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プーチンの言い分

今回のロシアのウクライナ侵攻もあり勉強してみた。

キエフ公国という東スラブ人の国があった。

ドニエプル川流域に住んでいた人が集落を形成していったのが
その地域の始祖。

そこがバイキングなどに攻められることで、
ルーシという民族に統治を依頼していく。

このルーシはのちに、ロシアやベラルーシの語源となる。

その統治下でのキエフ・ルーシ国がのちのキエフ公国。


原始キリスト教に近い、キリスト教ギリシア正教を中止に
キリル文字に独特の文化ということでカソリック、プロテスタント
と広まっていった、西側諸国とは一線をかくして発展していった。


しかし1240年バトゥ率いるキプチャク・ハン国により破壊される。


その「タタールのくびき」と言われるモンゴル人の来襲で疲弊し二つに分かれる。
一つはハーリチーボルイニ公国
もう一つはモスクワ公国。今のウクライナ地域にあった前者は100年くらいで滅びてしまう。

ポーランドとタタールに占領されていた
ウクライナ地域はコサックという腕っ節の強い遊牧系スラム民族がモンゴルに対抗して組織化。自治区を広げる。モスクワ公国はモンゴルの統治下で力をつけていく。

コサックはタタールと組んでポーランドに独立戦争を仕掛けるがタタールに裏切られ負けそうになる。そこでモスクワ公国に臣従する事で勝利する。

ところが、モスクワ公国はウクライナ人の独立は認めず、ポーランドとモスクワ公国に統治される形。
ポーランド統治がオーストリアになるが
ウクライナの2割がオーストリア、8割がモスクワ公国となる。

モスクワ公国はピョートル、エカテリーナ2世の治世で大きく発展、大公国からロシア帝国となる。その過程で完全に政府機能を骨抜きにされマロロシア(小ロシア)と呼ばれる一行政区化する。

世界は第一次対戦前から国民国家ブームとなったが、ロシア帝国は上手く国民国家化出来ず、弱体化、第一次対戦の途中で崩壊。
統治イデオロギーとして共産主義を使うロシア。
ウクライナはここで一時独立も、一年半後にはレーニン率いるソヴィエト連邦に編入。

近代化に躍起になるロシアは、ドニエプル川周辺にコンビナート。
鉄道を中心に工業が盛んに。
農民主体だったウクライナは農村に、工業地帯は出稼ぎのロシア人が住むという形に。

第一次対戦が集結し、ウクライナは四カ国に割譲されてしまう。

レーニンは懐柔、スターリンはウクライナ語の使用すら禁止する。

第二次世界大戦がおこり、ドイツ軍がポーランドに侵攻。ポーランドがドイツとロシアに割譲される。
ソ連側にはポーランドのウクライナ人居住地域も。ルーマニアのウクライナ人居住地域もソ連に併合される。

戦後処理を決めるヤルタ会談でウクライナ地域はソ連にまとめられる。

スターリンが亡くなりフルシチョフに。
その後ブルジネフ→ゴルバチョフ。

ソヴィエトは指導毎に懐柔策と強硬策を交互に繰り返して統治。不満がつのる。

またフルシチョフ時代にいきなり、ウクライナにクリミア半島を渡す。

経済的にソヴィエトが崩壊していき、都市部のウクライナ人が増えていく。

ゴルバチョフがグラスノスチ(秘密主義の解体)とペレストロイカ(社会主義経済改造)

秘密主義時代の不満とチェルノブイリ原発事故
社会主義国家への批判、独立機運の高まり。

ロシア共和国(エリツィン)がソヴィエト連邦(ゴルバチョフ)から抜けようとする、その二人の会談をKGB(秘密警察)が盗聴しリーク。
保守派が休暇でクリミアにいたゴルバチョフを拘束、その状況を見てエリツィンが「もうソ連とは付き合わない」とロシア国内の共産党権限を凍結。

そしてエリツィン、ウクライナ代表とベラルーシ代表がソ連崩壊後の独立国家の連携を会談(ベロベージュの森の陰謀)
15カ国中バルト三国以外の12カ国が同調しソ連解体し、エリツィンがロシア連邦にする。
エリツィンの次の世代がプーチン。

そしてウクライナが独立宣言。
ただ当時ウクライナには20%ほどのロシア人が存在していた。
特に多いのがルガンスク地区とドネツク地区。


ざっくりと今のウクライナが本家とするとロシアは分家。
プーチンは、大きくなった分家が本家を併合するのだと。
東スラブ民族はロシアの民であり過去ロシア帝国領だった地域を元に戻すのだと。
またウクライナにいるロシア人とその居住区をロシアに民族自決の理念で併合するのだと。

それがプーチンの言い分。

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