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私が歯医者を辞めたい理由⑥

 提示した請求額を確認した弁護士は、テーブルに身を乗り出して私を鋭く見据えた。
「スギウラさんのお気持ちはわかりました。まず、支払い能力のある父親と示談交渉に臨みます。しかし、交渉が不調に終わった場合───つまり相手が賠償に応じない場合は民事訴訟も辞さない、そのお覚悟はございますか?」
 私は胸を張って決然と言った。
「もちろんです。そのつもりで先生にこうしてお願いしているのですから」
 弁護士はなおも厳しい表情を崩さない。
「場合によっては、長期間の裁判になるかもしれませんし、仮に敗訴にでもなった場合は賠償金はもらえないばかりか、その期間の弁護費用もスギウラさんの負担になります。その点は大丈夫ですか?」
 結果は、どうでもよかったのかもしれない。弁護士の懸念なんて、考えてもみなかった。しかし私は微笑を浮かべたまま、
「先生、これは歯科医師としてのプライドを懸けた戦いでもあるのです。一歩も退くつもりはありません」
 咄嗟に出た言葉に自分でも驚いていた。それはまさに、御礼参りを恐れるあまり民事訴訟に踏み切れないでいる意気地の無さに決別するための踏み絵でもあったのだと思う。

 前回のエピソードはこちらから。

 あたりまえだが、事件のことは忘れたいと思っていたし、身近な先生たちからも「早く忘れろ」と言われるが、それができたら苦労はない。
 飲食や趣味に没頭する、運動で汗を流す、瞑想にふける───嫌な事象からの逃避には様々な対処法があるだろうが、事件後の1年間、何を試しても心に負った傷は癒えることはなかった。そしてなにより、歯科医として築き上げてきたプライドは根元から斬り倒されたままだった。
 事件と向き合うのは心底堪える。だから顔をそむけ弁護士へ丸投げしたわけだが、それは私にとって大きな転機になった。
 少なくとも事件のことにはなんとか蓋をすることができた気がする。そして、弁護士事務所を訪れた犯人の両親は、私への謝罪の言葉を弁護士に伝言するとともに、要求した満額を支払ったのだった。
 なお、事件から5年以上を経た現在、懸念した御礼参りは発生していない。 

アナリシス

 これまで5回にわたって綴ってきた事件の顛末だが、多くの気づきもあった。
 ここまでお読みいただいた皆さんのためにも、私が得たものの何分の一かでもお伝えしたいと思う。

モンスターペイシェントとは何者なのか

 社会構造が複雑化し、経済が低迷を続ける日本では、間違いなく富める者と貧する者、モテと非モテの二極分化が進んできた。前者には経済的、精神的に余裕があり、後者は実態以上の差別を受けかねない。これを端的に表現した言葉を紹介する。

 貧すれば鈍する
 顔の良いのは七難隠す

 
まずは前者。
 
経済的な困窮で日々の食い扶持の事だけで頭がいっぱいになり、マトモな思考ができなくなる困窮とまではいかなくとも、所得が低い者は富める者を羨み、時には妬みに発展する場合もあるだろう。こんな感情の行き着き先からは、社会への不満から転じた攻撃性が生まれかねない。そこまでではなくとも、クレーマーには同種の背景があるのではなかろうか。自動車業界で言われる『軽自動車の客は、フェラーリの客よりうるさい』という格言めいたジンクスがそれだ。
 加えて思うのは容姿による差別の現実。
 この世はとかく見た目が第一だ。ほとんどの企業は否定するが、就職戦線では顔採用が横行し、社会に出てからは〝顔待遇〟で嫌な経験をした人も少なくないのではなかろうか。とにかく美人、イケメンは有利であり、生涯年収においてさえ如実に反映される。
 経済的に困窮し、非モテの人が一度挫折を味わったなら、滑り台社会の日本では這い上がることはまず不可能だ。そして年齢を重ねるたびに次第に誰からも相手にされなくり、孤独の檻に閉じこもってしまう。そのような者が、この国には百万人以上は確実に存在する。なかでも中高年ニートといわれる集団は、今後の我が国ではかなりの重荷になるに違いない。
 京アニに火を放った青葉被告、秋葉原に突撃した加藤死刑囚、ヤフーチャット万歳で物議を醸した柏市連続通り魔殺人の竹井受刑者はこの典型なのだが、胸くそ悪くなるので詳細は書かない。詳しくお知りになりたければウィキペディア等へ飛んでいただきたい。
 とにかく小人閑居して不全を成すという現象は既成観念なのだ。社会が見捨てた彼ら小人の受け皿としての社会保障を担わされるのならば、わたしは御免被りたい。
 下記リンクは、秋田県藤里町における衝撃的な調査報告である。かの地は、二人の幼児が殺害された悲しくも凄惨な事件の舞台となった過疎の町だが、地方の衰退と無関係ではない気がする。

