見出し画像

『ゴジラ-1.0』の〈人間ドラマ問題〉について

公開されてから1週間。ネット上ではとりあえず賛否が8:2くらいな感じでしょうか。でも、賛の人でも「人間ドラマ部分が…」という意見がけっこう散見されます。右はゴジラ泣き大絶賛から、左はそれこそ「やっぱり山崎貴ムリ」という身も蓋もない酷評まで、だいたいの反応が出揃った感じなので、それらを俯瞰しつつ、私なりの解剖をしてみたいと思います。

【怪獣映画と人間ドラマ問題】
まず、賛否で最も論点となっている人間ドラマ部分について考えてみましょう。
マイナスワンの人間ドラマ部分については、「泣いた」「感動した」という感想が多い反面、役者の演技に対する不満や、展開や設定、ダイアログの陳腐さなどを指摘する意見が、賛の人たちの中にすら、看過出来ない割合で見受けられます。

確かに、終戦直後の焼け跡ドラマとしては、かなりテンプレ的な展開であることは否めません。人物たちのセリフも、過去のあの手のドラマ、例えば朝ドラの戦後編とかで散々見てきたようなセリフを切り貼りしたような印象です。
安藤サクラ演じる焼け跡の女性などは、ほとんど記号的ですらあります。登場するやいなや、復員した敷島(神木隆之介)に対していきなり敗戦への怒りをぶつけますが、その後、敷島に配給米を恵んだり、電報を受け取るときなど、変容していく行動についての細かい心理は一切描かれません。本来は複数の登場人物が担当する役回りを〈安藤サクラ1人で一発処理した感〉すらあります。

敷島と典子(浜辺美波)の共同生活も、例えば朝ドラであれば数話に渡って描かれるところを、要所要所の場面を繋いだダイジェスト的な印象です。それもあってか、個々の場面での感情描写も、演技力で見せるというよりは、分かりやすすぎる程の過剰なリアクションが多く、そこもまた記号的です。過剰なリアクションという点では、佐々木蔵之介に対する指摘が最も多く、確かにあれは私もかなり辟易しました。

・・・さて。
おそらく人間ドラマ部分への批判・不満は、主に上記の描かれ方に起因していると推測します。
そうした人間描写を、山崎貴監督作品に共通の欠点と考える人たちが一定数いますが、本当にそうなのか、いくつかの山崎作品をあらためてチェックしてみました。
『永遠の0』などは確かにかなりキツかったのですが、『アルキメデスの大戦』は特にダメだとは感じませんでした。菅田将暉や、山本五十六を演じた舘ひろしなどは、むしろ飄々と描かれていましたし、脚本構成や編集もわりと丁寧に計算されていると思いました。
つまり山崎監督は、基本セオリーに則った作り方を、やろうと思えば出来るんだと思います。
と言うことは、マイナスワンにおける過剰な演技、雑な展開は、意図的に設計されてる可能性が浮上します。
だとするなら、どんな意図なのか?

まず、戦後の焼け跡生活や傷心の復員兵をきちんと描くには、本来それなりの尺が必要です。でもマイナスワンには〈巨大怪獣を退治する〉という、とんでもなく大変な展開が控えています。戦後の荒廃・傷心を描きつつ、それはあくまでゴジラに向かって進行しなければなりません。結果、ダイジェスト脚本&デフォルメ演出で処理した・・・というのが第一の仮説。

第二の仮説。
私くらいの年齢であれば、戦争・戦後の状況は、さまざまなドキュメンタリー映像やドラマ、書物によって、さんざん見聞してきました。それこそ朝ドラで何回見たか分かりません(笑)
しかし、ゴジラ映画のメインターゲットであるファミリー層、とりわけ10代以下のこどもたちにとっては、あまり馴染みがない可能性が高いですよね。そういう観客に、とりあえずざっくり終戦直後を〈分かりやすく〉見せるために、あえてあのような脚本・演出プラン(極端にいえばテレビ番組内での再現ドラマみたいな)にしたのではないか?

