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アド人の変遷とウィグナーサイクル事件簿    

 2028年、大学生やフリーターのバイトとして、「ヒューマン・アド」(通称アド人)が話題になり始める。昔に流行ったザ・ノースフェイスのような筒型リュックが支給され、一面に企業が広告を掲載する。そのリュックを使用しながら生活するだけでお金がもらえるというものだ。いわば歩く広告塔となる仕事である。企業は広告人材代理店を通じて派遣されたアド人を雇用する。企業はターゲット層に合わせてアド人を選択できる。アド人に登録するためには、個人情報に加えて自分の生活様相を登録しなくてはならない。活動時間帯やよく使う場所は、企業がアド人を選択する上で重要な項目となるからだ。「山手線ユーザー」「週五日以上外出」「身長一八〇cm以上」など、様々な条件で報酬は上下する。
 生活に密着したアルバイトであると同時に、個人が企業イメージの一端を負う新たな取り組みであるため、アド人の公序良俗に反する行為はペナルティが発生する。10年ほど前に登場したウーバーイーツバイトの時と同じように、ヒューマン・アドも、最初は好条件なバイトとして話題になったが、浸透していくほどに個人の報酬は下がっていった。それでも手軽さと目新しさから、登録数を伸ばしていった。アド人として登録が完了したら、自分が請け負う広告のオファーが来る。オファーを受けたアド人は、それを承認すると、登録した会社からリュックが支給され、アルバイト開始である。もしその企業・商品に関して「自分の背中を賭けて宣伝するに値しないものだ」と感じたら、承認しないという選択肢もある。アド人として登録する個人が増えれば増えるほど、市場規模は拡大し、宣伝効果を期待する企業も増え、参入してくるという好循環が始まった。アド人業界はここから波に乗っていくことになる。

 2033年、日本の経済、特にエンタメ界は史上最低とも言える状況に陥る。原因は言わずもがな、昨年のシネマテロ:ウィグナーサイクル事件だ。国内のみならず、世界に衝撃を与えたこの事件。全国八ヵ所の映画館において、同時刻に放映開始した回の観客1048人が、一斉に被害者となった。噴霧された強力な睡眠薬により観客は映画中盤にはほとんどが意識を失っていたとみられている。首謀は“ビンシデンツ”と名乗る集団で、インターネット上で新たなる芸術を切り開く場を提供することをモットーに活動していた。儲けることを悪とする日本の現代美術の風習を脱却すべく、経済や政治に精通した優秀な若者も集う場だったという。本グループの主宰であり、事件の主犯格だったのが、代表の千葉夏子と副代表の時田浩介の二人。動機について彼らは

「ウィグナーの気持ちなど誰もわからないじゃないか」

とただ繰り返した。一切他に言葉を発さないことから、彼らには精神異常が見られる可能性があるとして、医師の判断を仰いでいたまさにその時期に、この事件は第二の異変が起きた。
 まず、第一の異変(事件当日)についててである。この日に公開初日を迎えた塩峯宗監督の長編アニメーション映画『ウィグナーサイクル』は、公開前から常識を破壊される問題作と評され、話題を呼んでいた。大規模なシネコンで上映されていたわけではなく、単館ロードショーだったが、チケット売り上げは異例の満席を誇っていた。塩峯宗は、前作『なれの果て』が話題となったことで一躍世間に名が知れ渡ることになったため、シネコンでの全国ロードショーも可能だったはずだが、監督本人が「ハコに合わせて作りました。大きすぎる画面ではこれは致死量となってしまうだろうから。」とミニシアターを望んだ。謎めいた発言がさらに話題を呼び、最新作に期待を寄せる映画好き・アニメ好きはこぞって映画館へ足を運んだ。
 この作品について、ある人は「合わせ鏡のような作品」と形容し、ある人は「今が夢か現実かわからない」と呆然とした様子だったという。事件が起きた映画館で上映されていた『ウィグナーサイクル』は、未来に絶望した一人の少年が、とある実験に参加させられることになる物語である。彼はそこで出会った人々に歓迎され、自分が生きる意味というものを実感し始める。ところが、実験に失敗した研究者と、その回の被験者がある日突然行方不明になってしまった。

