えているのが花子には分かった。同時に、彼女が涙を体の中に押し込もうとしている事も花子は察した。

 政夫がこの世から消えた瞬間現れた葬儀屋の男性が、数人の従業員を引き連れて家に棺を運び入れた。
 彼らは、礼服に白い手袋をしていた。
 「あれで、顔が黒かったらラッツアンドスターやで」
 花子がそう呟くと、周りにいた親戚達が一斉に笑い出した。
 政夫の従姉で、一番気心が知れた雄二が花子を見て更に大声で笑った。
 「政ちゃんは、花子が娘で良かったなぁ」
 「なんでよ?」
 「政ちゃんが言うてたわぁ。花子はアホやけど、アホやぁないて。その意味がわかるか?」
 「分かるかいな。それって、アホの大売り出しやない。いっこも、嬉しない」
 「ほんまやなぁ。けど、いつか分かる時がくるわ。なぁ、政ちゃん」
 雄二はそう言って、政夫を優しく見た。
 葬儀屋が仏間に鎮座していた僧侶に耳打ちをすると、その瞬間、誰が何を言う訳でもなく、礼服を着た者達が整列し始めた。それはまるで、電線の上に連なったカラスのように見え、花子は呆気に取られた。この黒い者達を誰かが操っているのではないかと怪訝した。
 チャ子が喪主の位置に着くと、花子は恵子に手を惹かれ、そのすぐ後ろに座った。暗黙のルールのように開けてある喪主の後ろの空間が花子を再度、驚かせた。

 僧侶の長い経が終わると、親戚の男性数人で政夫を棺に入れた。
 すると突然、叫喚に似た奇声が家中響き渡った。その声は、広い家のあらゆる所にぶつかりながら花子の耳に届いた。
その咆哮の先に目をやると、畳に突っ伏しているチャ子がいた。恵子は呆然と立ち尽くし、カラス達も目を白黒させ呆気に取られていた。
 けれど、花子には、そのチャ子の姿が美しく見えた。そして、チャ子と政夫の周りに張られた結界には誰も入る事を許されない夫婦の絆を感じた。
 窓から陽が差し込み、ちょうど棺と繋がってもチャ子は声が枯れるほど泣き続けた。自分の体の一部が剥ぎ取られた痛みで泣き叫んでいるようにすら見えた。
 棺に印をつけた光が、やがて溶けてなくなった時、チャ子の体内から涙が消えてなくなった。
 政夫の肉体だけが入った棺は葬儀屋によって式場に運ばれて行った。そこには、すでに祭壇が設けられ、遺影も置いてあった。祭壇に飾られた夥しい数の花はどれも、花子には美しくは見えなかった。
 生きていない者に生きた花を飾ることに、一体、何の意味があるのだろう。そう思いながら、花子は式場の外から遠目でそれらを見ていた。
 自分がいる世界の事ではない、対岸の火事のような、そんな感情だった。
 ところが、ふと、ガラス越しに映る自分の顔を見て花子は絶句した。愛子を送った時のチャ子の表情と同じだと思って愕然とした。
 「悲しいはずやのに、なんで、あたし、無表情なん」
 花子はガラスに映る、見たことのない自分に呟いた。そして、気がつくと花子はあの、枇杷の木の前に立っていた。葬儀中の事や、今、自分がどうやってここまで来たのか、花子は何ひとつ覚えてはいなかった。
 ただ、風に葉を揺らす枇杷の木だけは覚えていた。
 愛子が死んだ日、この木をチャ子も見ていた。花子は、あの時のチャ子の表情を忘れる事など出来なかった。
 「ここって」
 花子が、ガラス越しから火葬場を見ると、正気を無くして倒れこんでいる女の子が見えた。
 「花子!大丈夫か!」
 花子はその声に驚いた。それは確かに政夫の声だった。
 「お父ちゃん」
 ガラスの向こうには、確かに政夫が生きていた。倒れこんだ花子をしっかりと抱きとめている政夫がいた。
 「愛ちゃんが生まれ変わった日。お父ちゃんが生きとる。お父ちゃん」
 花子は大きな窓ガラスにかけより、両手で思い切り叩きながら叫んだ。
 「お父ちゃん!お父ちゃん!お父ちゃん!何で?なんで聞こえんねぇん!お父ちゃん!ツンボなんかっ!なぁ!こっち向いて!お父ちゃん!」
 何十回と分厚い窓を叩いた花子の手の平は、真っ赤になった。つけていたネールも全て、足元の芝生に散乱していた。
 「何で、聞こえんねぇん!何で!何で、人は死ぬん?なんでや、なんでや!」
 そう言って、花子は大声で泣いた。成層圏を超えるほど大声で叫びながら泣いた。

