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哲学対話で訓練したことを日常に生かす

猫にまたたび、男性にとっては、端的に、尊敬と感謝。
その逆が非難されることだ。
尊敬と感謝さえあれば、すごくがんばるのが男性だ。
女性にとって大切なのは、愛情だ。
女性は愛情が感じられないと、相手を非難する。
卵が先か鶏が先か、それが問題だ。

ある日、そんな文章を見かけた。

特に違和感のない文章だと感じられる人も多いのかもしれない。

けれども、この文章には、検討すべき事柄が多くあるはずだ。


早速、哲学的思考(クリティカルシンキング)してみようと思う。



引用した文章は、つまりこういうことである。

女性は、男性からの「愛情」を感じられないと、男性を「非難」する。

すると、男性は、「尊敬と感謝」を得られていないので、頑張れない。(前提として、「尊敬と感謝」が「非難」と対になっている。)

女性が、男性を尊敬して感謝するならば、男性は頑張れるので、女性を愛することができる。(卵と鶏の関係)



なんてややこしいのだろう?

このややこしさは、おそらく、誤った前提にあると思う。


尊敬と感謝が同列に並べられており、ほとんど区別されていない。

そして、「尊敬と感謝」が、「愛情」と因果関係にあると示唆されていることは、注意深く検討すべきだ。

因果関係にあるというのは、花子が太郎を尊敬し感謝することにより、太郎は花子を愛するようになる。太郎が花子を愛するので、花子は、太郎を尊敬して感謝するようになる、ということである。


今回は、尊敬と感謝が同列に並べられていて区別されていないという問題には、あまり触れないでおく。

考えたいのは、この因果関係が本当に正しいのかどうかだ。

つまり、「尊敬」と「愛情」は「どっちが先か」なんて関係にあるのかどうか。

反例は、容易に考えられる。

実例を出すとこんなことがあった。

私が尊敬する教員は、私に対して特殊な愛情を持ってしてではなく、他の多くの人と同じように接していたと思われる。


私は、相手が自分に愛情を向けてくれていたから、相手を尊敬したというわけではなかった。

私は直接、尊敬の念を伝えたこともあったが、あっさりと退けられてしまった。それでも、いまなお、尊敬の念は変わらない。

相手は私がいまだに尊敬の念を抱いていることを知る由もなく、相手にとってはどうでも良いことだろう。

そもそも教員は、尊敬されたいと思って振る舞っている人でもなかった。名誉や賞賛から身を引き剥がすような人だった。誰かに評価されるかどうかは、彼の判断基準ではなかったようだ。

私は、他の人以上の愛情など受けなかったが、変わらず、これからも、尊敬している。


「賞賛や尊敬を集めるためにやっていることではない」という相手の生き様が、私に尊敬の念を抱かせたのだから、尊敬するのは、私の勝手であり、何か見返りを望んで尊敬しているわけではない。

例えば、尊敬する相手が、スクリーンなかの人、書物のなかの人、歴史的に過去の人物であったとしたらどうだろう?

自分の尊敬の念など、相手は知る由もないだろう。ある意味では一方通行かもしれないが、それで良いのだろう。


「尊敬してくれないなら、愛情がわかない!自分のことを尊敬してくれない相手の話を聞く気にもならないし、話にもならん!」

そういう人がいたとしたらどうだろう?

人に敬われたいという気持ち自体は、必ずしも悪いものだとは思えない。

私は、尊敬の対になるのは、軽蔑だと思うが、誰しも、自らすすんで軽蔑されたいと願っている人はいないのではないか。

先の「尊敬と愛情の卵と鶏」理論でいうと、「愛してくれないなら、尊敬しない」「尊敬してくれないなら、愛さない」ということになる。

例えば、政治家はどうだろうか?

多くの人の敬意を集めなければ、人々の代表とは言えないだろう。きっと、人々の敬意を集めるためには、並大抵の努力ではないに違いない。私たちが、ある政治家に票を入れるとしたら、その政治家に敬意を払っていることになるだろうか。もしくは、その政治家の政策を好んでいるのであって、別にその政治家自身には、興味も関心もないのだろうか。ある部分は、尊敬できるが、別の点では、尊敬できないということもあるだろう。

その時、その政治家が、票を入れた私を愛するようになるとは期待もしていない。また、その政治家から、愛を感じるから、票を入れるわけでもない場合もあるだろう。

赤ん坊が相手ならどうだろうか?

赤ん坊は、大人に敬意を払わない。

敬意を払わない赤ん坊に大人はどうするのか。

多くの大人は、それにもかかわらず、赤ん坊を愛するのではないか。


私たちは、自分に敬意を払わない相手を、愛することができるのではないか。

私たちは、愛されなくても、敬意を抱くことができるのではないか。

私たちは、敬意を払われなくても、相手に敬意を抱くことさえできるのではないか。また、愛されることがなくてさえも、相手を愛することができるのではないか。



「相手が○○してくれないから、自分も△△してやらなかったのだ。」

もちろん、私たちは、そのように生きることもできるもできるだろう。


追記

今回は、尊敬と愛情の因果関係について検討したが、引用文は、「男女の関係について」と限定しているのではないかという批判はありうる。つまり、赤ん坊とか、政治家とか、他の例を出すことでは、的外れだという指摘はできるだろうと思う。だけども、「男性のマタタビが尊敬と感謝で、女性は、そうしたまたたびを与えることで、男性から愛されるのだ」と言ってしまえるのかどうか。依然として、反例は考えられるだろう。

花子が、太郎のことを、ある時は尊敬できるが、ある時は、尊敬できない場合、太郎の花子への愛情はどのようになるのだろうか?
太郎が花子を愛していることに、花子がそれに気がつかないでいた時には、花子から太郎への尊敬は生まれないということになるだろうか?

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