見出し画像

ペンギンになりたかった友人のはなし

もう10数年、いや、20年近く前のことだが、わたしは坂道の途中にある小学校に通っていた。より正確に言うならば、小学校の敷地が傾斜地にあって、両脇を坂道が通っていた。校門はいずれも坂道の途中にあって、わたしは東側の門を使っていた。傾斜地を切り開いて造られているものだから、校庭の端は崖のように切り立っていて、ずいぶんと高低差があった。…ただし、ほんものの崖のようにのっぺりとした絶壁ではなく、そこには石の段々が設けてあって、傾斜地の一番上まで登れるようになっていた。段々の最上部には桜の大木が何本もあって、春は満開の花を咲かせ、夏は緑が生い茂り、秋は毛虫が落ちてきた。

わたしは坂道の途中、校門の前あたりに住んでいたのだが、彼女の家は坂道を登り切ったところにあった。隣には文房具屋があって、なわとびやノートや駄菓子を売っていた。わたしは体操服を新調するときくらいしか入ったことがなかったが、同級のひとたちは盛んにこの店に出入りしていて、店に自転車を横付けして棒アイスなどを食べていた。それがひどく羨ましかったのを覚えている。

帰り道が同じだったためか、波長が合ったためか、わたしは彼女と仲がよかった。いつも帰るときは一緒で、校庭にある池を覗いたり、バッタを捕まえて飼育小屋のチャボにやったり、段々をこっそり登って(校庭の段々は子どもだけで登ることは禁じられていた)遊んだりした。わたしは帰宅してから外に遊びに出ることを止められていたので、わざと回り道をして、坂道の上まで彼女に付いていったりした。

頭がよくて、かわいくて、活発で、すてきな母親がいて、坂道の上に住んでいる彼女は、わたしにとって憧れの存在で、いつだって一緒にいたかったし、おしゃべりをしていたかった。

この学校はどちらかというと毛並みのよい子どもが多く、竹林のある大きなお屋敷に住んでいる同級生が何人もいた。一方で、徴収金のことで何回も呼び出されている子や、名字が何回も変わった子や、突然いなくなる子もいて私たちは賑やかに過ごしながらも、どこか張り詰めた糸のようなものを感じていたと思う。ほぼ毎年変わる教師にも当たりはずれがあって、年度の節目にはみな緊張していた。学級のなかには緩やかな集団のようなものがあっておしゃれで大人びた子の集団や、文房具屋の前でアイスを食べていたりする集団などがあった。

わたしと彼女はどちらかというと、学級の中心の集団ではなく、傍流の集まりだったように思う。おしゃれでキラキラしたものとはあまり縁がなく、校門の外でのんびりしゃべっては歌うような子どもだった。

小学校では毎年、夏祭りが開催されることになっていて、彼女の父親は最後に打ち上げる花火の監督者をやっていた。彼女はそれを誇らしく思っていたらしく、夏になるとよく父親の話をしてきた。ある夏、彼女は「祭りの最後までいて、一緒に花火を見ないか」と誘ってきた。わたしはちょっとだけ考えて、「親に訊いてみる」と言った。翌日、わたしは彼女にことわりの文言を述べることになった。彼女はちょっと残念そうに、「だいじょうぶ」と言った。

中学受験をする同級生もいたけれども、わたしはそのまま地元の中学校に進むことになっていて、彼女もそうだったから、ずっとこのまま仲良く楽しくやっていけると思っていた。実際、進学予定の中学校を彼女とこっそり、覗きに行ったこともあったのだ。フェンス越しに見た校庭は小学校よりずっと広く、生徒はずいぶんと年上に思えて、眩しかった。

結局、わたしは夜逃げ当然にその地を去ることになったので、彼女と共に中学校に通うことはなかった。学校を卒業してから少し経って、わたしの父が卒業文集を持ってきた。私はパラパラと文集をめくって、自分の学級のページを見た。最後に、「将来の夢」という項目があって、各々が夢のあることを書いていた。私は彼女のことを考えながら、名前を探した。

” Suicaのペンギンになりたい ”

先生になりたいとか、小説家になりたいとか、そういった文言が並ぶ中で、その文字は異色を放っていた。

当時はSuicaを使う機会がなかったから、「どういうこっちゃ」と思うだけで終わったが、10数年経った今になって、Suicaを毎日のように使う今になって、その言葉がひしひしと浸み込んでくる。

Suicaのペンギンを見るたびに、彼女のことを思い出す。