初夏にして君を離れ
身体が融けていくように沈む
酸素を吸う時間すらもったいなくて
重力空間に従い長く息を吐く
瞼も唇も半開きが自然の摂理みたい
俯せに潰された左側の目尻が
セカイを全部二重に歪ませてしまう
頭蓋骨は十層のミルフィーユ
大容量のはずの脳は静かに過熱する
やってしまった。十二時間も寝ていた。起きたかったはずの時刻を一時間も過ぎている。今日は朝から歯医者の予約を入れていたのに、今から準備してももう間に合わないだろう。スケジュール帳はアナログとアプリの両刀使いで、文字がびっしりと詰まっている。何も予定がないことが不安で、「満ち満ちている生活」という事実が私を悦ばせる。その一方で、今までこのビッシリと並んだ予定と完全体で向き合えていたかというと、それは怪しい。こなしてきたという方が正しいし、出来る限り多くの人様に迷惑をかけないように、誰かを犠牲にしてきた。一緒にいても、スマホを表にして机に置いていれば、ひっきりなしに連絡が入っていて「忙しそうだね」と恋人に言われた。妙にその言葉が心に残った。なにかのきっかけで久しぶりに連絡をとった高校の頃の友達に、心から再会したくて「今度ご飯でも行こうね」と送信して、なんとなく心が冷えてしまった。そんな時間はどこにあるというのだろうか。捻出するのだ。この日の何時までと、あの日の何時以降なら空いてるよと伝えながら、「あなたのために一日をささげる余裕はありません」と言っているようで嫌気がさす。同時に、やらなければいけないことと友達と遊べることを一日で済ませられるなんて、着替えて家を出るという手間が一回で済むのだから、効率的でラッキーと感じる。美味しいごはんを食べながら、誰とでも就職活動と恋愛の話をして、答えの出ない悩みを嘆いて、自分の忙しさを適度に隠しながら、お互いの現状報告をするための、愉快な時間。人と話すことは元々好きだが、最近は人と話すことで心休まるようになってきてしまった。とてつもなく大きな変化だった。今までも人と関わることだったり、派手なイベントに参加することも、表舞台に立つことも好きだったが、どうしても疲れた。何かに没頭できる一人の時間がだいすきだった。今では、一人になれば自分に課せられた「やるべきこと」が目の前にチラついて、たちまち落ち着かなくなってしまう。気を紛らわせるように開いたInstagramも、更新しすぎて興味のない人のストーリーしか残っていない。意思のない指が動くままに最新のフィードを確認して、履歴からアプリを消す。そして気づけばまた今消したアプリを開いていて、さっき見た画面にギョッとする。それでも吸い込まれるように、死んだ目をしてリールを捲る。K-POPのサビばかりに詳しくなる。気分に削ぐわないくらいに明るく騒がしい音楽と、挑発的なダンスと、彼女たちを照らすカラフルな照明が私に頭痛をもたらす。またひとつ捲る。ネイティブが使う英語と教科書英語を派手に解説している。捲る。ねこが鳴きながらハイタッチしてくれる動画。見る。捲る。若い男の子のメイク解説とビフォーアフター動画、肌が綺麗だなぁ。捲る。赤ちゃんとねこが戯れて成長していく動画。見る。捲る。ペンギンが順番に海に飛び込んでいく。見る。捲る。飲み会あるあるを一人で演じている動画。捲る。気づいたらこれで一時間を失っていたりする。一時間で済んだらいい方である。スクリーンタイムの平均は九時間オーバー。これのどこが忙しいのだろうか。一人でいるより人といることが好きになったとは言ったが、孤独は薬だ。ベッドに入ってからスマホが顔面スレスレに落下するまで、楽しくもない実のないネットサーフィンに首を絞められ、脳を圧迫され、良くないとわかっていながら辞められないのだ。今度から、寝る前には映画を観ることにしようか。間違えて失った二時間よりも、初めから消費が確定した二時間の方がらずっと有意義だ。人の制作物からしか得られない満足感も、もうだいぶ得られていない。Xのブックマークやインスタの保存欄には、純粋な気持ちで惹かれた「観たい映画」「読みたい本」「行きたい展覧会」「食べたいごはん」が愛しいほどに並んでいる。これが全部叶えられたら、私の人生は本当に満ちるだろう、と想像することが十分に幸せだと気づく。絶対に全部が手に入るわけではないと知っていて、おしゃれな投稿に溢れた保存欄を眺めるだけで、自分の欲求が整然と並んでいて、コレクター気質のただの自己満足が、一旦この「好きに溢れた空間を振り返る」という行為で収束する。