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私が歯医者を辞めたい理由④

 花壇へのいたずら、無言電話、脅迫状……その他、認知していない嫌がらせがあったのかもしれないが、それで飽き足らないモンスターペィシェントはついに、私の前に姿を現し刑事犯罪人となった。
 無言電話への対策を講じられてから、嫌がらせの手段が脅迫状から実力行使へとエスカレートしたのも、何が何でも意地悪をしてやるという自制心のリミッターが壊れていたからなのだろうと思う。もはや身バレすることも厭わずに。
 前回のエピソードはこちら。

 今回から、野郎のことを犯人と呼称することにする。その方がしっくりくる段階なのだ。
 犯人が休診中の私を急襲した目的は、恫喝するためだったと思う。あのハゲ散らかした髪と三白眼、暴言をもってすればビビらない人はいないのではなかろうか。犯人は自分の見た目にある種の自信があったのかもしれない。誤算だったのは、私には犯人が繰り返し行ってきた加害行為のおかげで恐怖心を上塗りする怒りが満ちていたことだ。
 繰り返し申し上げるが、モンスターペィシェントに限らず、所謂カスタマーハラスメントを引き起こす輩は、こちらが反撃して来ないと高をくくっているフシがある。だから、私が何ら臆することなく立ち向かっていったのは犯人にとって想定外であったと思われる。そのおかげか、揉み合いながらも犯人を乗ってきたクルマに押し込め退散させることに成功したわけだ。

 犯人が退散しても、収まらないのは私の怒り。弁護士はとりあってくれなかったが、れっきとした威力業務妨害にあたるはず。それが原因で不安神経症に陥れば───実際、鬱々として過ごして仕事の能率が落ちたわけだから、傷害罪にも問える可能性がある、そう考えて110番をダイヤルしたわけだが、現場でパトカーの到着を待つように指示されてからの時間経過がナメクジが這う如く遅い。
 診療所前を行き交う車列にばかり気を取られていた。
 わたしは完全に油断していたのだ。

北斗の拳に恨みはないが

 往来にばかり気を取られていて、駐車場にクルマが停まったことに気づかなかった。背後からドアが閉まる音が聞こえるまでは。

完全に不意を突かれた

 すぐ背後に犯人が立っていた。あの三白眼を血走らせて。
 撃退に成功したものとばかり思い込んでいたせいもあるが、距離的にもタイミング的にも完全に不意を突かれた。
「お前は、この世に存在してはいけない歯医者だーっ! 食らえ、オアタタタタタタタター、オワッターッ!!」
 防御できないまま、犯人が繰り出した拳の連打を浴びる。最初の一発はモロに顎に入った。眼鏡が飛ぶ。
 反撃できなかったのではない。しなかったのだ。後述するが、これには、ある目算があってのことだった。あんな修羅場で、しかも瞬時に思いついた自分を褒めてやりたい。
 犯人のパンチ力は大した事はなかったが、それでも手数を食らってしまえば怪我は重くなる。なんとか両手をクロスさせて顔面を防御するが、ガードが上がって無防備になった腹に蹴りを食らい、尻餅をつかされてしまった。
 ぼやけた視界のなかで、犯人は拳を突き出したまま私を睥睨して高らかに言った。
「北斗、百裂拳!」
 ヒデブッ!  アベシッ! とでも叫べば良かったのだろうか。幸い、ラオウ軍のザコキャラの如くに身体が無残に四散することはなかった。わたしは血の味がする唾液を飲み込みながら、犯人がきちんとシートベルトをして、左右を確認して去っていく一部始終を見送るしかなかった。
 パトカーが到着したのは、その僅か数分後のことであった。

 やって来たのは交番詰めの巡査が二人と捜査課の刑事がひとり。診療所の周囲には現場保存のための規制線がめぐらされ、ご近所から野次馬が集まってくる。
 地面に座り込んでいた私を助け起こしたのは刑事だった。私の身体を気遣う言葉のあとに差し出された名刺に視線を落として、わたしは愕然とした。
『□□警察署 捜査課刑事  〇〇賢四郎』
 空目かと思ったが、何度読んでも、どう読んでもケンシロウ──とんでもない偶然だが、以来、テレビやネットで北斗の拳のコンテンツを目にする度に、事件のことが詳細にフラッシュバックして私を苦しめるようになったのは言うまでもない。