第三の仮説は第二仮説に近いのですが、「海外セールスを考慮している」という推測です。
前作『シン・ゴジラ』は、海外セールスではたいへん苦戦しました。そのリベンジもあり、今回は海外でも売れるよう、脚本段階から配慮した可能性も考えられるかもしれません。

・・・ところで、です。
よく考えてみれば、これまでのゴジラ映画・怪獣映画で、人間ドラマで成功している作品ってあったのでしょうか?・・・と思ったので、国内外のゴジラ映画のリストを眺め、その中の何本かをU-NEXTで実際に鑑賞してみました。30本の国内作品はひと通り見てはいましたが、あらためて人間ドラマに注視してチェックしたところ、いろいろなことが分かりました。

まず、人間ドラマ部分の描き方は、制作された時代や監督によっていくつかのパターンに分けられます。
まず〈ゴジラ単体〉〈VSモノ〉かで、物語構成が変わってきます。
〈ゴジラ単体〉の場合、当然〈人間VSゴジラ〉という構図になります。
一方、〈VSモノ〉は〈人間VS悪役怪獣VS味方怪獣〉というトライアングル構図になるわけです。複数の怪獣に時間を割くので、必然的に人間ドラマの尺自体が制限されます。
そして全30作中、ゴジラ単体なのはマイナスワンを入れて4本しかありません。従って、とりあえずは過去3作品を検討してみました。文献などにもあたってみたのですが、いきなり核心的な資料を見つけました。
切通理作著『本多猪四郎 無冠の巨匠』の中に、ある人物が1984年版の『ゴジラ』(橋本幸治監督)の感想を本多猪四郎に話したときのエピソードが登場します。その人物が「特撮はいいけど本編(人間ドラマ)は今ひとつでした」と述べたところ、本多猪四郎の表情が硬化し、「僕のときもそう言われたよ」と呟いたというのです。
そう、ゴジラ映画における人間ドラマ問題は、第一作から存在していたのです。

・・・しかし、です。
私的には、ゴジラ史の中でも別格の第一作に、人間ドラマの問題を感じたことが無いんですね。むしろドラマと特撮が最も融合しているとすら思ってました。ところが、公開当時に観た人たちからは、そうした指摘があったんですね。

私がリアルタイムで観たのは1984年版『ゴジラ』が初めてですが、確かに人間ドラマがグダグダだと明確に感じました。
『シン・ゴジラ』については、岡本喜八や市川崑のテクニック的な引用を駆使して、ポリティカル・ドラマに挑戦していました。後半のオタク集団によるゴジラ打倒作戦はかなりファンタジックで、いわゆる人間ドラマとしてどうなのか?という疑問が多少残りますが、さすがにラストはもう一つ説得力に欠けると思いました。「蘭堂率いる政府に、日本再建なんて出来るの?」と、圧倒的な心許無さを感じましたからね。石原さとみ演じるカヨコなども、わりと難色を示す意見が多かったですね。なので手放しで成功とは言いにくいのですが、まあ、かなり頑張ったとは言ってもいいんじゃないでしょうかね。よくありがちな主人公の家族描写みたいな、かったるい場面が無かっただけでも良かったです(笑)

次に、年代的に追ってみましょう。

◼️本多猪四郎作品

本多作品としてゴジラ二作目にあたる『キングコング対ゴジラ』のドラマ部分は〈テレビ番組の視聴率アップのために、南海の島からキングコングを日本に輸送する」というところから物語が進んでいきます。
次の『モスラ対ゴジラ』では、海岸に漂着したモスラの卵をレジャー会社が買い取り、ひと儲けを企てます。
いずれも、戦後復興から高度成長期への過渡期を背景に、拝金主義が災いを引き起こすという話になっています。
それらの人間ドラマが如何かと言うと、拝金主義者・企業という「設定だけ」でテーマとしてはすでに完結していて(今風に言えば出オチ)、登場人物たちの感情などが深掘りされているわけではありません。逆算的に言えば、モスラとゴジラが戦う場面へのお膳立てと言えなくありません。
(本多猪四郎の発言などを読むと、もちろん怪獣登場への段取りなどではなく、経済成長に伴うイケイケ的な社会に強い反発を持っていたことが分かります)

