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埋もれた将棋名作ルポ『泪橋のバラード』その6 (全7編)

 
 埋もれた将棋名作ルポを紹介する記事の、6回目。
 
 この『泪橋のバラード』が書かれたのはいつなのだろう。このルポの載る『なぜか将棋人生』は1986年(昭和61年)7月刊。湯川師匠がジャーナル紙の編集長を降りてフリーになったのが1984年(昭和59年)。おそらくフリーになってから書いたものであるから、その間のものとなる。
 
 画像には、その時代の常磐線を使っている。ぼくが子どもの頃に撮ったものだ。西多摩に住むぼくにとって、常磐線のエメラルドグリーンは憧れだったが、使っている人は忌み嫌っていただろう。中央線と同じく、通勤時のラッシュがすさまじかったであろうから。
 
 
 
 『泪橋のバラード』は最後の小タイトル、「日曜日の朝」に入る。

   日曜日の朝
 
 私もちょっと疲れたので、同じスタイルでゴロリ。うとうとして、はっと目を覚ますと、もう午前6時。クラブは新手の客が4、5人入ってきている。しかし席主がいない時間だから、タダということになる。
 このころになると、寝ていた連中は、朝の身支度にかかる。といっても、便所に入って、顔洗うくらい。大田さん風のモモヒキおじさんだけは、髪をなでつけ、ズボンをはき、上着をつけてたちまち、こざっぱりしたナリになる。啖呵売かなにか、客商売の感じだ。
 7時を過ぎると、ガタガタと、2人ほどおじさんが入ってきて、どんどん掃除を始める。それでも指し続けてる人もいるし、外へ出る人もいる。掃除が終わってしばらくすると席主さんが現れて集金。また一日のスタートである。
 外へ出る。山谷の日曜日は仕事がないから、人が多い。食堂からは湯気が溢れ、外で立って食べている人もいる。街の隅々には、人がたむろし、ほとんどがスポーツ新聞を読んでいる。ドヤ街というのはどこも、外に人がたむろしている。これは住むスペースがあまりにも狭いのと、1日ずつ精算しちゃっているからと、両方のようだ。

 
 湯川師匠もその場の皆に合わせ、雑魚寝する。こういった場で寝られなければ、ルポライターは務まらない。
 将棋ペンクラブの幹事たちの飲みの場でも、師匠は平気で眠る。飲みだしてからしばらくは一方的に話すのだが、1時間くらいで、腕組みした格好でストンと眠ってしまうのだ。これはパターン化されていて、だから誰も気に留めない。師匠が眠ると、ぼくが、「さぁこれでようやく民主的で平等なトークタイムとなりました」と言うのもお決まりのパターンとなっていて、それを聞いた恵子さんが「まったくもうあなたは!」と大笑いするのも、お決まりだ。
 湯川師匠は30分くらい眠ると起き、また飲んで話す。これもパターンになっている。
 
 ルポ中の「啖呵売」とは、露天商のことだ。『男はつらいよ』の寅さんと言えば分かりやすいか。路上に品物を並べて、話術で客を引き付けて売る人のこと。今の言葉だとプロショッパーだろうが、プロショッパーとちがい、啖呵売の言葉のイメージにスマートさはない。
 元号が2つ変わると、言葉も通じにくくなる。「啖呵売」は昭和の言葉で、今の一般的な言葉ではない。令和の世では「押し売り」は絶滅し、「香具師」はレッドデータだ。
 
 また、金銭感覚も時代によって変わる。
 この時代の600円というのはかなりいい値段だと思う。毎日集金されるのでは、家賃とたいして変わらないだろう。この本の推薦文を書いた色川武大(阿佐田哲也)さんも名著『怪しい来客簿』の中で、ドヤは世間のイメージとちがってけっこう金がかかると書いている。低額所得者では住めない、と。
 ここはドヤではないが、ドヤ街にある雑魚寝場所なのでドヤと同じようなものだ。けっこう居付いている人たちもしっかり働いていることだろう。この日は日曜なのでさほどでもないが、平日の朝はとてもバタつくのではないだろうか。
 
 次回はこの連載の最終回となる。

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書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。