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調べることと考え続けること、創作すること

戦争や災害や事故などを創作の中で扱うことについて、書きました。
とてもとても個人的な話、自分の中での尽きない悩みのようなものです。
ちなみに以降、弊創作の大規模なネタバレを含みます。

自分の創作全般の話について

 私は「擬人化」というジャンルで創作活動をしている。人それぞれ、創作によって千差万別だが、「ヒト」でないものを何らかの方向性で「人」めいたカタチとして表現する領域、と述べておこう。基本的には実在するモノを取り扱うので、その特徴……外観だったり、来歴だったり、性能だったり、をキャラクタの特徴に入れ込むことができる。ある意味ではデザインの自由度が下がるのと、キャラクタの背景説明を省略可能なので、人によっては創作しやすい分野かもしれない。他方、自分が所有していないモノに関しては権利の問題が発生するので、リスペクトと慎重な姿勢が必要とされる領域でもある。

 私は「鉄道」と「船」の擬人化をしていて、具体的には青森~函館を結ぶ鉄道車両(例:北斗星とか)と船(例:青函連絡船とかフェリーとか)を中心に創作を楽しんでいる。
 単発でキャラを愛でることもあるのだが、全体としては史実を元にした歴史小説(漫画)に近い形が多い。大体、その物語が実際の日付だと、何年何月ごろに起きた感覚、というのが決まっている。

 ここで本題に入る。史実から物語を出力していると、避けて通ることのできない事項が出てくる。それは例えば、戦争だったり、大きな事故だったり、台風や地震や豪雨といった災害だったりする。元ネタがあるということは、元ネタが通ってきた物事を創作の中で扱うか、扱わないか、という選択が必ず出てくるのだ。
 創作は創作の数だけ種類があるから、全然取り上げない場合もあるし、裏設定的になるものもあるし、少し雰囲気に入るものもあるし、ガッツリと取り組むものもある。それは各々、あっていいと思う。表現は自由だ。

 でも、実際に起こった出来事であるからして、傷ついた方や怪我をした方、亡くなられた方、が現実にいる。これは「フィクションです」、「創作です」と出すとしても、事実を元にしているということは変わらない。

 だから、難しい。

 私は、物事があった、ということを広めようとして、創作をしているわけではない。もちろん、知ってくださる、好きになってくださる方が増えるといいなーとは思っているが、基本的に、起きたこと、擬人化しているモノたちが行動したこと、を知って、自分なりの形で出力しているだけなのだ。本当に、自分自身が書きたいから書いている。自分勝手の極みなやつだと自分でも思う。

 なので、きっと私の書くものは、私が書くという行為そのものは、誰かを必ず傷付ける。私小説でない限り、私はその、戦争や災害や事故を体験した人にはなれない。その人が傷つき、悩み、苦しんでいるものを娯楽化してしまう。それは、私がどれだけ資料を集め、勉強をし、取材に行き、茶化すような文としないよう、努力したところで、変わらない。

 これを執筆の悩み、と表現すること自体がとても傲慢であると思う。傲慢だ、と感じることそのものが思い上がっていると思う。許すとか許さないとか許されるとかいう話ではなく、出力すること自体が本当にだめかもしれないとも思う。

 それでも、書いてしまう。書いていいのか、発表していいのか、ぐるぐると考えながらも書き上げて発表してしまう。書かずにはいられない。

 たぶん、このぐるぐるには終わりは無い。ずっと考え続けると思う。調べて、調べて、現地に行って、慰霊碑に報告をして、考えて、考えて、考え続けて書くのだと思う。

『1039』とその執筆について

 私はこれまで中編小説で3回、大きな出来事を題材に扱った。
『モガリ』:第二次世界大戦
『狂飆の彼方』:洞爺丸事故
『1039』:東日本大震災
いずれも、そこに至るまでと、起きてからを含めて書いた。
 先の2編は少々出力不足なところがあり、もしかすると今後、加筆をするかもしれないが、『1039』は概ね出し切った、と考えている。

『1039』
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12257147

 この物語は、東日本大震災の津波の直撃を受け、常磐線上で車両を失った「ED75」という機関車の形式を主軸に物語を展開している。冒頭、彼が被災から8年ぶりに常磐線に入るシーンから始まり、一旦、日時が2011年の2月まで巻き戻り、そこから被災、常磐線の全線復旧までを時系列順に追っていく構造だ。最後は常磐線上のとある駅で締めくくられる。