しかし、次の『三大怪獣 地球最大の決戦』から様子が変わります。
セルジナ公国の政治紛争から逃れるために日本に極秘入国しようとしたサルノ王女が、航空機事故を機に予言能力を得て、凶悪怪獣キングギドラの出現を公衆の前で予言する・・・というのが発端です。キングギドラが現れる理由は分かりません。強いて言えば、キングギドラが公開前年に完成した黒部ダム(黒部渓谷)から初登場するというあたりが、かろうじて社会背景であると言えます。
(阿蘇付近の炭鉱を舞台にしたラドン、小河内ダムから出現するモスラ、エネルギー補給のために北九州工業地帯に現れるドゴラなど、東宝怪獣は「電力」に関する設定が多い)
おそらく、この辺で「怪獣プロレス」という様式が完成したのではないでしょうか。水爆のメタファーだったゴジラが、人間側として活躍する最初の作品でもあります。

翌1965年の『怪獣大戦争』になると、当時としてもレトロ感がありそうなX星人なる50年代SFっぽいキャラクターが登場し、怪獣を自在に操り、地球に攻撃を仕掛けてきます。時代や社会の背景はさらに希薄となり、強いて言えば、宇宙開拓時代に合わせて宇宙が舞台になったり、X星人が取引条件として差し出す「ガンの特効薬」は、同年に映画化された『白い巨塔』と繋がらなくもありませんが、いずれも劇中ではたいした意味はありません。(ガンの特効薬というのもX星人のウソ笑)

次に本多が監督したのは『怪獣総進撃』ですが、これは企画段階から完全な〈怪獣顔見せ興行〉であり、怪獣ランドという設定はテーマパークの先駆けと言えなくもありませんが、そこに特段のテーマ性はありません。

そして1969年の『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』では、公害問題などもチラリと出てきますが、そのテーマはむしろ2年後の板野義光監督による『ゴジラ対ヘドラ』で強烈なまでに取り上げられることになります。
『ゴジラ対ヘドラ』は、少ない予算を人間ドラマに多く振り分け、アニメーションなどの映像ギミックも駆使して、ある意味、テーマとそれに伴うドラマに意欲的に取り組んだ作品であると言えます。それが成功してるかどうかは判断に困る出来栄えなのですが、ゴジラ史の中でもひときわ異彩を放った、マニアックな人気を得ている作品ではあります。

そして1975年『メカゴジラの逆襲』が、本多猪四郎最後のゴジラ映画となります。
シナリオは公募で選ばれた高山由紀子によるもので、第一作『ゴジラ』のみを参照して執筆したといいます。なので主人公はあからさまに芹沢博士を連想させる科学者で、演者も平田昭彦です。
しかし、社会に恨みを持つマッドサイエンティストという人物像や、人間が素で演じる改造人間など、時代遅れなチープ感が際立ち、ドラマとしては特に見るべきところはありません。
興行的にも不発で、しばらくゴジラ映画が制作されない時代に突入します。

1954年、第五福竜丸事件とキングコングの融合から始まった戦争映画『ゴジラ』は、時代の変化や興行的な事情によって変貌を続け、怪獣はキャラクター化し、バトルが見どころのごども向け映画となり(それが悪いと言うわけではありません)、アニメ作品の隆盛とクロスするように、時代の表舞台か退いていきました。

