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『夜が明ける』西加奈子 テレビ局1年目社員の感想


テレビ局の制作部に入って半年が経った。
この半年は今までの人生で最もカオスで、最も
「守られていない」時間だった。
辞めたいと何度も思った。
新入社員の3割が3年以内に離職するという
データもあるが、僕の場合それはもっと早いペースで訪れそうだった。

特に死にたいと思ったのは12月だった。
12月は通常かけもちしている2番組に加えて
年末特番もやらなければならない。
朝9時に出社して深夜の3時ごろ帰るという生活が続いた。12月の脳内にはタクシー、レッドブル、コンビニ弁当がグルグル回っていた。仕事以外の時間はその3つで構成されていると言っても過言ではなかった。それも仕事の時間は本当に本当の意味で1分も無駄にしていなかった。全力で全集中してぶっ通しで働いていた。

深夜はタクシーで帰った。局の前には頭のおかしい時間帯にもかかわらず潤沢なタクシーの列が出来上がっており、僕はいつも倒れるように乗り込むのだった。
タクシーの車内での時間は、仕事とは関係なく自分という人間として思考できる貴重な時間だった。

その時に頻繁に脳に現れるのは電通の高橋まつりさんだった。僕は今でも当時のままに保存された彼女のTwitterのアカウントを見る。そして彼女の母の現在の啓蒙活動や、それに関連した記事を読む。竹内結子と三浦春馬を思い出す。
そこに神田沙也加も加わった。

彼女たちはどんな思いを抱えていたのか。苦しみに誰も気づかなかったのか。
例えば僕が突然死んだとして、職場の人間は驚くだろう。誰も僕の苦しみには気づいていないし、むしろこれくらいで音を上げていることに鼻白むに違いなかった。
「俺たちの時代はもっと酷かった。今は楽しているくせに」
「自分の能力のなさのせいだ」
こう言われるのは明白だった。おそらく、僕の職場は誰かが自殺しない限り変わらない。ただ、自分がその犠牲になることはあまりにも馬鹿らしく、ムカつくので絶対したくない。しかし絶望感に襲われ、少ない睡眠時間と体調の悪さに震えながら耐える生活は、その観念を脳裏にチラつかせるのだった。

僕は本を読むのが好きだったが、めっきりその時間は奪われてしまった。
(異常な労働時間は常態化しており、職場では遅い時間まで残れば残るほどえらいという風潮があった。それにそもそも仕事は洪水のように一人の人間に降りかかってくるので、図らずとも深夜1時くらいは軽く行ってしまうのだった。)
特に朝井リョウと西加奈子が僕のお気に入りだった。西加奈子は『サラバ!』を読んで以来、その作品の人間への根源的な問いや、自分の琴線に引っかかるような主題を扱っていることから、気にかけている作家だった。
年末の一瞬できた空白の時間に本屋にいくと、西加奈子の新刊が出ていた。新刊、と言ってもそれは僕が気づいたのが遅かっただけでだいぶ前に発売されていた。

僕はそれを迷わず手にとり、買った。本にかけるお金は一切惜しくなかった。使う時間がなく不相応に貯まった大金は、嬉しいものというよりもこの仕事の暴力性の象徴のように思えた。この金は、大勢の人間から搾取して生まれている。そしてその搾取の対象には自分も含まれているという矛盾は、余計に僕を苛立たせた。
(テレビ業界の搾取の構造や給与の話についてはまた別のとき書きたい。)

そして僕は正月に久しぶりに、fu○k'in outlookからの通知がなくなった状態で、ようやく『夜が明ける』を読むことができたのだった。
しかし読み始めてからこの本は予想以上に自分にとって大事なものになりそうだということに気づいた。
この本の主人公がテレビマンであり、西加奈子はこのテレビマンを軸として今の日本の空気、そしてそれを作り出してきたテレビを刺しに来ているからだった。
こんなタイムリーなことってあるだろうか。僕はこの本を読んで思ったことを記す使命があるように感じた。偶然かもしれないが、これは何か意味のある啓示だという気もした。

物語は深沢暁、通称「アキ」と「俺」(名前はあったかもしれないが僕はすぐに思い出せない)の二人の人生を交互に描いていくことで進んでいく。
中学で出会い、親友になった二人の人生に共通することは「貧困」だった。
アキはシングルマザーの元で育ち、ろくな食事も与えられずネグレクトされておりまた母親に暴力をふるわれることが日常だった。
主人公の「俺」は高校に上がる前に父親が自殺し、多額の借金を背負うこととなった。ほとんど社会に出たことがなかった母に頼ることもせず、アルバイトをしながら奨学金を借りて大学の学費を払っていた。

