見出し画像

ふくだりょうこ『これは依存ではなく愛なのです』

隣の部屋からの、子どもの大きな泣き声で目が覚めた。

「やだ! やだー! やあああだあああ!」

ダダをこね、何かを欲している。それに応える母親の声。

「ダメなものはダメなの」

子どもが泣きだしたことに焦ってしまうのは、親ではない人だけらしい。子どもがあんなに大声で泣いているというのに、母親の声は大きいけれど、とても落ち着いたものだった。いや、もしかしたら疲れているだけなのか。
薄い壁のアパートでは隣人たちの生活音は丸聞こえ。子どもが生まれたばかりのときは、母親が泣いている声が聞こえたりもしたけれど、最近では聞こえない。

「あゆみちゃんは今日も元気だね」

隣で寝ていた佑がポソリと言った。

「起きてたの」
「うん。あれだけ泣いていたらねぇ」

隣の家の母親はいつも大きな声で娘の名前を呼ぶ。
「あゆみ、一緒にごはん食べようか」
「あゆみ、一緒にお着換えしようか」
「あゆみ、お歌一緒に歌おうか」

だから、こちらもすっかり名前も覚えてしまった。ママが話しかけているうちに、あゆみちゃんが泣き止む。しばらくするとカラカラと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。幸せそうな声。
あゆみってどういう字を書くのだろう。「歩」「亜由美」。そのままひらがなかもしれない。お隣はあゆみちゃんと、お父さんとお母さんの3人暮らし。うちは……。

「りぃ、スマホ鳴ってるよ」
「ああ……亜衣からだ。今日、一緒にランチをする約束をしていて。そろそろ準備しないと」

画面を確認すると、おびただしい数のメッセージが届いていた。
追いきれないスピードで新着メッセージが届く。

『今日は何着る?』『あたしはワンピースにしようかな』『この前買ったピアス、一緒につけていこうよ』『今日は何時に起きた?』エトセトラエトセトラ。

メッセージは開かず、そのままスマホを枕元に戻す。
ノロノロとベッドから降りようとすると、佑が私の手を掴んだ。

「亜衣さんとあんまり話が合わないって言ってなかった?」
「そうだけど……長く会わないでいると、拗ねるから」
「ご機嫌とらなきゃいけないんだ。大変だね」

ニコニコしている彼は掴んだ手を離してくれない。

「行かないと。待ち合わせに遅刻しちゃう。遅れたらなかなか機嫌が直らないから」
「せっかく、俺も休みなのにな。りぃは俺と一緒にいたくないの?」

耳元で佑の声が響く。里奈という私の名前を彼は「りぃ」と歌うように呼ぶ。

「ねぇ、りぃ。聞いてる? もうすこし、いっしょにいよ」

私を困らせておもしろがっているだけ。それなのに、佑にこんなふうに言われると心が揺らぐ。

「待ち合わせはどこ?」
「渋谷」
「んー、40分ぐらいかかるか」
「そうだね」

だから、シャワーを浴びてメイクをしなければ。佑の手を払おうとしたけれど、さらに力が込められて、動けなくなる。

「あと5分だけ、こうしてよ」

抱きしめ、耳元で囁く。
佑は私を困らせるのが好きなだけだ。知ってる。
5分したら、シャワーを浴びよう。
5分で終わらないことをわかっていながら、私は佑の体をそっと抱きしめ返した。

*****

「絶望してる」

10分遅れで約束の場所に着くと、亜衣が低い声で言った。

ここから先は

1,650字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?