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【全文無料】小野木のあ『凍った心の溶かし方』

今月はゲスト作家として小野木のあさんが登場です。
優花のもとにやってきた妹・彩花。
そんな妹が優花に提案したのは断捨離……!?

「お姉ちゃん、掃除しないの?」
 
 久しぶりに遊びに来た妹は、玄関に入るなりこう言った。
 お姉ちゃん、と呼ばれるのは久しぶりだった。妹に名前を呼び捨てられることにすっかり慣れた今、ふいに呼ばれた「お姉ちゃん」の響きは懐かしくも新鮮に聞こえた。驚いて返事に詰まっている私にかまわず靴を脱ぎ始めた妹は、自分が数年ぶりに「お姉ちゃん」という言葉を発したことには気がついていないようだった。

「こんなに散らかってるの初めて見た。お邪魔しまーす」

 明るい調子の声にはっとして、慌ててスリッパを差し出す。妹には少し大きい、濃いブルーのスリッパ。

「ごめんね。最近ちょっと余裕がなくて、部屋が全然片付かないんだ」
「いいよ、気にしないで。あ、この前話したお店のコーヒー豆買ってきたよ。あと、駅前にあるフランス菓子のお店のタルトも買ってきた」
「ほんと? あのお店大好き」
「やっぱり。優花が好きそうだなーと思ったんだよね。はやく食べよ!」
 
 あ、「お姉ちゃん」じゃなくなっちゃった。
 ほんの少し残念な気持ちになりながら、タルトの袋を覗き込む。艶々のコーティングできらめく真っ赤な苺のタルト。

「わぁ、綺麗」
「ほかにも色々あって迷ったんだけど、やっぱ苺かなーと思って。これ、どこに置けばいい?」
「ええと、とりあえずテーブルに」

 言いながら顔を上げると、困ったような表情と目が合った。視線の先にあるのは、秩序なく積み上げられた物で埋まったテーブル。

「ごめん、今片付ける」
「手伝えることある?」
「ありがとう、大丈夫。あ、ハンドソープは洗面にあるから使って」
「じゃあ手洗ってくるね。その前にトイレ借りていい?」
「どうぞどうぞ」

 妹がトイレに入るのを見届けてから、物置きと化したテーブルに対峙する。とにかく食器を並べるスペースを作らなければと思い、折り重なりながら散乱している物を上から順に抱えていった。
 レシピ本、小説の単行本、雑誌、まとめて捨てようと思っていたチラシ、鍋敷き、コンビニのビニール袋、レシート、丸めたエプロン、エコバッグ、一つだけ取り出してあるスポンジ5個セットの袋、ボールペン、鋏。
 手あたり次第に居室へ運び、しかし居室にも置き場はないので仕方なくベッドの上に放り投げる。
 見当たらないと思っていたマグカップ、詰め替え用の洗剤パック、未開封の化粧品、そして最後に、不格好な文字で私の名前が書かれた濃いブルーの封筒。感情が揺れそうになるのを抑えて、全てをベッドに投げ置く。
 ようやく天板が見えるようになったテーブルを除菌シートで拭いているところへ、妹が戻ってきた。

「あ、綺麗になってる」
「うん、とりあえず隠した。ね、コーヒー淹れるから手伝って」
「はーい」

 妹が買ってきてくれたコーヒー豆をハンドミルに入れて、よろしく、と手渡す。豆を挽く音で会話が出来ない間にお湯を沸かす。最後に使ったのがいつなのか思い出せないコーヒーカップを洗い、湯を注ぎ温める。
 コーヒーフィルターを準備しながら、豆を挽いてコーヒーを淹れるのも久しぶり、なにもかも久しぶり、と呟く。ミルの立てる音に紛れた私の声は、妹の耳には届かない。


 二歳下の彩花とは昔から仲の良い姉妹だった。社会人になってからはなかなか休みが合わなくなってしまったけれど、頻繁に連絡を取り合う仲は続いている。普段は外で会うことの方が多いから、妹が私の部屋に来るのは数ヶ月ぶりだった。


「彩花、最近どう? 仕事は相変わらず?」

 艶々の苺にフォークを立てながら妹に話しかける。コーヒーの香りに包まれたキッチンは、先ほどまでの殺伐とした空間と同じ場所とは思えないほど穏やかな空気が流れていた。

「うん、相変わらずだよ。リモートワークが増えたせいで、家でずっと仕事してるけど」
「え、大変だね」
「会社に行かなくていいのは楽だけどね。優花は最近どう? なんか痩せたっていうか、やつれてない?」
「そうかな? 仕事はまぁ大変だけど、いつも通りだよ」
「そっか。彼氏とは? やっぱコロナであんまり会えなかったりする?」
「会えないっていうか……別れた」
「えっ」