 当診療所へもヒッキーはやって来るが、社会から隔絶されたまま歳をとったら、確実にモンスターペイシェント化するだろう者も少なくない。いや、ほとんどがそんな印象だ。
 つまりモンスターペイシェントとは、社会から隔絶され、社会性が育まれることなく孤独に暮らしている存在と言えなくはないだろうか。軽度ならば地域コミュニティから〝鼻摘み者〟扱いされ、ひどければ精神を病んだり、ナマポに陥る者もいるだろう。そして己の不遇な境遇を社会のせいにして、激しい憎悪をたぎらせているかもしれない。その捌け口に選ばれるのは真っ平御免である。

 以上は私の推論だが、高齢者のモンペには当てはまらないように思うかもしれない。しかし、それなりの役職にあった者が、定年と同時にいきなり会社や組織から不要とされ、家庭では粗大ゴミ扱いされるのは、孤独の檻に入れられたのと大差はないのではなかろか。これは本人にとって、凄まじいフラストレーションに苛まれるのは想像に難くない。部下を顎でこき使い、パワハラ紛いの言動を繰り返してきた者が、ある日を境に立場を失うのだから。わかりやすい例を挙げるならば、ドラマやコミックでおなじみの『GTO』に登場する、内山田ひろし教頭の成れの果てだろうか。
 以上のような格差の底で喘ぐ者が多くいる現実を口にするのは、長らくタブーとされてきたが、マネー敗戦が濃厚な昨今にあってはもはや隠しようがない事実だ。詳しく知りたい方は、下記の書籍を参考にされるとよい。

モンスターペイシェントへの対策

 この問題はなにも歯科に限ったことではない。ある程度以上の規模を持つ中核病院には制服姿の警備員が目を光らせているのは普通に見られる光景だし、顔面威圧係と自嘲する警察OBが常駐していたりもする。こんなこと、かつてはなかった。それだけ社会が疲弊し、人心が荒廃しているということなのだ。特に不可逆的処置を伴う診療科にあっては、モンペ対策は必須だと考える。以下に事件後、当診療所がとった対策と考え方を述べてみる。
 ご意見、アドバイスがある方は忌憚なくコメント欄でご教授ねがいたい。

予防安全

立地と地域性

 わたしが開業時に参考にしたノウハウ本には、開業地の選定にあたっては人口動態やライバルの存在の他に「やりがい」を挙げていた。いわゆるデンタルIQがそれだ。近隣の先生のなかに、東京で勤務した後に当地で開業した方が二人おられるが、彼らが口にするのが「当地の患者層が嫌」だ。もちろん自費率もあるだろうが、デンタルIQの方が嫌悪感の大半を占めていると確信する。
 ならば大都市圏で開業すればモンペとの遭遇を回避できるのか?
 答えはイエスでありノーでもある。
 たしかに、富裕層が多く暮らす中心街の方がモンペに遭遇する確率を減らせるだろう。なにせ金持ち喧嘩せずなのだから。
 だが思い出してほしい。このシリーズの冒頭あたりで、私は繁華街の先生へ、自費を希望するモンペを丸投げした。事件後、犯人に飛び込まれた先生から直接話を聴けたのだが、彼は断固、診察を拒否したのだった。それが気に食わない犯人は、受付で大暴れして警察沙汰になった。
 つまり、どんな場所で開業しても、モンペに遭遇する確率をゼロにはできない。

民間の警備会社

 アルソックやセコムと契約している先生も多いだろう。たしかに侵入盗や外溝設備へのいたずらは、ある程度なら防げるかもしれない。火災───あってはならないが放火に対してもセンサーが感知し、直ちに警備員が駆けつける。しかし、当診療も警備会社と契約していたが、犯人が逮捕され脅威が減ってからは契約を見直すことになった。

このシールだけで予防効果はあるだろうが、それは診療所が無人の時に限られる

 警備員は暴漢に対する訓練を受けているとは言え、丸腰だと思っていい。付け加えるならば、深刻な犯罪が疑われる場合は、警備員は必ず警察官を伴ってやってくる。つまり、警備会社は夜間や休診日の侵入者と火災に対しては有益であるが、人員への直接的な危害に対しての有効性は薄い。

監視カメラとセンサーライト

 事件後、まず最初に取り組んだのが監視カメラの設置だった。前述の警備会社にも、監視カメラのサービスが存在したが、如何せんかなり高額であった。いつ来るとも知れない不審者への備えに高額な料金を支払うのは躊躇われた。
 賠償金を手にした私は、それを元手にヨドバシカメラのセキュリティコーナーを訪れたが、高精細な画素と録画・通報システムを備えた機種にともなれば、工事費を含めて30万円以上の見積もりであった。
 そこで目につけたのが、ホームセンターで売られていた数万円の監視カメラだった。Wi-Fi接続で配線工事は不要。録画はモニター内蔵のSDカードへ。夜間は赤外線を投射して録画。わたしの感触では、これで充分な性能だと思えた。しかもランニングコストはわずかな電気代だけ。
 ただ、リアタイでの通知機能が無いのが不安だった。たしかに映像は記録されるが、それは事後のこと。現場を押さえることはできない。そんな矢先、Googleのプロモーションで、Googleネストカムの存在を知った。電池駆動、Wi-Fi接続で電源、配線とも工事不要で、なによりありがたかったのが、異常を検知するとスマートフォンに通知が来ることだ。

