フリッパーズ・ギターとコーネリアスとあのころ


2023年3月26日、慶應義塾大学三田キャンパスにて『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)の刊行記念シンポジウムが開催されました。登壇者は私のほかに、著者の片岡大右氏、IfYouAreHere委員会を組織し検証サイトを立ち上げたkobeni氏、『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』(中公新書ラクレ)の著者で社会学者の伊藤昌亮氏、以上の4名です。オンライン配信も行われ、おかげさまで盛況のうちに終えることができました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

以下の文章は、当日会場でわたしが発表した報告です。片岡氏の了承を得たうえで、こちらのnoteにも掲載しておきます。



2021年夏の小山田さんの一連の辞任騒動件に関しては、インターネットやいじめ問題など、様々な出来事が複雑に絡み合って引き起こした悲劇だという話は片岡さんの本でも詳しく書かれていますが、わたしは90年代のフリッパーズギターからコーネリアスに変化していく模索期に、小山田さんがなぜあのような話をしてしまったのか?について、当時を知らない皆さんや、あの時代の空気を体験してきた皆さんと一緒に思い出して、考えていきたいと思います。
途中いくつかの参考文献からの引用がありますが、私がこれは信用できると判断した雑誌、書籍のみから拝借します。

フリッパーズ・ギター活動期


まず、時代は90年代初頭より少し前に遡ります。30年以上前のことです。ネオアコ好きにはお馴染みの小出亜佐子さんが主宰の「英国音楽」というファンジン(ミニコミ)がありました。その9号に載っていた広告を見て、ペニー・アーケードのライブにお手製のパステルズのバッヂをつけて可愛い男の子ふたりが遊びに行った、これが小山田圭吾と小沢健二です(87年、19歳)。そこでの出会いをきっかけにフリッパーズの前身バンド、ロリポップ・ソニックの音源のフレキシ(ソノシート)付きのファンジンがリリースされ、自主制作のカセットテープのリリースを経て、レコード会社〈ポリスター〉の目に留まったロリポップ・ソニックは、フリッパーズ・ギターと名を変えて89年にデビューします。インディーズ時代のDIYの楽しさやデビューまでの秘話は小出亜佐子さんの著書「ミニコミ 英国音楽とあのころ」に詳しく記載されているので、そちらをぜひ読んでみてください。愛と行動力から何かが生まれる貴重な歴史の一部を記録した楽しいエピソードが詰まっていて、「さらばパステルズバッヂ」の章などは涙なしでは読めません。


さて、89年のデビュー時、小山田さん達は20歳です。〈ポリスターレコード〉の契約プロデューサーとしてフリッパーズ・ギターのデビューに関わった牧村憲一さんは、ご自身の著書「ヒットソングの作りかた」の中で、ロリポップ・ソニックのデモテープを聴いて、"音楽への知識と曲作りに対する繊細な意識が感じられた"と書いています。先ほどの小出さんの本では、"デビューアルバムのレコーディング時には、関係者に自分のやりたい音を伝えるため、アズテック・カメラから〈エル〉から何から全部聴いてもらっている、と小沢くんが言っていた"と書かれているように、音楽への情熱は人一倍あった2人です。ちなみにデビュー時のフリッパーズについて小出さんは、"当時日本でメジャーなレコード会社からデビューするということは、まず日本の歌謡曲やニュー・ミュージックが主流のヒットチャートを狙うということにほかならず、自分たちの趣味を音楽にも、ジャケットにもそのまま押し出したうえに、全曲英語詩でアルバムを発表するなんてことは画期的、これがシブヤ系やJポップ以前の感覚だったのです"と著書で書き綴っています。さらに牧村さんは、ポリスターのスタッフで、のちに〈トラットリア・レーベル〉のA&Rを務める櫻木景さんに、"ロック誌をやめて女の子の雑誌に広告を打てと言った、パンクというのは本質的には尖っているものをそのまま正反対の世界の中に投げ込むということ、つまり何もせずとも彼らの音楽性に気づいてくれるコアな音楽ファンだけではなく、彼らとライフスタイルを共有できるリスナーにもアピールすることで購買層を広げるやり方が機能した"と、先ほどの著書の中で語っています。メンバーの脱退を経て、90年代に入り、フリッパーズ・ギターは小山田圭吾と小沢健二の2人のユニットとなります。先ほどの小出さんの本の中で、"小山田君はオリーブに載っていて一部では有名人だった、彼らふたりが渋谷でレコードを買ってたら声かけられてテレビに出たって話も聞いた"と証言しているように、若くて端正なルックスの2人は、80年代終わりから続いたホコ天やイカ天などが人気を博したバンドブームの時代においてかなり異質で、目を引く存在でした。かくいうわたしもバンドブームの洗礼を受け、イカ天を毎週チェックするようなユニコーン好きの女子でしたが、ちょうどその時期に、フリッパーズと出会います。最初は嫌いだったフリッパーズに徐々に惹かれていくさまは、おととしの夏、『ヘッド博士の世界塔』の発売30周年記念に発行されたファンジン「Forever Doctor Head's World Tower」のコラムでも書き綴ったとおりです。