 絶句した妹の表情を見て、居たたまれない気持ちになる。一口分減ったタルトに視線を移すと、苺の赤がやけに目に染みた。沈黙の中、味の分からないそれを機械的に口に運ぶ。

「別れたって、いつ?」
「二ヶ月前かな」
「早く言ってよ! 私、二人は結婚すると思ってた。どうして別れたの?」
「ごめん、なんか言い辛くて。……ほかに好きな人ができたんだって。あっさりふられちゃった」
「なにそれ。優花はそれでいいの?」
「仕方ないよ。もう好きじゃないって言われたらどうしようもないもん」
「信じられない。五年も付き合ってそんな……優花、大丈夫? 部屋が荒れてたのってそのせいだよね?」

 図星だったけれど、妹が想像していることとはたぶん少し違っている。とはいえ恋人と別れた一連の出来事が、荒れた部屋の原因であることは確かだった。とくにあの手紙が届いてからは無気力に近い状態になり、生活のすべてが億劫になっている。
 しかし、それらのことを妹に説明するつもりはなかった。

「そうかも。別れたあとからちょっと、疲れちゃって」
「優花、元気ないし、なんか変だと思ったんだよ。ねぇ、ちゃんと食べてる?」
「大丈夫だよ。確かに落ち込んだけど、でももう平気」
「本当に? ちゃんと話し合ったの?」
「向こうの説明を聞いて、謝罪された。それで終わり」
「一方的に? 優花、怒らなかったの?」
「うん、なんか言葉が出てこなくなっちゃって。……情けないね」
「突然言われたんでしょ? ショック受けて当然だよ。ほんとに信じられない」

 怒りの表情を浮かべる妹に、私はどこかほっとしていた。私の代わりに怒ってくれる妹に愛おしさを感じるのと同時に、あの時の私は感情が凍ってしまうほど傷ついていたのだということを今更ながら理解した。
私は恋人と別れてから今日まで、一度も泣いていなかった。


「優花、断捨離しよう」

 憤りの表情を浮かべたまま黙々とタルトを口に運んでいた妹が、立ち上がって宣言した。

「え、断捨離? 今から?」
「そう、今から。私も手伝うから、掃除しながら断捨離しよう。ゴミ袋ある? 大きいやつ」
 
 妹の勢いに流されて、言われるままにゴミ袋を渡す。

「よし、じゃあ部屋入るよ」
「えっ、ちょっと待って、今本当に散らかってるから」

 私が言い終わるよりも早く、妹が部屋の扉を開けた。

「おー、確かに散らかってるね」
「だから言ったじゃん……いくら彩花でも見せたくなかったのに」
「大丈夫だよ。今の優花が普通の状態じゃないのは見れば分かるし。よし、じゃあ手前からいこうか。私が袋に入れていくから、優花は要るか要らないか答えて」

 そう言うと、妹は床に散らばっているものを拾い上げては私に要不要の判断を迫った。妙に慣れた口調で説明する妹に従い、生活や趣味に必要なものと癒しや休息に必要なものは残し、それ以外はすべて「要らないもの」に選別されていった。
 判断に迷うもののために保留の袋が追加され、「要らない」の袋はどんどん増えていく。

 床面のものが片付くと、次は壁一面に並んだ本棚の選別が始まった。

「本はたくさんあるし、ざっとでいいけど、雑貨とか趣味の物は要・不要で選別してね」
「ねぇ彩花、なんでそんなに手際がいいの? 慣れ過ぎじゃない?」
「あれ、言ったことなかったっけ。私、ミニマリストを目指してたことがあるんだ。だからそういう本とか動画とか見て勉強してたの。今はそこまでこだわってないけどね」
「ミニマリストってなに?」
「えーとね、簡単に言うと、あまり物を持たずに生活してる人のこと。必要最小限のものだけで豊かに暮らしましょう、みたいな考え方の人のことかな」
「へぇ、知らなかった」
「まぁミニマリストまでいかなくても、要らないものを捨てて部屋が片付けばすっきりすることもあると思うんだよね。てことで優花、続けるよ」

 てきぱきと作業を続ける横顔を眺めて、彩花にも色々あるんだろうな、と考える。昔からしっかり者の妹だったけれど、今目の前にいる彩花は普段よりもずっと大人びて見えた。

 本棚の中身の選別が終わり、作業は棚上のものに移った。
元恋人の好みに合わせて揃えていたアクセサリー類は「要らない」、元恋人からプレゼントされた物も全て「要らない」。
 元恋人に関するものを「要らないもの」に分類するたびに、少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。


 気が付くと、私は妹の質問を待たずに要らないものを選び始めていた。
 元恋人が気に入って使っていたクッション、マグカップ、ペアグラス、元恋人の為に常備してあった調味料、食器、箸、タオル、部屋着、歯ブラシのストック。デートでよく着ていたワンピース、可愛いと褒められたスカート、ブラウス、帽子、パンプス、マニキュア。気に入ってわざわざプリントした二人の写真、記念日やイベントのたびに贈られたメッセージカード。
 思いつく限り全てのものを「要らない」の袋に詰め込み、最後にベッドの上に投げ置かれていた封筒を手に取る。床に座り込んで溢れそうになる感情と戦っていると、妹が背後から覗き込んでくるのが気配で分かった。


