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なぜわれわれには人権があるのか?~「美しい花」を咲かせるための考察

人間が人間らしく自由に生きるための権利、人権。

この表面的には輝かしく美しい人権の花が、実は薄汚いドブの上に咲いているのだということを知っている人はあまりいません。

その花はわれわれの利己的な心を養分とし、排水路の水面にただよう油のような卑しい虹色の花を毎日咲かせます。

当初、この花は緑あふれる肥沃な土壌に植えられる予定でした。

いや、われわれの祖先は確かにそれを肥沃な土壌に植えたのですが、その土壌は植えた瞬間からみるみる養分を失い、人々の気付かないうちに薄汚れたドブと化したのです。

しかし花だけは、そのドブに溢れる利己的な心を養分にすることで生き残りました。

餓死するぐらいなら腐った肉でも食べる。

生存本能とはそういうものなのでしょう。

やがてありあまる劣悪な養分を吸収した花はブクブクと太り、けばけばしい
見るからに下品な花をつけるようになります。

その繁殖力は強大で、それはあっという間に世界各地に生息地を広げました。

こうして人権の花は雑草となったのです。


人権の萌芽

そもそも、世界に人権の芽が出始めたのは18世紀末頃、フランス革命やアメリカ独立戦争の頃だと言われています。

その頃のヨーロッパはあらゆる貴族的なものが一般市民に開放され、平等意識や均等化の流れが激しい時代だったワケですが、その兆候は早くは13世紀頃、ないし15,6世紀頃から見え始めていました。

当時の偉大な哲学者や芸術家たちは神をすべての前提としつつも、その土台の上では自らの理性に基づいた合理的な思考を行っており、このことから、彼らが客観性や普遍性、つまり万人が同じように理解できる表現や思想に信頼をおいていたことが分かります。

芸術面ではレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に既にその兆候が現れていますし、哲学面では数学者の営みや合理主義の生みの親とされるデカルトの発想がまさしくそのものです。

中世の巨人とも言われるトマス・アクィナスは、この合理的思考によって聖書の内容をガチガチに合理化し、当時のキリスト教の座をゆるぎないものにしました。

これらが意味するのは、誰もが理性的に表現されたものを「同じように」理解する能力を持っている、つまり、その能力を「同じように」用いさえすれば誰もが同じゴールに至ることができる、ということです。

数学の公式を正しく使えば、誰が計算しても同じ答えを導けます。

ダ・ヴィンチの絵は万人にとっての(客観的な)美を表現しようとしました。

デカルトは、複雑なものはバラバラにして考える(要素還元主義)という方法を提案し、この方法を用いて考えれば誰もが同じように理性を活用できるということを示しました。

ここに(少なくとも理性においては)万人は平等である、という発想の根源が見えてくるワケです。


啓蒙思想と個人主義・自由主義

誰よりも早くこのことを自覚したのが啓蒙思想家と呼ばれる人たちです。

彼らはそれぞれの立場に応じて啓蒙思想を広めていきます。

ある者は法的に、ある者は政治的に、ある者は哲学的に、またある者は道徳的にそれを説いてまわり、啓蒙思想はまたたく間に人々の常識となりました。


「われわれは皆、同じ理性的能力を持った同じ人間である」

(そうだ、そうだ!!)

「ならば、家柄や階級に関係なく誰もが同じ権利を持つべきだ」

(そうだ、そうだ!!)


こうした発想から個人主義・自由主義が生まれてきたワケです。

この個人主義・自由主義は、われわれが理性的能力を最大限発揮することが前提になっています。

合理的に考えれば、相手のことを考慮せずに利己的な行動を起こせば非合理な結果を招くことは明らかだし、そんな愚行を理性的な人間が犯すはずがない。

むしろ理性的な彼は自らに課した規律に則して自らを戒め、より崇高な人間像を追い求めていくだろう。

彼は理性的な人間なのだから、それが最も合理的な生き方であると知っている(もしくは気付く)はずだ。

ならば、彼が個人として自由に生きる権利を持つのは合理的に正しいことである。

個人主義・自由主義の前提を敢えて言葉にすると、こうなるワケです。


二重の誤り

けれども、これが単なる理想であって現実でないことは明らかです。

行動経済学の知見を語るまでもなく、われわれがこんな「できた人間」に出会うことはまずありません。

百歩譲って出会えたとしても、その人はその瞬間にだけ理性的能力を発揮しただけであって、ずっとそういう人間であるワケじゃない。

現実の人間はそこまで合理的ではないし、自律・一貫していないのです。

この前提よりもう一段深い前提には「人間はいついかなるときも常に理性的である」という考え方があるワケですが、ここが既に間違っているというのは日常を振り返ってもらえれば分かると思います。

政治家をルックスや雰囲気で選ぶ人が多いように、われわれはほとんどの場合感情的であり、理性的であるときの方がはるかに少ないのです。

この二重の誤り、すなわち、人間はいつも最大限に理性的能力を発揮しているという誤りと、人間はいつも理性的であるという誤りが、人権という悲劇の悪役を生み出しました。

われわれが今当たり前に思っている人権とは、こういう有り得ない前提の上に生まれてきた「奇形」なのです。


人権を奇形たらしめるもの

その「奇形」が猛威をふるっている現状はもはや説明するまでもありません。

生活保護にしても、原発問題にしても、沖縄米軍基地の問題にしても、北朝鮮の拉致問題にしても、その根っこはすべて同じです。

いずれも「自分にはそれを訴える権利がある」という前提が支えています。

もちろん訴えることが悪いワケではないですし、訴える権利があることも法的には認めざるを得ません。

ただ、その人が訴えに応じるにふさわしい人間かどうかはまた別の話で、その点が人権を奇形たらしめる原因になっているのです。

要は法的に応じるべきか否かではなく、人間的に応じたいかどうかの問題だということです。


「野蛮な行動」の真実

人権を認めたいか認めたくないか。

そういう基準で見ると、およそ現代人は万人が万人に対して消極的に人権を認めていることが分かります

消極的というのは、「あの人は絶対に人権を持つべきだ」という信頼や尊敬
から生まれた積極的な態度ではなく、「あの人に人権を認めないと自分の
人権も認めてもらえないだろうから、取り敢えずみんなに人権を認めておこう」
という利己的な態度のことです。