 風が更に強く枇杷の葉を揺らし、何かを言っているように聞こえた。
 「花子ぉ、そんなに泣かんでえぇがな。また、いつか会えるわ。死ぬのは体だけやから。いつも皆んなの側におるから。なぁ。泣いたらあかん。べっぴんさんが台無しやでぇ」
 花子には政夫の声が確かに聞こえた。そして、目の前に落ちていた3年ものの枇杷の葉に顔を埋めて花子は再び大声で泣いた。
どれだけの時間そこで泣き続けたのか分からないまま、いつのまに鈍い銀色の前に立っていた。
そして、花子はそこで記憶が途切れた。
 「花子!花子!」
 花子は遠くに聞こえる声で目が覚めた。目を開けると、葬儀場の控え室で円陣を組んだように恵子や親戚達が花子を取り囲み、心配そうに見ていた。
 「おぉ!気がついたんか!びっくりしたで、急に倒れたからぁ。昨日からまともに寝てへんかったからやなぁ。でもなぁ、不思議な事あったんやで、なぁ」
 雄二がそう言って、恵子や親戚を見ると、ほんまやで。と、言わんばかりに全員がうなずいた。
 「不思議な事?」
 「おぉ、なんやお前が倒れる瞬間、誰かに支えられるように静かに倒れたんや。ゆっくり、ゆっくり。なんや、スローモーションみたかったぞ。まるで、誰かに支えられてるみたいに」
 雄二がそう言うと、親戚一同、うんうん。とうなずいた。
「お父ちゃんやわ、それ」
 背後からチャ子が花子に諫言した。
 「お父ちゃんや。間違いない。あんたは、ただでさえ、アホやのに、その上、頭でも打って、これ以上おかしなったら目も当てられんと思うたのや。そうや、そうに決まってる」
 それを聞いて全員、それもそうや。と、笑った。恵子も苦笑した。
 「そうかもしれへんなぁ」
 そう言った雄二は哀感に満ちていた。

 「一人ずつ死んでいかな、地球は人だらけでパンクしてしまうさかいなぁ。花ちゃん、これは生まれてきた以上、定めやねん。皆んなおんなじや」
 95歳になった政夫の叔母である亀子が、入れ歯をガタガタさせながら、そう言うと、
 「亀の甲より年の功やなぁ」
 双子の妹、95歳の鶴子がつっこみを入れた。姉妹は若い頃、梅田の劇場で上方漫才をしていた。そんな二人の絶妙な掛け合いが、辛気臭い控え室の空気を和やかなものに変えてくれた。
 「ほんなら、順番も守らなぁ、あかんなぁ、おばちゃんらぁ!」
 機知に飛んだ雄二の返しに、花子は政夫の笑い声が聞こえたような気がした。それは、チャ子も同じだったようで、窓から見える細長いピンク色の雲を見上げて笑っていた。
 おもろいなぁ。
 チャ子は誰にも聞こえないほどの小さな声でそう言った。

 翌日は、前日の晴天が嘘のように土砂降りの雨で、葬儀が終わると政夫の近親者だけが火葬場まで行く事になった。
 双子の叔母も、行きたいと駄々をこねたが、
 「お母ちゃんらが行ったら、政夫ちゃん、あの世に連れて行くでぇ!えぇの?」
 娘の節子に、そう言われた双子は置物のように固まった。花子にはその二人の絵空事のような表情に、思わず口元が緩んだ。
 「亀ちゃんも、鶴ちゃんも待っとってなぁ。後で、美味しい和菓子を持ってくるさかい」
 花子が双子に言うと、二人は歯茎だけの咥内を見せてニンマリと笑った。
 「あかん、子供と一緒や」
 呆れて言う節子に、雄二が間髪入れず、
 「とんでもないで。95まで生きとるやなんて、子供どころか、神さんや!」
 そう言って笑った。
 愛子の時の火葬は、愛する人を亡くした初めての経験からか、花子やチャ子は色を失った。故に、暗く、重苦しいものだった。
 けれど、政夫の時は少し違った。お互い歳をとったという事もあるが、大事な人を失っても、人間は立ち直る器量を持ち合わせている事を二人は身をもって学んでいた。
 愛子がいなくなっても、お腹の虫はなったし、睡魔も襲ってきた。漫才を見ても面白いと感じたし、恋もした。花子は、愛子から本来、人が持っている強さを教わっていたのだ。
その人が存在していたという事実だけは、どんなことがあっても変わらない。花子は、見えない何かを信じることで、いつしか強くなっていた。 チャ子の言う通り、そこに愛があれば乗り越えられるのかもしれない。花子はそう思っていた。
 