事情聴取

 現場での聴取は、事件の再現が主だった。若い巡査を犯人役にして、アイツの襲撃を受けてから去るまでの一部始終を演じるのは心身ともに堪える作業だった。とりわけ北斗の拳のくだりまで再現するのは苦痛であったが、傍から見たらさぞや滑稽に見えただろう。事実、この話を知り合いに打ち明けると、さも気の毒そうな表情で頷きながらも、その口元にかすかな笑みが浮かぶ。他人の不幸は蜜の味というが、これを読んでいるあなたも、失笑したのではないだろうか?
 冗談じゃねぇぜ、まったく……
 さらに言うならば、このエントリを読んでいるのは歯科業界関係者だけではない。業界外の読者は、このシリーズを「面白い」と評するが、歯科医療人ならば、トラウマ級のエピソードであると確信する。
 世の中、そんなものである。

 現場での聴取を受けている最中に、刑事が身につけている警察無線から声が流れてくる。
『県警〇〇より各局 犯人確保。現場、〇〇市〇〇町 マル対の自宅アパートへ帰宅したところを身柄確保 当局がPS(本署)へ連行する』
 私は耳を疑った。
 自宅アパート?───
 犯人は、両親の邸宅で同居しているはずではなかったか? しかも、警察に伝えたカルテ記載の住所でもない。
 気になることはもうひとつあった。
 アパートへ帰宅したところ──
 つまり、逮捕した警官は、犯人の自宅で待ち構えていたということになる。わたしには事情が飲み込めなくなっていた。
 しかし、その疑問への回答は、ほどなくしてケンシロウ刑事の口から語られた。
「被害に遇われたことはお気の毒ですが、あの男は以前からマークしていた人物。スギウラさんのこの一件のおかげで、ようやく逮捕することができました。ありがとうございます」
 まさか礼を言われるとは思ってもみなかった私は、混乱した頭で理解するのに少し時間を要した。
「つまり、わたしが被った事件は、別件ということですか?」
「申し訳ないですが、そうなります」刑事は苦々しさが混じる笑顔で、「市内のある人から、脅迫で被害届がだされていたのです」
 と続けた。
「あいつ、脅迫していたんでしょ? だったら、さっさと逮捕すりゃよかったじゃないですか。それなら私だってひどい目に遇わなくて済んだかもしれないのに」
 刑事はやや伏目がちに言った。
「逮捕するかどうかの判断は、一概には言えないのですよ。いろいろ事情がありまして」
 刑事の言葉尻から、私はある予感をくみ取っていた。
 脅迫状を読んでもらった弁護士は、
〝この程度の内容で訴えても、犯人を刺激するだけで得るものはない(意訳)〟
と言った、その意味が今ようやく理解できた。
 一通目の脅迫状に書かれていたのは〝糞歯医者 死ね ばーか〟という汚らしい悪罵だが、『殺す』、『放火してやる』のような具体的に危害を加える文言はない。2通目もそうだった。つまり、明らかな犯罪性が立証できないと、警察もなかなか動きにくいのだろう。
 その点では、経理士からもたらされた
 〝ぶっ壊れているのは情緒だけで、頭はキレる〟
 という警告にあらためて頷かざるをえなかった。

地域への波紋

 犯人が去ってパトカーが到着するまでの僅かな時間に、私は地区の歯科医師会で組んでいるメーリングリスト、フェイスブックMessengerのグループチャットへ、警報を発するのを忘れなかった。
 私が、精神に異常を来した元患者に襲われて負傷したこと。
 すべての歯医者が憎しみの対象ならば、他施設へも乱入するかもしれないこと。
 この2点を急報した。反響は大きく、木曜の日中にもかかわらずリターンを告げる着信音が鳴りやまなかったが、パトカーの到着で捨ておいていた。
 また、刑事に負傷の程度を記した診断書を用意するよう指示されていたから、互いにかかりつけ医にしている整形外科医の門を叩いた。
 かの医師は、待合室にひしめく大量の患者をすっ飛ばして診察室に招き入れるや、私の上半身を見てかなり狼狽したようだった。個々の打撲痕は大したことはないのだが、如何せん数が多かった。まるでスタープラチナのラッシュを浴びたDIOもかくや、という状態なのは私も初めて目の当たりにした。この時になってようやく、自分の裸身を目の当たりにしたのだった。