高校を出てからアキは俳優を目指し、主人公はテレビの制作会社に入る。
彼らは人生に真剣だった。真面目に生きていた。しかし彼らの人生は深く、暗い道へと続いていた。

この物語を通して僕が思ったのは「新自由主義の限界」だった。今の日本社会、特にここ10年くらいは強者の論理で動いていて、強者を優先した結果弱者は踏みにじられている。そしてそれは確実に人災的なもので、はっきりとした原因があるものだった。その社会の低層への余波を、とても具体的にリアルに描いているのがこの本なんだと思う。描く上で西加奈子が選んだのは、テレビ業界だった。

ヤバすぎる業界の闇

僕が半年制作部に入って感じたのは、多分現在の日本社会にこれ以上ブラックな環境はないということだった。同じく社会人1年目の友人に話を聞いてもこの業界ほどブラックなところはなかった。『夜が明ける』には想像を絶するほどの職場環境が描かれるが、これは誇張でもなんでもなく驚くほど現実に忠実だった。

実際、俺と同期で入った社員6人のうち3人が夏までに辞めていた。
新入社員を採るとき、半分以上は辞める人間だとみなして採用するのだと
社長に聞かされた。

同期はそれぞれ、それなりに根性のありそうに見えた。
でも、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎるてゆくうちに、目から生気がなくなり、黒目がキョロキョロ泳ぐようになった。皆、1年も続かなかった。

業界には「飛ぶ」という言葉がある。ある日突然姿を消すように仕事を辞めてしまうことだ。連絡もつかなくなり、仕事の引継ぎなどもない。ただそこにあるのは「もう限界だ。怖い。逃げたい」という切実な意志だ。夜逃げ同然だ。
制作会社の同期から聞いたのだが、ある先輩は20万円ほどの領収書の建て替えの精算を終えずに飛んだのだという。つまり20万円を捨ててでも逃げたかったということだ。それを聞いた時、僕は笑いたくないのに不自然に口角が上がっていたのを覚えている。それだけ人間は追い詰められる。時間に、上の人間に。どうやっても捌き切れない量の仕事をぶん投げられて時間に追われ、自由を奪われ、尊厳を奪われていく。心を病んだり、パニック障害になる人も業界では少なくない。
主人公も後輩が飛んだことにより、とんでもない負担を強いられることになる場面がある。この時の心情がよくわかる。焦って焦ってとにかく怖い。
誰も助けてくれない。間に合わなかったり、できなかったことは全部1人のADのせいにされる。
みんなで作ってるのに、進行に不都合がおこると誰かの1人のせいにしたがる。
あるいは、誰か1人(しばしば発言力のない若手)の失敗ということにして、上の人間は自分のメンツを保とうとする。
主人公は、パニックになって手首を切るようになってしまった。

業界から滲み出る価値観

それは膿のように何年も蓄積して、溜まっている、洗っても洗ってもこすり落とせない凝り固まりきった価値観だ。
それを端的にあわらしている一節があった。

お前より自分の方が頑張っている。お前より自分の方が大変だった。
被ったトラブル、乗り越えた厄介ごと、その規模が大きければ大きいほど
武勇伝になり、箔がつく。3日間の制作期間で、音をあげることは許されない。

まさにこの価値観なのだ。
「自分の方が大変だった。だからお前ももっと頑張れ。これぐらいでキツイっていってるんだったらやめろ」
この一文に僕の半年で感じた「制作部」の全てが詰まっている。
全て先輩から言われたことはこの一文の形を変えたものに過ぎない。
とにかく全てを差し出すことを求められる。時間すら自分のものでなくなってしまう。個人の自由を犠牲にして番組に奉仕することが最もいいこととされ、そのためには深夜まで働こうが体を壊そうが精神を病もうが関係ない。使えなくなったコマは捨てるだけだ。そういう世界だということを、僕は学んだ。
だから普通の人間は病気か、辞めるかしてこの業界を去る。残るのはそれに耐えた異常な人間だけなので、その者たちによって旧時代の価値観は煮詰められていく。
西加奈子がこの業界を題材として選んだ理由は、
テレビ業界の働き方、価値観自体が社会問題として提起されるべき代表なんじゃないかと、気づいた(気づいてくれた)からなのではないかと僕は思った。