この善悪はともかくとして、ここには尊厳や情熱、そして他者への関心がほとんど見られません。

そこにあるのは自己の保身だけ。

そんな人間同士が消費税だの原発だのと議論したところで、まともな結果が生まれるワケがありません。

僕らはお互いに人格を認め合ってもいなければ、信頼もしておらず、ただただ利己的な意見をぶつけ合っているだけなのです。

何より問題なのは、彼らがそのことを自覚していないことです。

大声で意見を言えばいい、ごり押しすればいい、多数で圧しかければいい。

そういう「野蛮な行動」が正しいと思っている。

つまり、われわれが抱えている問題は表面に見えている具体的な問題群やその議論の方法などではなく、その問題を問題たらしめている人間性そのものの問題なのです。


美しさを取り戻す

だからといって僕は反人権思想が正しいと言いたいワケではないし、バカな奴には人権を持たせるな、という過激なことを言いたいワケでもありません。(※後者は最も愚かな考え方の1つだと思います)

むしろ誰もが自由に生きられる権利そのものは素晴らしい権利だと思います。

だったら何が言いたいのかというと、

僕らの人権は「奇形」から脱するべきである

ということです。

ここでもう一度考えてみて下さい。

人権が「奇形」になってしまった原因は何だったか。

人権は最初から「奇形」として生まれてくることを望まれていたワケではありません。

本来であれば、それは正常な形で、望ましい形で生まれてくる予定でした。

みんなから愛されるカワイイ赤ちゃんとして生まれてくるはずだったのです。

しかし何かが狂ってしまった。

そう、僕ら人間があの2つの前提を裏切ったのです。

人間が常に理性的であり、その理性の能力を常に最大限発揮していれば、人権が「奇形」になることはなかったのです。

だとしたら。

その前提を守りさえすれば、人権は悲劇の悪役ではなく、ハッピーエンドの
主役になれるのではないかと考えられないでしょうか。

完璧に守ることは不可能だとしても、可能な限り僕らがその前提に近い人間になることで、人権は本来の正常な力を発揮するのではないでしょうか。

僕はそこに人間のあるべき姿があると思うのです。

ただただ自らの権利を主張するばかりの利己的な人間ではなく、その権利を
主張するにふさわしい自律した尊い人間の姿が。

人権とは本来そういった人間にのみ行使することを許された権利なのです。


人権がなかった理由

フランス革命やアメリカ独立戦争の頃まで人権思想が生まれなかったのは、平民や女性や奴隷は人権を持つに値する人間ではないと貴族たちに思われていたからです。

彼らは無知蒙昧で判断力もなく、とてもその権利を使いこなせるような人間ではないと思われていました。

そんな彼らに自由を与えようものなら世界は混乱するに違いない。

そこまで思っていたかどうかは定かではないですが、それに近い意識が上層階級にはあったワケです。

今から考えれば「その考え方こそ傲慢なんじゃないの?」ということになるワケですが、当時はそれが当たり前だったんだから仕方がありません。

そういった意識を理性の力が解放した、というのは前述の通りです。


共感から生まれたもの

リン・ハント著『人権を創造する』によれば、理性的な要素に加えて、当時の数少ない万人の娯楽であった小説が貴族から平民への共感を生み出し、互いに権利を認めるに至ったのではないか、という風に語られています。

ここに先ほどの、人権を認めたいか認めたくないか、という感情の問題が絡んできます。

彼女の言うことに従えば、当時の貴族は小説を読むことによって別世界に住む平民の生活や人格を知り、そこに自分たちと同じ人間の姿を見たのです。

彼らの心は揺らぎます。

「貴族より立派な平民もいるじゃないか?」

「平民の生活は慎ましく、なんと規範に満ちているのだろう」

「われわれ貴族の方が彼らを見習うべきなんじゃないか・・・」

自らに多くを課す誠実で自律した貴族ほど、このことを強く思ったに違いありません。

こうした影響によって(一部の)貴族は

「彼らにも人権を認めてあげたい」

という感情から

「彼らにも人権を認めるべきだ」

という考えに至ったのではないか、ということです。

人権は誰もが認め合わなければ人権ではありません。

誰もが相互にそれを(積極的に)認め合っているからこそ人権は(本来の)
人権であれるのです。

こうして理性的能力に対する信頼と想像力に由来する共感が土台となり、
人権という近代国家における普遍の権利が生まれました。

ここにきてようやく、僕らは本題に立ちかえることができます。


美しい花であるために

僕らがまずやるべきは、自分の姿をよく見ることです。

今の自分は人権を認めてあげたいと思われるような人間なのかどうか。

真剣に話を聞いてやろうと思われるような人間なのかどうか。

世界から丁寧に扱われるような尊い国の尊い国民なのかどうか。

理性的な思考はここから始めなければなりません。

僕らが世界にとって不可欠な人間になれば、その人権の花は自ずと美しくならざるを得ないのです。

新しい土壌を築きましょう。

そして、いっしょに綺麗な花を咲かせましょう。


※この記事は過去に配信していたメルマガ記事を再編集したものです。

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