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#2「28歳の大学生」からのスタート

10年遅れて入った大学が、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(通称SFC)だった


SFCに入る直前まで、私は、高卒のアフリカ帰りだった。

青年海外協力隊(現 海外協力隊)として、21歳でジンバブエに赴任。その後、ケニア、マラウイと3カ国で活動をしていた。

2006年、赴任していたマラウイから帰国して間もなく、実家のある浜松市からSFCまで3時間ほど車を走らせ、AO入試の願書を取りに行った。

わざわざ車で取りに行かなければならないほどに、出願までに残された時間は少なかったけれど、その数か月後に、すでに還暦を過ぎた両親は、突然「慶應生の子を持つ親」になった。
高校を卒業してからちょうど10年が経っていた。

生れてはじめて「勉強の楽しみ」を知る

入学後、10も年が離れた同級生とは、どう接していいかわからず馴染めなかった。大学生らしいこと、例えば、サークル、学食、そしてSFCで言う「残留」(陸の孤島と言われる藤沢市遠藤にある、養豚場の香りのただようキャンパスに残って夜通し課題をこなすこと)とら一切無縁で、なるべく「グルワ」(グループワークのこと。グルワだなんていかにもSFCっぽい言い方だけど)のない授業をとって、そつなく過ごしていた。

そんな中で、唯一、自分の居場所となったのが、山本研(山本純一先生研究室)だった。そこでは、自分でテーマを設定し、黙々と研究をすればよかった点で「大人向け」だった。

私は、3カ国目のマラウイでの活動で携わっていた「一村一品運動」を探求すべく、SFCの奨学金をむさぼり、在学中も長期休みを利用して、ケニアやマラウイ、大分県(「一村一品運動」発祥の地)へフィールドワークに出掛けた。

SFCにあるメディアセンター(図書館の機能を持つ)で本を選びながら、「私は勉強が好きだったんだ」と生まれてはじめて知ったのもこの頃だった。

SFCが導いた起業への道


卒業した年の2011年10月20日、株式会社豆乃木を創業した。
SFCに入っていなかったら、今ごろ、何をしていただろう。やっぱり同じように起業はしていたと思うけれど、こんなに早い段階から、たくさんの人の力に恵まれることはなかっただろう。

そもそも、株式会社豆乃木の主な事業内容が、大学時代から関わっている山本純一研究室フェアトレードプロジェクト(通称FTP)が支援対象としてきたメキシコ・チアパス州『マヤビニック生産者協同組合』のコーヒーの輸入及び販売促進なのだから。
実際に、創業当時は、まだ自社で輸入をする体力(財力含む)も販路もなく、その後、数年の時を経て、自社名義で1コンテナのフェアトレード(輸入)を実現できたときは、会社として、ようやく一人前になった気がした。

起業時に思い描いた未来

2011年時点でもすでに、さまざまな産地のおいしいコーヒーを、気軽に飲めるような社会になった。
しかし、いわゆる「スペシャルティコーヒー至上主義」が、品質のみにフォーカスする余り、コーヒーの愉しみ方、そしてコーヒーを通して見える世界を狭くしているのではないか、とも私は思っていた。

では創業間もない当社に、何ができるのか。

その答えは、とてもシンプルだけど、「お客さまと作り手をつなぐこと」に尽きる。よく「顔が見える」というコピーで、生産者の顔ばかりを見せようとするけれど、もうひとつ肝心なことは、作り手にお客さまの顔が見えることだ。お客さまの顔がわかることや、お客さまから喜びの声を直接受け取ることで、生産者は、さらに気持ちを込めて栽培に専念できる。

「だからこそうまい」

というコーヒーを、少しずつ世の中に提供していけたら、どんなに嬉しいことか。
その関係性が世界中に広がった先に、どのような未来が待っているのか。当時の私には、まったく見えなったけれど、そこに希望があると信じて、毎日を、突っ走っていた。

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