「“ハザマ”に迷い込んでいる。死んでもいるし、生きてもいる。」

彼らはきっとそのどっちかだ、と研究者たちはいう。少年は、自分と仲良くしてくれた行方不明の被験者の女の子を探すことに奮闘する。無秩序に場面が移り変わる。奇妙な感覚を覚えた少年は、酔ったような、浮いているような気分だった。その虚な記憶の中で、少年は別の被験者に探されていることを察するのである。無限に続く螺旋階段で追いかけっこをしているような気分になり、少年は気づく。

「ここはもう既に“ハザマ”だったんだ」

 睡眠薬を投下された人々はいずれも軽症で、一日以内に意識を取り戻している。そのため、この事件は最初そこまで取り沙汰されていなかった。しかし、事件から一ヶ月経過し、ニュースもこのことを報じなくなった頃に、被害者の半数が神隠しにでも遭ったかのように一斉に姿を消した。これが第二の異変である。
 日本中が騒然とした。全国でほとんど同時に出された行方不明届の被害者が、全員『ウィグナーサイクル』事件の当事者であるという事実はすぐに判明した。さらに、監督までもが姿を消した。様々な憶測が立ち、映画は公開が取りやめする事態に発展した。東京拘置所に管理されていた容疑者二人は、いまだに同じセリフを繰り返していた。

「ウィグナーの気持ちなど誰もわからないじゃないか」

 映画館は、配信サービスの台頭によって長年赤字だったことに加えて、前年のこの衝撃的な事件の影響を大きく受けることになる。事件が起きたのは大手のシネマコンプレックスではなく、都内を中心としたミニシアターだが、事件後の、閉鎖的な空間を極度に避ける世の中の傾向に拍車をかけた。ますます「映画は一人で家で見るもの」という風潮になり、経営は雲行きが怪しくなっていたところに、取締役の不祥事が重なった松竹は社長が辞職。全国の映画館や舞台は赤字に耐えられず閉館を余儀なくされるものが急増した。一方で、アニメ業界は相変わらず業績を伸ばしていた。世界に誇る日本のアニメ・漫画という文化は、政府の補助のもと押し出されていった。圧倒的な技術により、漫画は気軽にアニメ化されるようになり、ある種「飽和」と取れる期間も数年前に訪れた。テレビ放映されるアニメは枠が限られるが、配信は無限の枠が存在するため、バズればラッキーといった「誰かに刺さるためのアニメ」を大量生産していた2020年代は、昔ほどテレビ放映に名声はなくなっていた。ところが、2030年から流れは少しずつ変化を見せ始める。アニメ戦国時代であるにもかかわらず、長編のレジェンドアニメが新しく誕生しにくくなっていた。ヲタク層だけでなく、家族という単位が視聴者であることが必要だったのである。NetflixやAmazonプライムビデオなどの配信では、観る作品を「選ぶ」という能動性が特徴で、話題にならないと選んでもらいないために「いかにバズらせてより多くの人に視聴を選択させるか」が重要だった。しかし、不可抗力の受動性を特性とする放映形式は、興味のない人の身にもつく仕組みである。アニメの飽和も相まって、ここに来てテレビの価値を再構築するムーブが訪れる。世界的アニメONE PIECEが完結し、日本アニメ界はポストONE PIECEの争奪戦時代になったのである。探せ、この世の全てをそこにおいてきた。

 数日して、行方不明者はポツポツと見つかり始めた。見つかったというよりは、当たり前のように日常生活に戻って来るのである。本人たちが自分が消えていたという自覚はなく、むしろ自分も人を探すのに協力していたのだと言い張った。行方不明者本人が帰還すると、どういうわけかそれまでの神隠し自体を解明しようという気は薄れてくるのだった。神隠し自体、無かったことのように世間全体が受け入れ始めた。それでも、最初の睡眠薬事件だけで、世間が映画館を敬遠するのは十分だった。還らないのはあと七人というところで、帰還ラッシュに翳りが見え始める。ここから数年間、戻らない人は戻らないままであった。しかし、世間はそれを受け入れた。問題視せず、そういうものだと認識した。
 