 政夫の体も消えて、淡い灰色のものだけが残った。愛子のものとは色が少し異なっていた。きっとそれは、故人の人生の色であり、それぞれ違うのかもしれない。 花子は、その淡い灰色のそれを、長い箸のようなもので一つ摘み、空にかざした。 そして、灰色のそれは、空に浮かぶ雲と同化して真っ白に見えた。
そして、花子には、正方形の木箱に墨で書かれた政夫の戒名が、また、今から始まるで。そう言っているように思えた。花子は、それを人差し指でなぞりながら、政夫との思い出を指先に記憶させた。
 木箱に蓋が閉まり、真っ白な布に包まれた木箱はチャ子に渡された。
 「お父ちゃん、軽なったなぁ」
 「ほんまやなぁ」
 そう言って、恵子は木箱に触れた。
 「結局、死んだら、どこに行くんやろうなぁ」
 花子が呟くと、チャ子が急に立ち止まり、それにつられるように花子と恵子もチャ子の横一列に立ち止まった。
 「お母ちゃん、どうしたん?」
 恵子が尋ねると、
 「死んでどこ行くか知ったら、お楽しみがなくなるわ。それにきっと、バラしたら、地獄行きになるのんとちゃうか?そこは、シークレットなんや。だから、お父ちゃん、あんたはお喋りやけど、私らに教えたらあかんよ」
 チャ子は、ドロップの缶の中身をたしかめるような仕草で、木箱を揺らした。
花子には、そんなチャ子が滑稽で、頼もしく、そして強く見えた。
 花子が、火葬場の出口に着くと、違う誰かを乗せた、霊柩車が入って来た。
 「この人は何色なんかな」
 「何?」
 恵子はそう言って、不思議そうに花子を見た。
 「何でもない。お母ちゃん行ってしもうたで。早よ、行かんと、また大目玉や!」
 「ほんまや!」
 二人は早足でチャ子の後を追った。
 火葬場から10分程で自宅に着くと、近所の人達が初七日の準備をしてくれていた。僧侶も一足先に到着していて、立派な袈裟に着替えている途中だった。
 政夫が息を引き取ってからの儀式が燎原の火のようで、三人は疲れ切っていた。しかし、チャ子は、そんな事は、おくびにも出さず、動いていた。
 僧侶が、分厚い座布団に座り、仏壇に置かれた骨箱と向き合うと、またしても、カラス達が整列した。
 花子と恵子も先頭に座っているチャ子のすぐ後ろに座った。背中でそれを確認したかのように、僧侶が初七日の法要の儀式を始めた。長い経が終わると、僧侶は出されたお茶を一口すすると、政夫の戒名について話し出した。
 戒名の中の徹。と、いう字は、何事にも、信念を持って突き進んできた政夫の生き方を現したものだと説明していた。
 政夫と会った事もない、この僧侶がどうして故人の生き様を知っているのか、些か疑問に思ったが、疲労困憊していた花子には、そんな事などどうでもよかった。
 初七日の法要が滞りなく終了したした事を告げた僧侶が立ち上がり、その鮮やかな袈裟を脱ごうと右手を上げた瞬間、僧侶の数珠の糸が切れ、珠が散乱した。
 そして、その珠に、たゆたう光が差していた。
 縁起が悪いと思ったのか、一同、怪訝な表情を浮かべた。が、突然、双子の妹、鶴子がやんわりと言った。
 「ほぉ、政夫は粋な事をしていったやないかぁ。なぁ」
 そう言って、鶴子は姉の亀子を見た。
 「ほんまやなぁ。男気をみせよったわい」
 双子の言った意味が分からなかった花子は双子に訪ねた。
 「なぁ、どういう事?」
 僧侶すら、人智を超えた双子のやり取りに、興味を持ったのか身を乗り出し、耳を傾けていた。
 「分からんか?お数珠はお葬式に使うもんやろ?だから、ここの家に主としてお数珠を使う事がないようにと、わざと切っていったんや。中々、粋な事をして行きよった」
 鶴子が老成した口調で言うと、それを聞いた一同から感嘆の声があがった。そして、何より感服していたのが僧侶だった。
 「さすが、うまいこと、言いはりますなぁ」
 唸る僧侶に、花子は心の中で、修行してこい。と、呟き、同時に、さすが、亀の甲より年の功だと、双子を仰ぎ見た。
 散らばった数珠から、たゆたう光がきえてなくなり、恵子と花子は一粒ずつ、それを拾い集めた。そして、集めた珠を、ひとまずチャ子に渡すと、チャ子は手に器を作り、それを左右に揺らし始めた。すると、器の中の珠がぶつかり合った、その音は人の声に変わっていった。
 あんじょうやりやぁ。
 三人には、はっきりとそう聞こえた。
 あんじょうやりや。それは、確かに、政夫の声だった。