ちなみにゴジラ以外の本多特撮作品の人間ドラマだと、『ガス人間第一号』『マタンゴ』などが、本編と特撮が融合した秀作であると思います。

🔳『ゴジラVSビオランテ』

『ビオランテ』は、ネットで見掛けるゴジラ・ランキングで、かなりな割合でベスト10に入っている人気作です。マイナスワンを機に久々に観てみたのですが、随所に陳腐な場面が散見されるものの、ドラマとの融合にかなり成功した作品であると思いました。人間ドラマとまでは言えないものの、少なくとも日本製のSFドマラとしては、良く出来ている方だと思います。
成功の要因は、何と言ってもバイオテクノロジーをテーマにしたところでしょう。その後、遺伝子組み換えなどが社会問題化していきますが、それを先駆けたネタ取りです。「ゴジラが繰り返し復活するのは、ゴジラの細胞(G細胞)が持つ自己再生能力である」という設定は、マイナスワンでも活用されていました。
俳優陣の演技がそれほど過剰ではないところも好感が持てます。(高橋幸治演じる博士などは、終始淡々としています)
植獣形態となった体長120メートルの巨大ビオランテとのラストバトルも、怪獣映画として、そこそこ見応えがあります。
と言うことで『ビオランテ』は、怪獣バトルと人間ドラマの融合に成功した作品としてカウントしてもよろしいかと考えます。

🔳『ゴジラVSキングギドラ』〜ミレニアム・シリーズ

ここで「人間ドラマ論争(?)」をする上で、ひとつ確認しておきたいことがあります。
それは第一作を除いて、ゴジラ映画は基本的にはこどもをターゲットとしたエンターテイメントである、ということです。
こども向けだからドラマが緩くてもいいというわけではありませんが、ドラマツルギーが大人向けと同じというわけにはいかないでしょう。実際、小学校低学年とかでゴジラ映画を観た人は、あの分かりやすいストーリーでさえ、必ずしも全部理解出来なかったり、面白がったりしていたわけではないという記憶の方も多いでしょう。
90年代以降のゴジラ映画も、ときに『とっとこハム太郎』が併映されたように、間違いなくこども、もしくはファミリー層がメインターゲットなわけです。
ですから、もともとゴジラ映画(怪獣映画)における〈人間ドラマ〉は、少なくとも観客にとっては、作品の良し悪しの決める重要要素ではなかったはずです。極端に言えば、劇場版仮面ライダーや映画ドラえもんに(大人にとっての)深い人間ドラマを求めないのと同じです。
むしろ怪獣映画における人間ドラマ問題を発生させたのは、特撮は円谷英二、本編は岡本喜八と強く意識して作られた『シン・ゴジラ』かもしれません。

さて、90年代以降、『ゴジラ FINAL WARS』までの作品群は、おしなべて〈怪獣バトル映画〉であり、物語の中に核や環境問題などのモチーフが出てきたとしても、全体としてはあくまでも、爆発・光線エフェクトや破壊カタルシスを伴った怪獣撃退作戦エンターテイメントです。「怪獣プロレス」という言い方は多分に侮蔑的なニュアンスを含んでいますが、悪い意味ではなく、「怪獣プロレス観戦」だと思えば、腹を立てる必要もないかと思います。

・・・とは言え、です。
仮にも物語である以上、登場人物の行動原理となる「きっかけ」は必要です。その辺に注視しながら、以降の作品を見ていきましょう。

『ゴジラVSキングギドラ』
タイムスリップ設定を大胆に導入。23世紀に大国化した日本の発展を阻止しようとする未来人との攻防戦。

『ゴジラVSモスラ』
宣伝目的で日本に輸送中のモスラの卵がゴジラの襲撃を受け・・・。『モスラ対ゴジラ』の大枠を踏襲したようなストーリー。

『ゴジラVSメカゴジラ』
『ゴジラVSスペースゴジラ』
『ゴジラVSデストロイア』

対ゴジラを想定した戦闘組織〈Gフォース〉が登場。要は科学特捜隊みたいなもので、Gフォースの登場により、「ゴジラがときどき出る世界線」となっています。つまり、出現理由を「また出た」と簡易化することが可能になったわけです。
そして、ゴジラ自体は〈自然の脅威〉的な存在として描かれ、ベビーゴジラ(後にリトルゴジラ)を登場させることによって、ゴジラ側の〈ドラマ〉も描こうとしています。
『スペースゴジラ』では、「ゴジラのために殉職した親友の復讐」という〈個人的なゴジラ打倒モチベーション〉が初めて明確に登場します。
『デストロイア』は、タイトルからも分かるように、第一作『ゴジラ』へのリスペクト的な内容になっています。ゴジラの体内炉心が不安定化し、放っておくとメルトダウンしてしま・・・・という、核をメインモチーフにした内容になっています。