これらはこなさずとも死なない、優先順位の低いタスク。社会に向いていないんじゃなかと病みそうになるくらい、やるべきことの足取りは重い。楽しいことであればきっとリフレッシュにでもなるだろうと思って、遊びの誘いは断らずとりあえず受けておく。休息日でさえも休息日とスケジュールアプリに入れておかないと、気がついたら空いてる日だと時間的余白があれば入れてしまう。思って予定を入れてしまうのは、病気である。病気といえば、私の知り合いが最近癌になった。才能あるカメラマンだったのだが、大学もフリーランスの仕事も辞めて、軽く入院しているようだった。大して仲が良かったわけではないが、そんな話を聞くと、どこか同情的な目で見てしまいそうで自分が怖い。人に悩みを打ち明けられると、解決策を提示したくなってしまう。共感ができない。辛さなんて分かるわけないだろ、と思っているし、たとえ自分が弱っていたとしても、寄り添ってくれる存在はあまりにもありがたいが、あまり共感を求めているわけではない。分かる、という言葉が軽すぎる。安易に私の中に入ってこないでほしい。一人として、同じ眼を持っている人なんていないのに。行為に関して「それ私もよくやる」とかなら特に気になりもしないんだろう。昨日の夜の浅はかな共感を思い出して、誰もいないのに鼻で笑っていた。性格が悪くなったものだ。他人が泣いていても、文字通り他人事で、困り眉で唇を結びながら口をついた「辛かったね」という言葉が脆くて安い。わからない。自分が慰めているだけの状況なら良い。他人が他人を慰めている様が、滑稽に思えて仕方ないのは、私がおかしいのだろうか。他人のことなんかわかるはずないのに、どうしてそんなに気軽に涙を流せるのだろうか。私の中の優しさは目の奥に死んでいる。同じ目線に立つ努力をしながらも、心はどどんどん冷静になり、合理的に切り捨てる判断をしがちになっている。私だって辛くないことはない。楽しいこともたくさんあって、ある程度の自信と誇りを持った生活をしていて、充実という言葉の裏にある掃き溜めみたいなもの、今までの自分が時間がないことを言い訳に諦めてきたクオリティの部分が、虚像として自分の実力だと思い込むようにしていたことに、時折、気づき直すのだ。「時間があればもっと上手でもっと素敵にできた」というのはできなかったことと同義なのだと、分かったように言葉に出しながら、まだ本質は理解できていない自分の甘さを俯瞰している自分がいる。嗚呼あまりに読みにくい。明治の文豪の私小説みたいではないか。要するに、潜在意識として自分の能力を過信しているきらいがある。限られた時間で好奇心の赴くまま猪突猛進することは得意だが、限られた時間を十分に一点集中で使い切って、傑作を作り出すことは向いていないのである。他人の眼を気にしないふりをしている。いや、常に気にしている。SNSは消費者であるより発信者である方がよっぽど健康的だと思うが、それでも相互的に蝕まれることには違いがない。発信という行為は自分のためであり、承認欲求のためであり、アーカイブ的に個人のギャラリー空間を設計するためにもある。LINEに通知が来た。二年付き合っている彼氏からだった。友達は何人いてもいいが、恋人は一人である。共に過ごさなくてはならない時間の重みが、友達の比ではない。耐えられるほどには気楽な関係でいられて、週に一回しか会わないが、このリズムを心地よく思っていた。情熱的なものはない。好きな映画が一緒だった、それだけで一気に仲を深められた。遠慮などないが、お互いについて一番に知っている自信もない。だが、私に取っては隣を歩いていて逃げ出したくなることがないだけで十分だった。恋人がいるという事実だけで、あまりにも生きるのが楽になった。お互いがバイト後とサークル後のくたびれた姿に見慣れて、生活の優先順位の一番上に自分がいないことを、燻りながらも容認していた。文字に起こすとキリがないような「やるべきこと」がたくさんあって、なんなら君に会うことだって、「やるべきこと」なんだよと思っていても絶対に誰にも言えない。もう一度眠りたい気持ちを抑えて、外に出る準備をする。メイクは五分以内で満足するところまで終わらせられるし、着る服と靴下を選ぶ方がよっぽど時間がかかる。午後になりかけている今は暑いが、夜はまだ冷える。七分袖のカットソーを手に取る。鍵をかけて駅へと足早に向かった。