インタビューと宣伝効果

さて、彗星の如く現れたフリッパーズギターは音楽性、ルックスに加えて、インタビューが群を抜いて面白かった。GoogleもYouTubeもTwitterもInstagramもなかった時代、情報はテレビかラジオか雑誌ぐらいしかなく、ヒットチャートにのぼらないアーティストに関する情報のほとんどは雑誌から受け取るのが常で、音楽雑誌も今では考えられないくらい大量にありました。本人たち曰く"小学六年生からリミックスまで"と語っていたように、フリッパーズはありとあらゆるジャンルの雑誌を網羅していました。当時91年の「PATi-PATi 」の取材にて小山田さんは、"僕らインタビューが面白いって一応言われているから、その自負があるじゃない?そこら辺のこだわりはあるな"と話していたり、またインタビュアーの"フリッパーズは音楽そのもので勝負しようって気は全然なくて、音楽は単に自分たちの楽しみのためにあって、それを商品として売る工夫はまったく別の作業としてあるということ?"という質問に対し、"絶対にそうでしょう"と答えています。またこれは小沢健二の発言ですが、"露出しなきゃなんないからね、悔しいからやるんですよ"とも言っていて、2人の間には共通の認識があったと見られます。人を食ったような発言で嘘をつくこともしょっちゅうでしたが(例えば3rdアルバムのインタビューで実在しないアンダーグラウンド小説からインスパイアされた、などと話したあと、また別のインタビューであれは嘘ですと語ったり)、彼らの生意気な態度は当時の若者からすると賢さの表れであって、たった2年ほどしか活動しなかったグループが30年以上経った今でも語り継がれていることを見ても、それらの宣伝効果は大きかったと思います。

コーネリアスのはじまりと置かれた立場

フリッパーズ・ギターの解散後、93年の9月に小山田圭吾はコーネリアスとしてデビューします。元相方の小沢健二が数か月前にさっさとイメージチェンジを図ったのとは対照的に、亡きフリッパーズの魂を一手に引き受けるような姿勢を見せてくれたことはかなり潔く感じました。スタイル・カウンシルの影響を感じるような、弾けるポップセンスを散りばめたファーストシングル「太陽は僕の敵」の発売当時、北沢夏音さんが編集長を務めていたカルチャー誌「バァフアウト!」のインタビューに饒舌に答えながら、当時話題となったダグラス・クープランドの小説「ジェネレーションX」の中のいくつかの言葉にインスパイアされたと語っています。例えば「あざけり先制」……説明するとライフスタイル戦術。同輩にからかわれることを避けるために、いかなる形でも感情的に窮地に立たされまいとすること。あざけり先制こそ反射性皮肉(日常会話において反射的に当たり前のように皮肉なコメントを述べてしまう傾向)の主要な出口である……といった言葉などを挙げて、インスパイアされた、と語っています。「太陽は僕の敵」というタイトルも「ジェネレーションX」からの引用ですね。また94年の「TVブロス」での1stアルバムのインタビューでは、"世の中のあったかムードに水を差すような、いつまでもそういうことをやってんなよ!って怒られそうなレコードを僕また作っちゃいました"と、フリッパーズの意志を引き継ぐような発言をしています。一方で、当時の音楽誌「REMIX」では、"デビューシングル発売日に、プロモーションのため渋谷地区のレコード店に現れた彼を一目見ようと、中高生少女を主力とした人だかりが民族移動を繰り返す"との表記もあり、フリッパーズから継続した人気をひとりで請け負っていたことで、かなりアイドル視されていたこともうかがえます。この時彼は24歳。あれよあれよとフリッパーズでデビューしてからまだ数年、しかも強靭なブレインであった小沢健二がそばにいない状態で、ひとりで数々のメディアを相手にしなくてはならないという初めての経験。悩める年頃だったかもしれません。舐められてしまうことを気にするような発言も度々あったことは片岡さんの本でも詳しく書かれています。