『ゴジラ2000ミレニアム』
「ゴジラは、人間の作るエネルギーを憎んでるのか」
主人公がそう推測するだけで、ゴジラ出現の理由は明確には示されません。しかし、クリーンエネルギーの開発といった話も登場し、核の戦争利用ならぬ核のエネルギー利用、つまり原子力発電所の危険性を示唆しているように思われます。

そのテーマは次の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』にも引き継がれています。1966年、ゴジラによって東海村原発と東京が破壊され、首都を大阪に移転、ゴジラの標的となる原発を放棄し、代替エネルギーとしてプラズマエネルギーを推進している・・・という世界線。

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』
ミレニアム・シリーズの中で、独自性が際立つ一本。しかもゴジラを「太平洋戦争での戦死者の怨念の集合体」と明確に設定し、現代の人間たちを殺戮しまくる凶悪ゴジラになっています。
監督の金子修介は「平和な日常の中で懸命に生きる若い世代が、いきなり戦争の影に脅かされる恐怖を意図した」と語っています。

『ゴジラ×メカゴジラ』
「対特殊生物自衛隊」なる組織が登場。メカゴジラ(機龍)はその組織が所有する人間側の兵器と設定されています。
釈由美子演じる主人公は「ゴジラに殺された上官の復讐」という、『デストロイア』でも使用されたモチベーション(個人的理由)が設定されています。
次の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』はこの続編となっています。

『ゴジラ FINAL WARS』
タイトル通り「ゴジラ最終作」と銘打たれた作品で、12種類のゴジラ怪獣に小美人、X星人までもが登場するお祭り作品。従って、人間ドラマを論じる余地は1ミリもありません(笑)

・・・そして『シン・ゴジラ』『ゴジラ-1.0』と続くわけですが、マイナスワン公開以降、盛んに飛び交っている〈人間ドラマ論争〉について、あなたはどう感じましたか?

ざっとゴジラの歴史を振り返ってみると、今〈人間ドラマ〉が物議を醸しているのは、何よりもまず、そもそも『ゴジラ-1.0』がゴジラ映画に〈人間ドラマが問われるような物語設定を持ち込んだ〉ことに起因しているような気がします。〈問われる物語〉のメインは、やはり太平洋戦争が絡んでいるという点でしょう。
敗戦国日本には、劇映画のみならず、ドキュメンタリー、文学、演劇、テレビドラマ、漫画、アニメ、音楽など、あらゆるジャンルで〈前の戦争〉が膨大に問われてきた歴史があります。
それらと照合すると、確かにマイナスワンが描く戦争・戦後はショボく見えると思います。しかし、300万人以上の犠牲者を出し、全国各地を焦土と化し、沖縄では地上戦まで行われた近代日本最大の十字架を、2時間・・・対ゴジラスペクタクルを加味するとせいぜい1時間の尺で簡単に描けるものではありません。
もちろん、1〜2時間の中でもっと骨のあるドラマを描くことが不可能であるとは言い切れません。
いや、おそらく出来るでしょう。
やはりマイナスワンにおける〈人間ドラマ〉は、決して成功ではないと思います。
まず、神木隆之介の敷島が特攻隊員に見えません。メイクや軍服の汚しなどのビジュアル的要因もあると思いますが、やはりシナリオが浅いために、演技プランも詰めきれていないと思います。「深刻な顔をしたら深刻」という記号的な演技(それを演技と呼ぶかは別として)になってしまっていると思います。安藤サクラ演じる隣のおばさんや、特に過剰との指摘が多い佐々木蔵之介などもそうです。
だから「泣く」など程遠いという感じなのですが、世間には「泣いた」という人たちが一定数いるのもまた事実です。しかしそれは「どちらが正しいのか?」という二項対立の議論というよりは、泣けなかった私からすれば「何故泣けたのか?」というそもそも論から探る必要があると思っています。