 全体を通して読むと、多少ほのぼのとした箇所もあるのだが、基本的に明るい話ではない。まったくもって明るい話ではない。そして結末も、明るくは終わらない。主人公が少しずつ苦しみを理解し、心の内で整理していくだろう、という示唆はされるが、そこまでである。

 執筆した側としては、非常に書きにくい物語だった。前の項で述べたように、大きな出来事を直接的に描写している、ということもあるが、主人公であるED75の行動(気持ち)が分からなくなったからでもある。
 執筆を始めた時点では、常磐線は全線復旧があと1年、というところまで来ていて、ああやっと繋がるんだな、特急で仙台まで行けるようになるんだな、めでたいな、という空気があった。私もそう思っていた。

 ただ、他方でものすごく違和感があった。私の創作のED75は復旧を祝って物語を終えるのか?自分はそういう人物として彼を書いてきたのか?本当に、それで終わっていいのか?そもそも、繋がったから区切りが付くものなのか?

 分からなくなった。この題材を取り扱うということ自体、とても慎重にあるべきことだった。特に、復旧に向かっているのだから、なおさら、空気に逆行するような物語で水を差していいのか、分からなくなった。

 迷いながら、取材に行った。2019年の4月のことである。
 この時点での常磐線を全線乗りとおした。富岡から原ノ町の直通列車はなく、代行バスが通っていた。

 富岡駅の付近では、堤防を作る工事が行われていて、駅のすぐ傍に砂利山があった。その奥に海が見えた。近いな、と思った。街がずいぶん新しい、小さい、とも思った。
 代行バスは空港の連絡バスのような立派なもので、乗った後に「窓を開けないでください」と注意を受けた。おそらく、国道6号を通っていたのではないかと思うが、詳しくは分からない。
 車窓からは、荒れた田畑と、出入り口にフェンスが設置された廃屋と、企業のものらしき新しい建物と、道の分岐点に閉鎖ゲートが敷かれ、警備員が立っているところが、何回も見えた。車を見ることは少なく、すれ違っても業者の車と明らかに分かるものばかりだった。

 頭を殴られた気がした。「全然終わってない」と思った。「区切りなんて付くのか」とも思った。「人は戻ってくるんだろうか」と感じた。言葉では聞いていて、研究に関わっている先生も同期もいて、続いている、今後も続くだろう、というものはボンヤリあったけれど、なんとなく「全線復旧」で自分の中では終わるような思いもあった。そんなはずがないのに。

 それは喜ばしいことで、めでたいことで、いいことだけれど、周りの全てが全部、解決するわけじゃない。対応は続いていく。ある意味、ずっと。

 原ノ町駅は大きかった。「街」があった。泣きたくなった。

 仙台に着いて、東京からとても長い時間が掛かったけれど、長かったな、というより、靄がかったような気持ちでいた。頭の中の情報がまとまらなかった。
 ED75に会いたいな、と思った。歩いて車両基地の近くまで行った。仙台にはED75の車両が3両いるのだけれど、基地にはいなかった。お仕事中だった。しかも、いきなり雪まで降ってきて、びしょぬれになった。

 ものすごくガッカリしながら、近くの駅(東仙台)まで歩いた。
 駅のすぐ手前で、機関車の警笛が聞こえた。
 真っ赤な機関車が、ED75が、そばを通過していった。

 書かなければ、という気持ちになったわけではない。ただカッコいいな、と思った。ああいいな、走ってるっていいな、と。

 分からないものは分からないままで、でもED75の物語を書きたくなった。これは完全に自分勝手だけど、修飾も何もなく、受け取ったもの、そのままで書き上げたい、と思った。
 自分では消費するつもりは無いにしても、実際は消費なのだろうし、消費していると捉えられることはあるだろう、だとしても、書きたい、と思った。

 そういうわけで、小説を書いた。
 書いてよかった、よくなかった、ということは言えない。
 書き上げられたことは頑張ったな、と思う。


 随分と長い文章になりました。場面場面の執筆をどうしたのか、とか、装丁のはなしとか、ご感想を頂いて救われた気持ちになった、とかは別の機会があれば、書くかもしれません。