2019年の『The First Question Award』再発時の「続コーネリアスのすべて」のインタビューで、デビュー当時、立て続けにリリースされたシングルに封入された特典カードの写真でふざけていたことに対し、小山田さんは、

"違和感をすごく感じていたんですよね。自分の評価と、やりたいことと、いまやっていることと、置かれている立場と、そこを楽しんでいる部分もあるし、ああ、めんどくさいと思っている部分もあるし、なんか違うぞと思っている部分もある。俺はこれを一生やっていくのかなということを正直思っていたし"

「続 コーネリアスのすべて」

と、当時のことを振り返っていたのが印象的でした。


コーネリアスの模索期と時代背景

炎上時に問題となった2誌「ロッキンオンジャパン」「クイックジャパン」のインタビュー記事は、この1stアルバム発売時の94年から2ndアルバムが発売された95年のあいだに起こった出来事です。94年あたりから渋谷系というある種の現象から生まれた言葉がお洒落なポップスのジャンルのように使われ始めた頃、渋谷系のプリンスと評された自分を嘲笑うかのように、小山田さんもイメージチェンジを図りはじめます。流行に敏感な気質を生かし、服装はルーズなアメカジへ、音は当時「Looser(負け犬)」という曲で一躍人気となったベックやビースティ・ボーイズなどに近いローファイサウンドへと一気に変化します。94年11月に発売されたエルマロの2ndアルバム『The Worst Universal Jet Set』のプロデュースを行い、その1年後にリリースされた『69/96』は、サウンド的にはエルマロの2ndに近いローファイ感プラスヘヴィメタル、悪戯心とも取れるサンプリングの嵐で、ビジュアル面ではツノを生やしたり、しかめっ面で煙草をふかしたり、アートワークに裸体やドクロを取り入れるなど、バッドテイストを全面的に押し出すようになりました。率直な当時の印象でいうとその変化は、下北の悪い友達とつるんでイキりはじめた若者、といった感じでしたが、小山田さんがやるとそれもありかな、と思わせるような圧倒的なセンスがあったのも確かです。テレビや雑誌に当時のガールフレンドと一緒に登場していたのもその時期で、ストリート系のファッション誌にも常にファッションリーダーとして載ったりと、露出もかなり多かった時期です。この時、彼は26歳。フリッパーズでデビューした時期とは興味の対象も変わり、年齢的にも模索していた時期かもしれません。この頃の小山田さんは今よりも目つきが鋭かったような印象があります。20代の頃の写真を見返せば誰だってそう感じるのと同じように、です。

その時期、音楽業界に激震が走る出来事が起こりました。94年4月、当時人気絶頂のロックバンド、ニルヴァーナのフロントマンである、カートコバーンが亡くなります。死因は自殺だと報道されました。ロックスターとして絶大な人気を誇り、崇拝されていた彼はその苦悩をみずから遺書に残しています。27歳という早すぎる死は、当時の音楽シーンに少なからず影響を与えたはずです。オリジナルラブの田島貴男が渋谷公会堂で、"俺は渋谷系じゃねー!"と叫んだエピソードは、川勝正幸さんの著書「ポップ中毒者の手記」によると94年夏だと記録されていますし、電気グルーヴの石野卓球が新宿リキッドルームで行われた自身のクラブパーティーにて、DJの最中に客がまるでコンサートのように自分を見つめるのを嫌がって、DJブースを大きな幕で覆ったのも95年前後のことです。過剰に神格化されることの危うさを感じ取り、アーティスト側が過敏になっていた時期だったと推測できます。もしかすると小山田さんにも、自分はみんなが憧れるような人間ではない、という意識があって、あのような発言に繋がったのかもしれません。