しかし、それを分析するには、さらに多くの文字数を必要とするでしょう。と言うのは、近年の過剰な演技や、リアリティのない演技は、何もマイナスワンに限った話ではないからです。
例えば、『半沢直樹』や『VIVANT』といった高視聴率ドラマは、いずれも過剰な演技が受けています。でも、徹底した実力主義の韓国ドラマなどを見慣れていると、それらの演技はまるで学芸会に見えます。いや、日本の映画やドラマにも、昔はリアリズムが厳然とありました。小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介らの作品で、人物がやたら怒鳴ったり、顔を極端にしかめたり、眼を剥いたりしたりすることはほとんどありません。むしろ静謐(せいひつ)な演技です。
かと言って、それがもともとのスタイルかというとそうでもなく、日本には歌舞伎という極めて特異な演劇が存在し、一部の時代劇映画・ドラマにも影響を与えています。
誤解を恐れずに言うと、歌舞伎というのは極めて表層的なエンターテイメントです。「意匠を楽しむライブ」と言ってもいいです。歌舞伎を見て「テーマに感動した」「男女の恋心に泣いた」という話を聞いたことがありません。何なら、イヤホンの解説を聞かなければ物語の内容すら分かりにくいわけです。つまり歌舞伎は、いわるゆ西洋的な演劇とはかなり異質なものだと言えます。演劇かどうかすらも分かりません。オペラともまた違いますし。むしろ意匠(衣装)に身を包んだアイドルの方が近いかもしれません。マンガも意匠(記号)の集合体ですよね。

・・・話に付いてこれてますか?(笑)
この論は、まだまだいくらでも長く語れるのですが、この辺で話をふたたびマイナスワンに戻しましょう。

さて、ここで考えてください。
マイナスワンの人間ドラマ部分への批判は、集約すると「あまりに記号である」ということじゃないかと思うんです。感動したという観客は、例えば、スマホを通して電気信号に変換された機械音を人間の肉声として聞いてる・・・みたいな感じで、記号を脳内で変換・増幅してるのかもしれません。分かりませんけどね(笑)
最終的にどれくらいの集客になるか分かりませんか、もし興行収入何十億、百億なんてことになれば、クサい演技・演出と簡単には切り捨てられません。
マイナスワンには、他にも「SPY×FAMILY」のような疑似家族、「下町ロケット」のような民間人の頑張り、安藤サクラのツンデレといった、近年の日本人が好きなパーツがあちこちに配置されています。

そろそろ結論にいきましょう。

私自身は、どちらかというと韓国ドラマのような緻密なシナリオ、実力主義の演技が好みなので、正直、マイナスワンの人間ドラマは全く良いと思いません。ゴジラを倒すまでのプロセスも、過去のゴジラ作品からの切り貼りが多く、特に新しさはありませんでした。ミリオタではないので、兵器などへのオタク的こだわり部分は一切刺さりませんでした。強いて言えば、VFXに関しては、シンゴジよりさらにCG度をアップし、アトラクション的な映像をある程度突き詰めたとは言えるでしょう。点数を付けろと言われたら、100点満点で35点くらいですかね。

ただ、私個人の点数は点数として、もしも今後、マイナスワンの観客動員数が伸びていき、好評価の割合も落ちなければ、「それは何故か?」という問いを客観的に見ていきたいとは思います。
あとは海外での反応ですね。
もし前述の表層説が当たっているとしたら、そうしたハイコンテクストな映像が、果たして海外でも受け入れられるのか?という興味はあります。
この問題は、引き続き考えていき、また新たに考えがまとまったときに、続きを書こうと思います。

最後に、歴代ゴジラを制作したスタッフ、キャストたちの名誉のために、ひとつだけ述べておきましょう。
レジェンダリー版のゴジラ・シリーズも、こと人間ドラマに関してはあまり褒められたもんじゃありませんからね。むしろ日本版の方が当たり率は高いかもしれません。『GMK』なんて、さすが日活を経由した生粋の監督のテクニックだと思いましたもん。そこはさすがに庵野秀明や山崎貴とは格が違うと明確に思いましたね。

長々とお読みいただき、ありがとうございました。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?