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始まりの丘 No.5【小説】

 窓を開けると、不気味な曇り空が辺りを包んでいる。
 
 まるで世界が終わってしまう一日前といった感じである。
 
  終末時計は、二〇二三年になって残り九十秒となった。去年より、十秒も短くなっているのである。

 人類の終末まで「残り九十秒」世界が過去七十六年間で最も破滅に近づいたことを示唆している。

 原因は、ある国の侵攻が起こったり、隣国の挑発、新型コロナウイルスのような感染症が起こったことが原因している。

 だが、僕はもっと根本的な問題。人間がどんどんと、悪くなっていってる気がするのだ。

 僕が思っていることは、可笑しいことだろうか……?

 みんな心のどこかでは、似た様なことを思ったことがあるのではないだろうか?

 コロナなどでストレスが貯まっているだけなのかもしれない。だけれど僕は一抹の不安を覚えられずにはいられなかったのだ。

  或いは本当に世の終末が近づいているのかもしれない。

 聖書を研究していて、何度も復唱しているこの言葉は、いつも僕の横から風の様に通り過ぎて行く。

 クリスチャンの人々が携挙、携挙と騒いでいる訳だ。

「僕ですらそう感じるんだもんなあ」

 間違いないんだろうな。

 ただ、世の終わりが来るとして、一体どのような悪いことがこの後、待ち受けているのだろうか?

 聖書には人類の三分の一が死滅すると、何とも過激なことが書かれている。

 この三分の一の人類が悪人だけであればいいと祈るばかりだ。

 なぜこう思うかと言うならば、この三分の一とは創世記に記載されている、堕天した天使の数と同一という点からも見て取れる。

 それが今では人類を惑わす悪魔として、聖書には書かれている。

 天使の三分の一は悪魔……。という訳だ。

  だから、この死滅する人類は悪人だけである。と個人的解釈を持っているだけなのだが……。

 聖書は解釈は自由だ。だけれど、それをねじ曲げて伝え述べてはならないとも書かれている。たとえば聖書は教科書なのだ。

 キリストに言わせれば、一点一画でも聖書の言葉をねじ曲げて伝え教えるものは呪われよと書かれている。

 だから僕はその点だけは注意している。

 僕はプロテスタントの家系なので、何でも聖書が第一なのである。

 これでも、中学生までは信仰を持っていた。

 イエスはメシア……。そして、十字架に掛かり、復活したことを信じること。

 このことを認められれば、あなたも立派なクリスチャンだという訳だ。

 しかし、日本にはプロテスタント、カトリックを合わせても、およそ一%のクリスチャンしかいない。

 しかも最近は若者離れが加速していて、今果たしてどうなっているのかは、僕にも分からない。

 日本は神道が盛んな訳だが、これもあなたは神道の信者ですか? と聞かれると、いや、信者と言うほどではないけれど、とりあえず神社には行くかな、といった人がほとんどである。

 これは、第二次世界大戦での国家神道が原因している。

 昔からの日本に伝わる自然な神道は、神様を崇めることで、厄を祓い、願いを叶えて貰うというのが一般的だった。

 主な願いは、厄除け、学業成就、健康を願うことであるけれど、戦時中の神道はそうではなかった。

 天皇陛下を神の様に仕立て上げることで、戦争の大義名分を図った訳だ。

 これは昭和の政府の陰謀だったのだが、これによって、神道の熱心な信者の数は加速的に離れていった。

 これが、戦後に日本が無宗教国家と言われる所以なのだ。

 せめて、神道が盛んであったならと、僕は思う。

 こんなことを思う様では、僕もまだまだだ。僕はクリスチャンに戻りたいのであろうか? やはり、信仰の話に興味があるのだ。ただ、信仰というのは無闇矢鱈むやみやたらに持つモノではない。自然な信仰が一番なのだ。

 僕は常々そう思っている。もしも、日本人全員がクリスチャンになったとしたのなら、僕は自然な信仰をお勧めする。

 日本人は自然と共に生きてきた民族だから、自然な形にしっくり填まるのが一番だというわけである。

 仏教の神仏習合などは、正に上手くいったパターンな訳で、日本の神道に自然に溶け込むことで上手くいった。

 だから、クリスチャンの方は日本人には信仰を無理強いしないで自然な形で誘導すればいいと思うのだ。

 それが分からないクリスチャンが多すぎる。僕がもし、クリスチャンに戻るとしたら、ナチュラルボーンクリスチャンになりたい。自然な感じが一番だと言う訳である。

 区切りもいい感じなった僕は、ここいらで考察を辞めることにした。

 今日は、聖書研究会のメンバーに電話をかけるんだった。

「いい情報が集まっていると嬉しいけどな」
 
  僕はスマホに手を伸ばしていた。

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