 ここで意外にもアド人が映画館の復興に一役買うことになる。一般に広く普及したヒューマン・アドの形態だが、一時、低迷とも言える状態に陥っていた。そもそも、始まった当初から、ファッションを重要視する界隈からは疎まれる傾向にあった。そのため、表参道や青山といった高級エリアでは「アド人はダサい」という風潮があり、あまり受け入れられていなかったのである。より多くの人間に広告塔になってもらうため、そして同時にヒューマン・アドの価値を高めるため、広告人材代理店は新たな企画としてルイヴィトンとのコラボを発表した。コラボリュックを手に出来るのは、アド人登録においても条件が要った。この新企画を経てアド人同士に階級的な傾向が生まれたのは、必然的だったのかもしれない。技術の進歩により、液晶はより薄く、より軽く、より強くなっていた。背中に掲載していた印刷広告は、ついに液晶型へと変貌する。「ルイヴィトンに紙広告は無相応だ」という声に対応しての改良である。バッテリーの持続時間は最低でも48時間はあるため、どんなに一日中歩き回っても、途中で充電が切れることは無い。この液晶広告を一番活かしたのが、映画の予告編放映だった。特定の時間に宣伝作品の「聖地」にいるアド人を対象として、アド人ジャックが行われた。アド人はある種のイベント参加者であり、同時に広告媒体としてのオフィシャルな「企業側」の側面と、単純に予告編が町中の背中に映し出される光景の目撃者としての「顧客」を同時に果たした。このジャッキング方式では、先んじて映画館や映画製作会社の宣伝を承認しておかないと、自分の液晶に予告編が流れることはない。いつどこでジャッキングが始まるかわからないワクワク感から、映画館への先行承認をするアド人はみるみるううちに数を伸ばしていった。人々が映画の動向に注目するようになったことで、映画館を訪れる人も増えていったのである。
 

 2045年、日本の人口は減少の一途を辿りながら、今日まで、東京だけはその密度を上昇させ続けていた。インターネット上の居住空間は現実に溶け合い、どこまでも便利になった。ベータ世代と呼ばれる若者たちは、2025年周辺の生まれで、幼い頃からスマホ以外を知らない世代である。誰もがワンクリックで買い物を済ませるようになったことで、物流は追いつかず、一周回って自分の足で買い物に行くことが「ブーム」となった。しかし、そのブームを享受できるのは東京などの大都市近辺に住む人だけであり、東京は土地としての価値を高め続けた。高いと言えば、ついこの間にスカイマイルタワーが完成した。1700mの高さを誇る新たな日本のシンボルは、堂々と東京湾に聳え立ち、嘲るように世界を見下ろした。ショピングセンターやタワーは東京の象徴でありながら、その内側に閉じた街を作った。高級ブティックからプチプラ雑貨まで、ありとあらゆるニーズに対応し、一息つけるカフェも、管理された青々とした緑も、すぐそばに広がる海まで、計算し尽くされていた。ああ神社まで。サイバージンジャにお参りに行こう。
 今では当たり前となったサイバージンジャだが、冷静に考えるとAIを祀る行為は奇妙だ。姿が見えない超越的存在を崇めているという点で、AIと神は似ている。違うのは人間が作ったものなのか、を創ったものなのかという点だけだ。
 AIが人々の仕事を奪うと言われ続けてきた中で、「アド人」という市場ブームは去るのではなく、定着した。この仕組みは革命的に企業と個人を結びつけたが、同時に人工の都市集中に貢献する形となってしまった。
 人熱の渋谷、二十年前と変わらず、道は道の役目を為さないほどに狭く感じる。外国人は無遠慮なボリュームで話しながら、型落ちしたGoProを振り回して、彼らの思うJAPANを撮影している。アニメに出てくる日本は、高校生が爽やかな生活を送っていたり、若者が音楽やスポーツに熱く取り組んでいたりする。渋谷には残念ながら爽やかさはなく、とにかく騒がしく最先端に執着している街である。
 久しぶりにヒットチャート上位を獲得した米津玄師の最新曲が爆音で流れる側で、代替わりした楽天カードマンはむむむと叫び、道を曲がるごとに異なる消費者金融の大きすぎる看板が目に入る。二十年前は、巣鴨あたりが「おばあちゃんの原宿」と呼ばれていた。今や渋谷・原宿エリアは若者しかいないレアな街という感じ。竹下通りは「若者の地蔵通り」と揶揄されるようになった。十年ほど前に始まったアド人は、「若者の気軽なバイト」から、「外出さえすれば誰でも稼げる高齢者に大人気なバイト」になりかわりつつあった。老人は散歩が好きだ。中身が空の軽いリュックを背負って街に繰り出すだけで年金の足しを稼げるとなれば、多くが奮って登録に走る。ある日、新規ヒューマン・アドに登録者として入った名前の中に、衝撃の名前が入っていたことで人々は当時の事件を思い出す。塩峯宗。様々な憶測が飛び交い、ワイドショーは賑わいを見せた。しかし、塩峯本人もまた、還らない人たちを探すことに尽力していたが、自分は普通に生活していたと話すのである。そうか、じゃあそうだったのかもしれない。世間はまたこの事件のことを忘れていき、それが当たり前だったように順応した。