作動中のGoogleネストカム。マグネットベースを取り付けてしまえば、設置場所、画角は自在に動かせる。

 ただしデータの保存にはサズフク料金が必要だが、月額¥1,000弱ならば、と目をつぶった(もっと高機能なプランもある)。ここでアフィリエイトで儲けようなどというケチな考えは無いので、リンクは貼らない。興味ある方はGoogleストアで検索されたい。Googleの他にも、良さそうなシステムは存在するだろうしネ。 

ネストカムからスマートフォンに届く画像。ライブ映像も記録映像も随時呼び出せる。

 結果的に、4台のカメラで診療所の全周を監視しているわけだが、設置して5年を経た現在、防犯に役立った事例は一件だけ(次回に詳述する)。他には以前、玄関前に植えていたミニトマトやイチゴが盗み食いされることはあったが、それも無くなった。4台もの監視カメラの存在は、悪意ある者にとっては侵入やいたずらを躊躇わせるに充分なのだろう。しかし、私がもっとも防犯効果があったと確信しているのはセンサーライトである。

2台の監視カメラとセンサーライト

 犯人は襲撃に至る前に、当診療所の草花にいたずらをしていたと考えられる。それがピタリとやんだのは、図らずもセンサーライトを設置した時期に一致する。
 朝刊を届けにきた新聞配達人がある時、駐車場の車止めにつまずいて怪我をするということがあった。私がたまたま未明の技工に来ていたから気づいたのだが、スタッフのためにも新聞屋さんのためにもセンサーライトを設置したわけだが、設置してすぐに、駐車場の向かいに住むご近所さんから、丑三つ時にライトが点灯し不審な者がうろついている、という目撃情報を得た。その時はさほど気にも留めなかったのだが、今にして思えばそれが犯人だったのだろうと確信している。
 センサーライトにしろ監視カメラにしろ、不審者にとって正体があらわになるのが最も嫌なことなのだ。踏みつけると盛大に音がする防犯ジャリも、「お前を見ているぞ、聞こえているぞ」と威嚇するのが良い。
 核兵器や軍事偵察衛星が何故この世から無くならないのか───それは、やったらやられる、と相手に思わせる威嚇を目的に存在するからだ。だから互いに核を持つロシアとアメリカはウクライナで直接戦ったりはしない。平和のための威嚇は、国家だけでなく個人の事業所にも必要なのだ。

不審電話への対処

 以前に述べたとおり、花壇の草花への被害と入れ替わりに無言電話がかかってくるようになった。で、わたしは着信拒否ではなく、特定の番号をファックスへ自動転送するように設定したのだった。着信拒否をした場合、相手が逆上してさらなる暴挙にでる可能性を考えてのことだ。
 桶川、三鷹、吉祥寺でのストーカー事件では、犯人が着拒されたことに逆上して凶行に及んでいる。これも胸くそが悪くなるからリンクを貼らない。詳細をお知りになりたければ、上記の地名に続いて〝ストーカー事件〟と入力して検索されたい。
 自動転送のやり方は下記のボイスワープセレクト機能を使用している。休診日などに自宅やスマホへも転送可能だから、活用の場面は防犯にとどまらないはずである。

 それでも不審な電話は犯人からだとは限らない。女性スタッフの声を聞きながら自慰行為にふける不届き者も珍しくはない。現に診療室の電話をとる機会の少ない私でさえ、マスターベーションの最中と思われる通話を2本受け取っている。つくづく他人の性的趣向は様々だと思う。
 また、迷惑電話に限らず、受話器を取りたくない時もあろう。例えば、あと数人でお盆休みだとか、終業間際の電話だとか。コールが鳴れば受話器を取ってしまうのが人情。その多くが飛び込みや不要不急の診察依頼だったりする。だから無視を決め込むのが良いのだろうが、もしもその電話が、かかりつけの気のいい患者さんからだったら───と思うと無視するのも良心が痛む。
そんな場合にお勧めしたいのが、秘密のホットラインを懇意にしている患者にだけ教えておくこと。もちろん診察券やHPには記載しない。おかげで、かなりストレスが減ったのは確かだ。

消毒室に設置された2台の子機。片方は〝上客専用〟である。この他にファックス専用回線もあるがNTTが提供しているオプション『iナンバー』なら工事不要で電話番号を増やせる

 長くなった。
 書き始めるまでは、ソフトキル(予防)に続いてハードキル(攻撃)も書くつもりだったが、回をあらためたいと思う。
 次回はハードキルに加えて、患者の峻別も書いてみよう。飛び込み初診を受け入れないなどはモンペ対策の初歩の初歩、基本中の基本である。ハードキルとソフトキルは表裏一体なのだ。

つづく

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