 気がつくと、広い座敷にはチャ子と恵子、そして花子の三人だけとなり、緊張感が解けたチャ子は、僧侶が座っていた、えげつないくらいに紫色の分厚い座布団を枕に、こんこんと眠っていた。
 時たま、出るチャ子の笑い声は、来し方を振り返っているようで花子の胸を締め付けた。
 政夫と出会ってからの50年間を夢の中で追想しているのだろう。
 激しい夫婦喧嘩も、二人の罵声も、節季に必ず起こる紛争も、今となれば何もかもが生きている証だったのだと実感できるもの寂しさを、花子は感じずにはいられなかった。
 疲れ切って、ただ、ひたすら眠っている目の前のチャ子は、実感のない妄想世界の中にいるのだろう。目が覚め、現実に引き戻された彼女を支える事が出来る者は、もうこの世には誰一人といないのだ。
 血が繋がっているというだけでは、それだけではどうにもならない事への歯痒さが花子の中に芽生えた。
 数知れぬ人間がいるこの世界で出会った二人は、宇宙の約束事で、それを変える事や新しい何かを与える事など無意味で静穏さを欠く事なのだろう。花子は改めて、運命の人。を、失ったチャ子が不憫でならなかった。
 
 「お腹へったなぁ」
 突然、チャ子は目を覚ますと、開口一番そう言った。
 思わず、恵子と花子は顔を見合わせると、それに気づいたチャ子が普段と変わらない口調でこう言った。
 「あんたら、お母ちゃんが落ち込んでいるとでも思うてんの?」
 「だって、喧嘩する相手がおらんようになったら、普通は寂しいやろぉ?」
 恵子が、遠慮がちに言うと、チャ子が落語でも始めるかのように、その、えげつない紫に、ドスンと正座をし、背筋を伸ばした。
 「考えてみなさい。これが逆やったら、あんたら大変やで。お母ちゃんが先に死んで、お父ちゃんが残ったら、あっちゅうまにおボケになって、あんたらに被害がおよぶで。これで、よかったんとちゃいますか?」
 チャ子は粋の良い落語家のように、そう言い切った後、台所へと向かった。
 そして、三日ぶりに開けた冷蔵庫に頭を全部突っ込んだまま、微かに肩を震わせていた。
 「なんも、ないわ。しゃぁないから、玉ねぎだけの炒飯するわなぁ。それで、えぇね」
 「うん」
 花子は頷いた。
 「玉ねぎだけの炒飯、お父ちゃんの好物やったなぁ。でもなぁ、さっき冷蔵庫覗いたら、おばちゃんらぁが、作ってきてくれた精進料理のタッパー、ぎょうさん入ってた」
 恵子の声が、あまりにも侘しげで、花子は政夫が消えていなくなった実感が、今更のように湧いて出た。
 チャ子は、二人には顔を見せずに台所に立つと、しなびた玉ねぎを、わざと大きな音を出しながら、みじん切りしていた。
 「おうちゃくしたら、あかんもんやなぁ。玉ねぎは水に晒してから切らんと、目にしみて、かなんなぁ」
 「私、しようか?」
 恵子が、そう言って立ち上がろうとすると、
 「えぇわ」
チャ子はそう言って泣いている事を二人の娘にだけは悟られまいと高速で玉葱を切り始めた。
 今になって、分身が消えた事への侘しさを、チャ子の細胞たちが思い出したかのように、包丁とまな板がぶつかる音が家中に響き渡った。
 トントントン。トントントン。トントントン。その音は、普段と何ら変わりがなく、例え大切な人が死んでも、変わらないものがこの世の中のはあるのだという事を教えてくれているようだった。
 その中で、変わっていかなければならないのは、人間だけなのだ。花子と恵子は改めてその事を思い知った。
 「わたしらは生きて行かな、あかんのや」
 花子の呟きに、恵子はコクンと頷いた。
 青天の霹靂。
チャ子の断腸の念を普段と変わらないまな板が受け止めてくれているのだろう。二人の娘はチャ子という人は、きっと、愛の塊なのだ。そう思いながら、母親の背中を見ていた。


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