さて、当時わたしは問題となった記事が掲載された2誌をリアルタイムで読んでいます。「ロッキンオンジャパン」はコーネリアス目当てではじめて買った雑誌でしたし、嘘ばっかりついてふざけていたフリッパーズ時代の延長で、当たり前のようにインタビューの面白さが求められていた頃なので、読んでいて正直どこまでホントか、どう捉えていいのか困った記憶があります。この号が実は「ロッキンオンジャパン」のリニューアル第1号として出すうえで編集者に歪曲されたものだったことは片岡さんの本でも検証されていますが、それ以降の気になるアーティストが載っている号を読んだ時にも、当時巷にあふれていた、芸能スクープなどでたらめな噂を載せて見出しで人を釣る女性週刊誌に近い印象を持ち、あまり本気にしていませんでした。ただ「クイックジャパン」の記事を読んだ時にはかなり嫌な気分になり、心が離れたのを覚えています。内容以前に、音楽活動をおこなううえで必要のない昔話を、しかもあのような企画の中で平気で喋ることにまず失望しました。当時はまさかそれが、1年以上前の「ロッキンオンジャパン」で誤って拡がってしまった情報を修正したくて受けた依頼だとは思わなかったのです。さらにそのような記事が何十年も先まで残り、拡散されるようなツールがそのあと生まれることすら想像できませんでした。

『Fantasma』の世界的評価とスタイルの確立


"いじめをめぐる誤情報を修正するためにいじめっ子代表として新たな取材を受けるという選択については、小山田圭吾はどうかしていたのではないかと言いたくもなる"と、今回の本の中で片岡さんは書いています。わたしも同意見です。しかしそのどうかしていた時期はわずか1~2年のこと。コーネリアスはその2年後の97年に3rdアルバム『Fantasma』をリリースします。音楽的探究心に満ち溢れたこの作品はコーネリアスの代表作となり、日本だけでなく世界中で愛される90年代の名盤として認識され、昨年日本でもドキュメンタリー映画が公開された、ニューヨークの伝説的なレコードショップ「アザーミュージック」の歴代売り上げ20位を記録したほどです。いったん心が離れたはずの私も、夢中になって繰り返し聴いたほど思い入れの強い作品です。小山田さんはこの頃になるとまるで憑き物が落ちたように表情が変わり、現在のフラットな印象に近い顔つきに変化した気がします。そして数年後の2001年には、緻密なサウンドデザインと映像とのシンクロを追求した、普遍的なあの『Point』が生まれます。この時、彼は32歳です。

これらの出来事を見てきたうえで、2019年の『Point』再発時の「続 コーネリアスのすべて」のインタビューで、"なぜ普遍性や抽象性に向かったのか?"という問いに対し、しばらく黙ったあとで小山田さんがゆっくりと言葉を選びながら、"ひとつは『Fantasma』を出して、聴いてくれる人たちが世界中にいるんだということがわかったから。あとは言葉だけではないところで伝えられることというか、時代も場所も限定しないで聴かれる音楽みたいなものに興味が移っていった"と答えるのを目の前で聞いた時には、すうっと胸が軽くなるような、なにか整合性が取れたような感覚がありました。悩みや迷いを抱え、失敗もしながら、やっと自信を持って世に出した仕事が音楽そのもので正当に評価をされたこと。その経験が大きな力となり、のちのスタイルにも反映されていき、様々な作品に昇華されて、視野を広げていったことが、現在の小山田圭吾への信頼に繋がったことは間違いありません。


その変化と偉業は本人の作品だけでなく、他者との関わりからも感じ取れるということは2022年1月にわたしのnoteで公開した「リミックスワークにおけるコーネリアスの変遷」に詳しく書いて残してあるので、ご興味ある方はあとで読んでみてください。


最後に、「Cornelius × Idea  Mellow Wavesーコーネリアスの音楽とデザインー」という本を紹介します。テキストは、ばるぼらさんです。


非常に資料性の高い優れた本で、わたしもコーネリアス関連の記事を書く際には大変お世話になっているのですが、この本の最後に小山田圭吾のこれまでの活動をまとめた年表があります。2017年の『Mellow Waves』リリース時までの記録だけでも12ページに及ぶほどのたくさんの活動と多岐にわたる関わりが、小さい文字でびっしりと記録されています。『Mellow Waves』以降の仕事も加えるともっとです。このデータを見るだけでも、コーネリアス名義だけでなく、真摯に音楽に取り組んできた97年以降の実績の多さがうかがえます。この長年培って積み上げてきたキャリアの数々をゆっくりと順を追い、物事の背景を把握しながらきちんと時間をかけて読みとることもなく、94年のページに一瞬で戻して破り捨てるような感覚で起こってしまったあの夏の炎上。その時、小山田さんはもう52歳でした。あの炎上が、問題となったオリンピックの音楽担当から外すことだけでなく、自分の仕事の中でも特に思い入れが深いものだと本人の声明文で語っている大事な番組の担当までを奪ってしまうほど果たして正当なものだったのか?ということを、本人が少しずつ活動を再開できた現在でもわたしは疑問に思っています。






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