一秒がまるで永遠を刻むように
右目の端に捉えた軽自動車は
まるで私なんか見えてない
老人が無視してた「とまれ」
踏まれたままのアクセル
あっ
刹那に加速する景色と音
身体から聞こえる「ばりっ」
痛いってどんな感情だっけ
バットの形に歪む野球ボール
走馬灯って意外と来ないんだな
つらいつまンないいたい
周りの人たちはやさしくなった
生けられた花がきれい
あのときの記憶はもうない
いたくなかったような
いたかったようなキブン
身体を起こせるようになったいま
無機質なカップの水を飲みつつ
見飽きたこの部屋は狭い
これからのことは知らんから
今だけは自分をただ解き放つ
そんな予感はしていた。身体は相変わらず痛いし、妙な高揚感は長く抜けなかった。八十一歳が運転する軽自動車に体当たりされた私は、事故周辺に関してちょっとだけ記憶喪失になったが、腕と脚の骨が折れて全身が打撲と擦り傷まみれになる程度で済んだ。それでも事故は事故なので、入院生活を余儀なくされることになった。思ったよりもたくさんの人がお見舞いに来てくれた。バイトのラストランに遊びに来るみたいなノリだろうか。交通事故で入院してるやつ、というポジションが珍しいからか、同年代は心配の言葉と同時に少しハイテンションだった。差し入れのお菓子が増えていくのを見て、薄汚くも満たされた。授業にも行かなくていい。バイトもしなくていい。課題に追われなくていい。残念ながら今学期の単位が見込めないことだけが心残りだが、秒単位で活動していた身体が一気に停止する経験は、新型コロナウイルスのパンデミック以来だ。人と会えない辛さはないことと、私だけがあの老人に人生を変えられてしまったという虚しさが違う。だが周りの人は優しい。誰も「分かるよ」なんて言わない。誰も分からないからだ。彼氏はいつもバイト前に遊びにきた。毎週のシフトを一時間減らしてもらっているのだという。優しいとこあんじゃん。自分があまりにも暇なので、忙しなく動き回る世の中の人々が蟻や蜂に見えて仕方ない。今日までに観れていなかったアニメを3クール分も進めたし、普段見ないドラマにまで手を出し始めた。左手で絵を描く練習をした。五歳児みたいだった。電子書籍で我慢しながら読書をした。紙の本が恋しかったが、右手はまだ使い物にならない。半身不随とかにならなかったのは本当に運が良かった。向こうが軽自動車だったからまだ命があるが、トラックとかだったら多分死んでいた。息を吸って肺が膨らむことすら愛しい。ただただ意味もなく天井を見つめるだけの一時間を過ごすと、せっせと体を組み立て直している細胞たちに思いを馳せるようになる。バイトの注文を間違えて自己肯定感が下がっている時も、赤信号が青に変わるまでの数秒にイラついているときも、今更タイタニックを観て涙を流しているときも、ひとつ皮膚の下は私という形を保つためにフル稼働してくれていたのだと思い出す。出る杭は打たれるのに、没個性にはなりたくないジレンマの中で、誰もが自己の形成を外的要因任せにしている。何が好きだとか、嫌いだとか。どこに所属しているだとか、誰と気が合うかだとか。こうなりたいという欲の中で、世界が回っている。人間はないものねだりをしつつ、ないものはないものだと頭のどこかで分かっていて、羨ましさや憧れを原動力に生き、羨ましさや妬ましさに心を削られている。こんなに一瞬で日常は変わるんだと、二〇二〇年にみんな学んだじゃないか。結局忙しない。置いて行かれてしまうようで怖い。誰かが引いたレールからこぼれ落ちたら、その先に不幸が待っていそうなのが怖い。レールの上だって安全とは限らないのに。でも、今自分の人生という不確かなレールが一度壊れたことで、何か不思議な感覚になっている。もう、戻らなくていいかも。薄いカーテンから初夏の風が匂う。充足感と喪失感と、透明な感情の狭間に横たわった。
布越しに見る肺が別の生きもののようだ
無重力空間で時を忘れ浮かぶ
鼻から抜ける二酸化炭素が尽きて束の間
仰向けの後頭部には顎の重み
もっと深くまで沈めたらいいのにと思う
孤独は小粒でもピリリと辛い
冷えた腕を布団に仕舞い私は生きている
身体が融けていくように沈む
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