「本当はね、別れたいって言われる前から、私たちはうまくいかないって分かってたんだ。付き合いが長くなるほど、あの人は私の気持ちを過信して、だんだん油断するようになった。私になら何を言っても大丈夫だと思っているのが透けて見えるようになって、そのうちに隠そうともしなくなった。嫌な思いをすることが増えたけど、一緒にいたかったから我慢してた。五年っていう期間が無駄になるのが怖かったのもあると思う」

 いつの間にか並んで座っていた妹は、私の話を静かに聞いてくれていた。肩に感じる体温に、浅くなりかけた呼吸が落ち着いていく。

「別れ話を切り出された時はショックだった。この人にとって私は『もう好きじゃない』の一言で終わりにできる存在なんだと思ったら、言葉が出てこなくなって、ただ頷いた。それで本当に終わり。馬鹿らしくて涙も出なかったし、うまくいかないことは分かっていたから、これで良かったんだと思った。早く忘れようって。でも、そのあと、これが届いて」

 手の中の封筒を握りしめると、不格好な文字が潰れて私の名前は見えなくなった。急激に視界がぼやけて、濃いブルーの封筒に雫が落ちていく。

「この手紙にね、優花を捨てることになってごめん、って書いてあるの。あの人、私を捨てたんだって。捨てるってなに? 私は物じゃないのに。私があの人の物だなんて、ありえない」

 とめどなく落ちる雫が封筒を黒く染めていく。怒りのあまり震える唇から言葉がこぼれていくのを止められない。

「捨てることになって申し訳ない、今までありがとう、っていう文章のあとに、新しく好きになった人のことが延々書いてあるの。信じられる? こんなに素敵な人が現れたから仕方ないんだ、辛いだろうけど俺のことは諦めてくれ、って言いたいとしか思えない手紙なの。私、こんな奴のことが好きだったんだ、五年間も、と思ったら吐き気がした。あいつのことを思い出すたびに過去の自分を殺したくなる。五年だよ? 落ち込むのを通り越して無気力になった。一緒に住んでたわけでもないのに部屋にはあいつの痕跡が散らばってるし、でも片付ける気力も出なくて」
 
 話しているうちに、涙は止まっていた。顔を上げると、泣きそうな表情でこちらの様子を伺っている妹と目が合う。

「だから、今日は本当にありがとう。彩花のおかげで助かった」

 言い終えて笑いかけた瞬間に抱きついてきた妹を受け止めきれずに、二人で床に倒れ込んだ。顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出す。一度笑い出したら止まらなくなり、二人で寝ころんだまま笑い続けた。

「こんなに笑ったの久しぶり。あいつと別れてから初めて泣いたし、笑った」
「私も、声出して笑ったの久しぶりかも」
「あーあ、ほんと馬鹿みたい」
「その手紙はやばいね」
「ありえないよね」
「優花って意外と見る目ないよね」
「うわ、否定できない」

 心地良いテンポの会話に、もう一度顔を見合わせて笑う。

「良かった。やっといつもの優花になった」
「うん、なんか今、憑き物が落ちた感じがする」
「怒って泣いて笑ったからね」
「すっきりした。彩花、ほんとにありがとう」
「どういたしまして。あ、ねぇ、もしかしてなんだけど、このスリッパも捨てる?」
「あ、忘れてた。それも捨てる」

 やっぱりね、と言いながら「要らない」の袋にスリッパを入れた妹のあとに続いて、しわくちゃになった封筒を放り込む。本当に憑き物が落ちたように心が軽くなって、なんだか視界まで明るくなったような気がした。


「ねぇ彩花、さっきのタルトもう一回買いに行こうよ」
「ええ? また同じの食べるの?」
「うん。最近、食べ物の味が分かってなかったから、さっきも味してなかったんだ」
「なにそれ、やばいじゃん。いいよ、買いに行こう」
「やった」
「あ、でも私はついて行くだけだからね」
「なんでよ、彩花ももう一個食べればいいのに」
「一日二個はまずいでしょ」
「いいじゃん、一緒に丸くなろうよ」

 じゃれ合いながら外に出ると、綺麗な夕焼けの空が広がっていた。
 空を綺麗だと思うのも、久しぶり。呟いて少し笑った。「急ごう!」叫んで駆け出すと、「お姉ちゃん待って」という慌てた声が聞こえてきて、今度は思い切り笑った。
 振り返って、夕焼け色に染まった妹がこちらに駆けてくる姿に目を細める。
 今見ているこの景色を、私はこの先何度も思い出すのだろう。そんなことを考えて、胸の中が温かくなるのを感じた。日常が戻ってきたことを知らせる温かさだった。

 追いついて来た妹と並んで、笑いながら、私たちは夕暮れに向かう道を歩き出した。

(了)

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