”助けて”の言えない社会

仕事をしていると本当に「危険」なことが多い。仕事をあまりに振られて、「パンク」する恐れが常にある。(「パンク」とは仕事があまりに多すぎてパニック状態になることをいう。精神的に追い詰められてヤバくなることであり、気をつけないと普通に訪れる)だから仕事をする上ではとにかく仕事を早く捌き、無理な量を抱えないことが重要になる。
あれ…?待てよ、普通の会社だったら一人が仕事を抱えすぎていたら他の人がサポートするのが普通では?と思う。しかし、この業界にはそれが存在しない。特に1年目の僕は上から仕事が降ってくることがあっても、仕事を頼むことなんてできやしない。助けを呼べない。本当に「溺れる」という感覚になる。息ができない。主人公も作中でそのような描写があり、手首を切ることで「息ができる」と言っていたが、あながちそのプロセスがわからないでもない。「明らかに超えてしまっていはいけない線」を超えてしまうことで、自分の心の耐えられるキャパシティーを無理やり広げているのだと思う。それが彼にとってはリストカットだった。
このような心理プロセスは、「追い詰められた人間」に必ず発生すると、僕は断言する。なぜなら自分が身をもって体験しているからだ。追い詰められた人間がみんなリストカットをするというわけじゃない。そうではなく、自分のキャパシティーを超えた何かを起こそうとするということだ。「明らかに超えてしまってはいけない線」を越えようとし始めるということだ。
追い詰められた人間は恨んでいる。自分を酷い目に合わせた人間を、社会を、恨んでいる。
だから、バッシングの対象ができるとすぐに叩きにいく。それはネット上の炎上の現象と無縁ではない。主人公もその一人になっていく。

自己責任社会→助けてもらえない弱者の誕生→弱者が社会から見殺しにされ、追い詰められる(貧困・精神を壊す)→社会を恨むようになる

このようなサイクルが日本社会で生まれていると、個人的には思っている。
西加奈子が主人公がテレビ業界に入ってから弱っていき、社会を恨むまでに至った様子を描いたのも、このような流れを念頭に置いているからではないかと思う。
自己責任論が広がった今の日本社会では、この「追い詰められた人間」が確実に生産されている。そしてこの種の人間の最終到達地点は「無敵の人」だと思う。

”無敵の人予備軍”の大量発生

追い詰められた人間は、確実に「無敵の人予備軍」になっていく。金もなく、将来の展望もなく、結婚もできない。自分は頑張っているし、こんな苦しい思いをしているのに誰も助けてくれない。自分に価値を感じなくなり、反対に成功している人を恨むようになる。(それはネット上の芸能人へのバッシングへと繋がる)
そして、前述したように「追い詰められた人間」は一線を越えようとする。
そのベクトルが内側に向けばたどり着く先は自殺、
外側に向けばテロ・無差別殺人へとつながっていくと僕は思っている。

主人公も、その過程を見事になぞっていた。
でも、考えて欲しい。主人公は全く悪くない。
主人公は父親が自殺してから奨学金を借りてアルバイトをしながら大学の学費を捻出し、好成績を常にキープする努力を続けてきた。就職先を見つけて、どんなに過酷で辛い環境にも、文句ひとつ言わず耐えてきた。昼夜休日問わず働き、貢献してきた。おかしくないか?こんなに努力をして、逆境にも負けずに必死で生きてきた人間が、社会に潰されてボロボロになってしまっているんだぞ?おかしくないか?
僕は声を大にしてそう言いたい。そしてこの本も、それを伝えようとしているように思うのだ。

新自由主義の限界

最近、岸田首相は「新しい資本主義」を構築する、とスローガンを打っている。新聞の言説にも、「資本主義の岐路」といった題材が多い。反資本主義的な新書がベストセラーになっている。
どうやら、世の中は強者がより強くなるシステムが限界を迎えていることにようやく気づいたらしい。
僕は本当に嫌だった。テレビで紹介されるキャバ嬢の年収が2億円で、母子家庭で子供の学費を稼ぐ母の年収は200万円という事象がまかり通る世界が本当に嫌だった。この現象を可能にしているのはやっぱり資本主義だし、弱者の困窮を自己責任として片付ける新自由主義の発想だと思う。
この助け合いとは対極にある、誰かひとりの自己責任とする冷たい風潮は、テレビ業界に似ている。
西加奈子はそこに共通性を見出したのではないかと思う。
助けて、が言えない会社だし、言ったら言ったで嫌な顔をされる。結果パンクしたらしたで助けを求めなかったことを責められる。
まずは他人を責めること、やめましょうよ。。と僕は思う。

半分愚痴のようになってしまったが、これが自分なりのサイレンだ。
この記事をたとえ誰も読んでくれなくてもこの異常性を伝えなくてはいけないと思ったし、書くことで客観的に見てもおかしいということに納得できた。
こうやって、自分の精神を適度にコントールしないといつか本当に狂ってしまいそうだ。

そうなる前に、足を洗うのが吉だろうな。

糸冬









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