【連載】いくら生きても、生き抜いても所詮【♯1】〜29歳、作家志望の契約職員〜

何年かぶりに魅力的な人に恋をしてしまった。7つも下の女性だ。一目惚れだった。

話し声や立ち姿。すぐ困った顔をするところ、笑うと眉が下がるところ。左手で書く、小さくて丸い文字すら魅力的だった。彼女のどこをどう切り取っても僕の心は満たされた。春が来る前に、僕の心は色めき立つのがわかった。

29歳。作家志望の契約職員。今の自分には社会的な立場もなければ貯金もない。あるのは、作家になれるかもしれないという濁った期待と、落選という印が押された作品たち。書けど暮らせど一向に成長しない平凡な技術。自然と、刻一刻とすぎていく時間に向き合わない術だけ身についていた。

そんな生活を送る僕にとって、彼女の存在は僥倖だった。日々の苦しさよりも、日々を過ごす楽しさが勝った。

久しぶりに服を買った。コートも靴も買った。髪型を整え、新しい髭剃りを買った。身だしなみを整えると、心なしか背筋が伸びたように見えた。

彼女に気に入られたくて、明るく楽しい人であろうとした。大きく笑って、前向きな発言をした。
面白い話をしようとネタを探した。話をすると彼女は笑ってくれた。嬉しくて嬉しくて、隠れてガッツポーズをした。
話しかけられたら嬉しかった。目が合えば嬉しかった。優しい人ですね、というありふれた言葉にすら浮かれていた。

でも、日に日に虚しさが増していくのがわかった。彼女のことで浮かれる自分。外見を取り繕って、明るくて面白い自分であろうとすればするほど、伴わない中身が際立っていく気がした。なれるかもわからない作家を目指して、契約職員という不安定な立場を選んでいるお前は、誰かのことなんて好きになってはいけない。誰も幸せにできない、お前の人生に誰かを巻き込んではいけないと、そう言われている気がした。


汚れた玄関、流れの悪い排水溝、澱んだ空気のトイレ、顔が映らないお風呂の鏡。溜まった茶碗。
中身のない冷蔵庫、裏に埃が溜まった洗濯機、パン屑が落ちたオーブン。
襟の黒くなったワイシャツ、洗っても臭うタオル、しばらく代えていないシーツ。
書きかけの原稿。書き殴られて読めないメモ。読みかけて放置された本。

家に帰ると、それらが否応なしに語りかけてきた。お前は所詮、お前なんだと。

明るく振る舞うのは、彼女に気に入られたかったじゃない。きっと、30歳目前、作家志望で契約職員の自分は何も不幸ではないと証明したかったからだ。当たり前のように誰かのことを好きになって、普通の人らしい生活を送ってもいいと、自分は何も気にしていないと思いたかったからだ。

彼女は海外に行きたいと語っていた。通っている英会話の様子を楽しそうに教えてくれた。

惨めだ。ただただ惨めだ。でも、せめて誰かを好きでいたいんだ。好きでいさせてほしいんだ。それは、許されないことですか。

惨めで、最悪で、死にたくなる今日を僕はひたすらに耐える。いつか抜けられることを願って。

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