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 シュレディンガーの猫という思考実験をご存じだろうか。名前は聞いたことがあるけれどシキミはわからないという人が多い子もしれない。敢えて小難しく言えば、観測者が確認をした瞬間に事象が収縮して結果が定まるということについて話したいわけだ。シュレーディンガーはこれを「猫の生死」という事象に結び付けて考えることにした。
 箱の中に、確率50%で毒ガスを発生させる装置と、生きている猫を閉じ込める…と想定しよう。観測者が箱の中身を確認するまでは、猫の生死は確定しておらず、観測者が蓋を開けて中を確認した時に初めて事象が収縮して、それにより猫の生死が決まる。開ける前の箱の中の猫は、生きているか死んでいるかの「どちらか」の状態である。箱を開けるまでは、猫の生死が重なり合って存在している状態だと考えられる。一方のコペンハーゲンは、箱の中の猫は生きているか死んでいるか「どちらの可能性もある」が、答えは観測者が見た瞬間に状態が決定すると考えた。このコペンハーゲンの考えにミスがあルコとに気づいたウィグナー先生は、次の思考実験に移ることにしたのである。

 実験室で、50%の確率であかりがが灯る電灯を用意した。ウィグナー先生は部屋の外で待機し、友人に観測を任せることにした。密閉された部屋の中にいる友人に、その電灯が灯ったかとうか実験結果を尋ねる。
「電灯はついたかね?」
友人はを結果を確認し、別室で待機するウィグナーのもとに電話をかけて報告した。さあ、電灯の状態が確定したのはどの時点だろう、というのがこの思考実験のポイントである。友人が電灯を見た時?報告の電話を受け取った時点?ウィグナーが結果を知った時?
 ウィグナーの目線に立って考えると、「密室の中にいる友人」は「シュレディンガーの猫」と同じ状態であることがわかる。友人を観測する者(ウィグナー)が結果を聞くまで、部屋の中の友人は「電灯がついている」と報告するか「電灯がつかなかった」と報告するかのどちらかの状態だから。中の様子がわかるまでは、電灯は点っているか点っていないかが重なり合っていると言えるのである。さらに、ウィグナーが「友人」の立場になってさらに外側から観測者が現れた場合、どこまでも論理は無限に展開されるのである。観測者2にとってのウィグナーは、猫である。結果を本人から聞くまで、「ウィグナーの友人が見た結果について、ウィグナーがなんと報告するか」は、イェスもノーもどちらの状態も重なり合っているのだから。観測者3にとっては、「ウィグナーの友人が見た結果について、ウィグナーがなんと報告するかを聞いた観測者2が、自分に何と報告するか」においてシュレディンガーの猫と同じ状況なのだ。受け止めきれない難解な想定を前にすると、人間が取る行動は逃避である。ああ、そういうことだった気がする。ある事象を肉付けして元々事象の先の先の先に繰り返しが起こっているように見えるが、これらが同時に起きたとしたら?
 そう、まるで合わせ鏡のように。

この作品は、まだノンフィクションの可能性があります。


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