永遠と一日、時に一瞬のさなか。

ハルウララ。
桜が私の頬をかすめたとき、目が合ったあの人は誰なのだろう。
誰でもいいが、何か一瞬のときめきに胸躍らされるのは何故だろう。
果たしてそれは、永遠に勝るものなのだろうか。

まずは、『永遠と一日』。

最近、私の中である葛藤が起こった。
詳細は述べないが、たった一日でその後一年間が決まってしまうような出来事が起こったわけだ。
私がその一日を放棄すれば、一年間は現時点での私が望んでいた形になるのかもしれない。
しかし、私は後悔するのだろう。私が捨てたあの一日を。

そんなことは1月にもあった。
あれは高校生としての授業の最終日だった。
あと一日いけば、私は3年間の皆勤賞を貰えるはずだった。
しかし最終日、私は 『お腹が痛いので』という理由で欠席し、卒業式で貰えるはずだった皆勤賞を放棄した。
なぜか?

母を喜ばすためだった。
たまたま、母が長年好きであった芸能人に生で会えるイベントに当選したからだ。私はその芸能人に興味は無かった。元々無い。
私が当選者本人であるために、私が居ないと母はイベントに行くことができないのだ。だから、私が行く必要があった。

母の喜ぶ顔が見たかった。
母を喜ばせたかった。
ただそれだけの思いで。

私は、永遠よりも一日を取ったのだ。

卒業式の日、私の友人が壇上にあがって皆勤賞を貰うのを薄い目で見ていたことは確かだった。
しかしそのことを悔いているか、というと案外そうではなかった。
その”薄い目”も、一瞬だったからだろうか。

母の喜びというのが、一日、いや。一瞬に組み込まれれば、私のその想いというのは、何事にも勝るものはないのだろうか。


どうだろう。どうだろう。
でも、私は怖かったのだと思う。
皆勤賞を手に取り、薄笑いをして壇上にあがった自分を。母のあるべきだった顔をみずに、自分をさらけ出すのを。
そういう意味では、エゴなのだろうと思うが。

それでも、どちらの方が後悔が少ないか?という視点であることに変わりはないのだ。


一瞬、一瞬?
永遠と一瞬?
一日どこではない。
たった一瞬のために、永遠を捨てる?

明らかに後悔が大きそうな一瞬を。
だがしかし、一瞬の積み重ねの永遠というのは後悔ばかりではないか。
捨てるべき一瞬とはなんなのだろうね。

そして、

永遠に勝る一瞬とは、なんなのだろう。

一瞬は忘れてしまうものもあれば、ずっと残り続けるものだってある。
最近の一瞬は、いいや。今まで何度、一瞬に救われてきたのだろう。

自分は音楽に身を委ねることが多いから、例えば音楽だったら
加古隆さんの映像の世紀コンサートにいって、
ヒロシマに原爆が落とされた瞬間の映像と音楽に
体が無作為に震えてしまったことだろうか。

自分はアニメが好きだから、
庵野秀明監督の、いわゆる、まごころ…旧劇ヱヴァを初めて見て、
アスカ・ラングレーが碇シンジに首を絞められた瞬間に
胸が苦しくなったことだろうか。

じゃあ自分は人間らしい人が好きだから。
大嫌いな父親に、(やはり)、物を投げられて、
愕然と悲しくなったことだろうか。

それとも、昔の…断片的な記憶はいくつもある。
それらは長く続かないものなんだ。
音、におい、感覚、人。


刹那的なものなはずなのに、
私に刻み込まれているのは何故だろう。
一瞬のはずなのに、それがまるで永遠とつづくようだ。

なんか、分かってきた気がするのだ。
いいや、分かっているふりをしているだけだ。

永遠と一瞬。
それは対立ではなく、同一のものであることに。
つまり私は、永遠に勝る一瞬があると思っていたわけだ。
しかしどうだろう。

幼いころ、家族ではじめてディズニーランドにいったとき。
茶色のミッキーマウスのワッフルを頬張った。私がそれを、もういらないと言った。
ぼんやりとしたレストランに入った。写真を撮った。笑っていない。
ベビーカーに乗って、暗がりのディズニーランドに灯るオレンジ色の光。
歩く人を横目に、優越感に浸る。寝たふりをした。

寝たふりなんて何回もあった。
両親に運んでほしかったから。
体を支えて、おやすみ、と微笑んでほしかったのだろうと思う。

わざとけがをしたこともあった。
母親が介護につきっきりだった。
寂しかったのだろう。
玄関の前で、ずっと倒れて、冷たいアスファルトに『もうやめたら』とささやかれて、何事もなかったかのように家に戻ったこともある。

描ききれない一瞬が、まだまだあり続けている。

お気づきだろう。

一瞬が永遠を上回り、勝っているのではない。
一瞬と永遠が等価値であるのだ。

あの一瞬は、私の中で永遠になっていた。
一瞬という名のラベルの、永遠の時の中で、私に、わたしのなかで。






本題に戻ろう。
結局は、自分がした選択が自分にとって正しいものだったのだよ、と言いたいだけだ。そうしなければ、私たちは生きることが出来ない。
後悔を抱えたまま生きるのは、私にはできない。

それでいいんだよ。それでいい。
未来の自分にこう言ってもらうためでもある。

でも、永遠は確かなものだと思うのだ。
一瞬とは曖昧で不確かなものだ。
しかし時を経ても、忘れる事の出来ない一瞬は必ずあるのだ。

それこそ、永遠と呼ぶべき最愛の一瞬だ。
それに相応しいかどうかは、ひとまずやってみなくちゃ分からないのだと思う。
迷っているなら、一瞬をおすすめする。

私もそうするから。(責任はとらないよ(笑))


おそらく、永遠はすぐそばにあるのだ。
そして永遠の果てには、いつも一瞬がある。
永遠は、とてつもない感情を教えてくれる。

それがもたらすものは、何よりも。


愛すべきものだと思うのだ。
その愛すべき一瞬というのを見極めるのは、
自分だから、自分の信じた道を、というのはちょっとだけ正しいと思うんだ。

じゃあ一瞬の果てには、自分がいるんだろうね。


2023.4.4 深夜




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