傷害致傷で立件するためには、医師、歯科医師の手による診断書は不可欠なのだ

「誰にやられたんですか?」
 の問いに、記憶に嫌というほど叩き込んでいた名前と住所を告げる。途端、整形外科医の表情が青ざめるのがわかった。同時に、傍らで恐々と様子をうかがっていたナースの手が、電子カルテのキーを叩き始める。やがて、
「先生、これ……」
 電カルの画面を見つめるナースと整形外科医の表情がこわばる。犯人の実家は、整形外科医の診療所に近い。共通の患者であっても不思議ではないが、それだけでないのは一目瞭然だった。
 あいつは、この医院でも問題を起こしていた。かなりとんでもないことだが、詳細は次回に譲る。
 上半身の打撲十数カ所に加えて舌咬症。全治3週間の診断が下る。うち、下顎に食らった最初の一発による舌咬傷がもっとも堪えた。食事のたびに悲鳴をあげる舌を宥めながら数週間を過ごすことになる。

 自分で言うのもなんだが、わたしは地域の医師会に顔が売れている。やがて歯科医師会のみならず、医師会にも私の奇禍が知れ渡ることになり、犯人の名前と住所は地域で共有されることになった。今にして思えば、非常に有意義な注意喚起になったはずだ。

本署へ、その後  

 診断書を携えて所轄署へ。
 正式な調書の記載とサイン、そして身体の傷が診断書通りなのかの検証を受ける。余談だが、刑事事件の証拠写真は、改変が簡単にできないようアナログのフィルムカメラで撮影されるため、同じポーズで入念に何枚も撮影されるのには閉口したが、これもアイツに刑事罰を下すためならと、苦痛に耐えた。
 それでもなんとか写真を撮り終え、ようやく人心地がつくと、心の痛みに替わって、犯人に殴打された箇所が悲鳴をあげはじめるのだった。興奮が覚めてきて、カテコラミンの分泌が減ってきたのだろう。
舌咬傷と上半身10数か所に及ぶ打撲は、予想以上のダメージなのだった。

 調書の束を整えながら、刑事はおもむろに言った。
「スギウラさん、どうして反撃しなかったのですか?  あなたほどの体格なら、パンチの一発も食らわせることができたでしょうに」
 我が意を得たりとばかりに答える。
「わざと傷を負って、 あの野郎が起こした一連の犯罪の証拠にしたかったからです。それに過剰に防衛してしまうと、私が罪に問われる場合だってあるんでしょ?」
 刑事は深く頷きながら、
「そのとおりです。よく我慢されましたね」
と告げた。さらに,
「だけど、立ち向かっていったのはかなり危険な行為です。似たような状況で命を落とされた方も多いのです。今後はこのようなことがあっても、まず逃げることを考えてくださいね」
 ド正論だった。
 だけど、わたしは頷かなかったと記憶している。

 第2回でも書いたが、なにか重大な事が起こらない限り警察の腰は重い。かと言って、 舌咬傷と上半身10数か所に及ぶ打撲は、警察を動かす代償として妥当だったのかは、今もわからない。

癒されない心

 沙汰あるまで待機するよう告げられたわたしは、診療室へ戻った。目的は明日の予約を残らずキャンセルすること。とてもではないが、人さまの健康を預かれるような状態ではない、というよりむしろ、そんな気分になれなかった
 私はアルコールは好きだが、からきっしなほうだ。飲んでクダ巻くなんてやったことがない。
 心の支えになってくれたのは家内だった。
 そして愛犬も。
「ドッグランへいこうよ」
 家内が誘ってくれた。
そうだな、このままため息ばかりついていても、過喚起になるのがオチかもしれない。
痛みに耐えながら立ち上がると、気のせいか足どりは軽く感じた。

愛犬とのたわむれが、傷ついた心を癒してくれた

 10数㎞離れた室内ドッグランへと向かう。 殴打で筋肉が断裂を起こしていたのだろう、ステアリングを握ることは叶わない。運転席には家内が座った。
 ふたりとも無言だった。
 曇天模様だったが、西に傾いた日差しが、雲間から漏れてできる天使のハシゴに目を細めたそのとき、ケータイが着信を告げた。
ケンシロウ刑事からだった。
そして彼に告げられ言葉に,私は怒気を含めて
「そんなことって、あっていいのですか?」
と叫んでいた。

次回はこちら

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