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安楽椅子恋愛

今日のわたしは、自分で言うのも何だけど100%可愛いと思う。いつもうまくあがらなくて途中で折り目が付く睫毛も、今日はちょうどよくくるんと持ち合がった。買ったばかりのリップは、この間肌の色を調べたおかげで浮いてない、ちょうどいいピンク色。寝癖を直すだけで手いっぱいの髪は、昨日おろしたヘアオイルでさらさら。巻くか悩んだけど、そこまではテクニックが追い付かないので片側をピンでとめた。
服はインスタでよく見るマーメイドスカート。スカートなんて久しぶりで、恥ずかしいから通販で買ったけど着てみたら思ったより似合っている気がする。手持ちのトップスを合わせながら、インスタの画面とにらめっこを繰り返す。ふと、視線を向かいのマンションに向ける。今日も閉まっている、緑色のカーテン。



ある日、向かいのマンションの一室に緑色のカーテンがかかった。仕事から帰ってきて、お風呂に入る前に一服しようとベランダに出たときに気づいた。ああ、お向かい誰か引っ越してきたのか、と煙草に火を点けたところで、ゆらりとカーテンに影が映ったのだ。
恐らく帰宅して着替えているのだろう、カーテンの向こうでネクタイを緩め、カッターシャツを脱いでいくのが分かる。思わず煙草も忘れて眺めていると、上半身を脱いだであろうシルエットが正面になった。
均整がとれたシルエット。
肩幅が広く、腰は細すぎないまでもくびれていて、腕にも程よく筋肉がついている。ちょっとコンパクトなクリス・エヴァンスみたいな。カーテンが少し揺れて、ゆっくりと服を着るのが分かった。部屋着なのだろう、だぶついた服の輪郭にきれいなシルエットは隠れてしまった。

吸ってもいない煙草の灰が落ちた。いけないものを見てしまったような、もっと見たいような。頬が熱くなるのが分かる。
―――多分、わたしはシルエットに一目惚れをした。

それから一か月、緑色のカーテンが開いているのは一度も見たことがない。生活サイクルがずれているのか、わたしが休日の昼に見てみても、帰宅して見てみても、ずっと閉じている。でも、夜には時々クリス・エヴァンス(仮)が動いているシルエットが見えた。万が一、クリス・エヴァンス(仮)が煙草嫌いだったら困るので、わたしはとりあえず煙草をやめた。煙草をやめてしまえばベランダに出る用事もないので、こちらのカーテンも閉め切って隙間から見るようにしている。怪しい?そんなことはどうでもいい。クリス・エヴァンス(仮)がこちらを見てしまったら恥ずかしいじゃない。

家でいるときは、カーテンの隙間からお向かいを眺めるのがわたしの日課になった。大体帰宅するのは20時ごろ。明かりがついて、緑のカーテンが四角く浮かび上がる。しばらくしたら、カーテンにシルエットが映る。ジャケットはもう脱いでいるみたいで、カーテンに映るときにはネクタイを外し始めている。首元から抜いたネクタイをぽいっと―――クローゼットか箪笥の上だろうか―――放り投げて、カッターシャツのボタンを外していく。カッターシャツを床に落とすと、ベルトを抜いて今度はスーツのパンツを脱いでいるらしい。片足ずつ抜く動作をした後、シルエットはいつもカーテンの側から離れて行ってしまう。
脱ぎっぱなしなのかしら、可愛い。
なんて、口元を緩めながら眺めて、カーテンの向こうの明かりが消えたらわたしも眠りにつく。眼福。明日も頑張れる。

そうして大体三か月が経った。
顔も知らないシルエットに恋をしてもう三か月。初めて緑色のカーテンを見たときは寒かったのに、もうそろそろ桜がほころびようとしている。わたしはとうとう決意を固めた。正直、毎日毎日シルエットを眺めているだけでも何ら不満はない。ただ、単純に興味が湧いてきたのだ。あのきれいなシルエットにどんな顔がついているのか。クリス・エヴァンス(仮)って呼んじゃってるから、わたしの中でハードルが上がっている自覚はある。じゃあ、顔すら見てない一目惚れで、どこまで好きなままいられるのかも気になるじゃない。性格がドクズでも許せるのか。あのシルエットですごくなよなよしててもイケるのか。考え出すと気になって仕方なくなってきた。次の週末に、わたしが持てる限りのテクニックを駆使して可愛くキメたら、突撃してみようと思う。思うのだが、可愛くキメて何て言って突撃すればいいんだろう。向かいのものです?いつも見てます?…流石にやばすぎると思う。向かいから見たときに一目惚れしちゃって?カーテン開けたことないのに…。

そうして結局、答えが出ないまま週末。わたしは何て言うか決めてもないのにおしゃれに勤しんでいる。永久保存版てくらい完璧だ。わたしにしてはよく頑張ったと思う。もういっそこのまま、ピンポンして「ずっと好きでした」でどうだろう。それしかない。

ここ数年味わったことのないドキドキをなだめながら、向かいのマンションに向かう。部屋の場所は覚えてる。四階の真ん中の部屋だ。オートロックじゃなくてよかった。出鼻をくじかれるところだった。共同玄関で告白なんて、さすがに門前払いだと思う。エレベーターで四階へと上がって、1、2…3。ここだ。表札は出ていない。最近じゃ出さないよね…わたしも出してないもん…でも残念、名前は分からない。そもそも在宅なのかって話だけど、残念ながら昼間じゃシルエットは見えないからわからない。何度かインターホン鳴らしてみて、音沙汰なかったら諦める…しかない。勇気が金輪際尽きそうだけど。

深呼吸。

三回。

よし。

『…ピーンポーン』

やばい、しにそう。心臓が。

はーい、と奥の方で男の人の声がした。
いいぞ。声は好きな感じだ。のような気がする。
足音。
ドアが。

開い―――

「あー。ダメ…」

わたしの声が部屋に響く。目を開けるとすでに部屋は暗い。あっという間に日は暮れたらしい。深々とため息をついて、人を駄目にするクッションにさらに身を沈める。

今日も、暖房の効いた部屋から一歩も出ずに一日が終わってしまった。乾燥した唇がぴりぴりする。床に置いた灰皿がもういっぱいだ。
カーテン全開の窓際で寝ていたから、すっぴんの顔にはまたシミが増えたかもしれない。30歳手前になったら急にシミだらけになるっていうよね。寝癖がついた髪がうざったくて頭を振る。寝巻のスウェットのまま伸びをして、目をこすると睫毛が二本くらい抜けた。日ごろのビューラーのへたくそさを物語るように根元から折れている。アレどうしたらうまくなるのかまったくわからない。

今日も顔が見れなかった。
いつもあそこで途切れてしまう。どんな顔してるんだろう、クリス・エヴァンス(仮)。わたしの顔の好みは薄めだけど、あのシルエットに薄い顔はナシだと思うのよね。難しい。かといってあの体型は譲れない。

次こそはドアを開けたいなァ―――

ぼんやり考える視界の隅で、向かいのマンションのカーテンが揺れたのを捉えながら、わたしはもう一度ゆっくりと瞼を閉じた。

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