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中島らも「白いメリーさん」書評(2)(評者:根本龍一)

中島らも「白いメリーさん」書評(『日本文学100年の名作 第8巻 1984-1993 薄情くじら』収録)

評者:根本龍一

 『庭訓』という言葉がある。これは、孔子の子の伯魚が庭で通り過ぎる際に『詩経』と『礼』を学ぶように呼び止めた故事から出た故事成語である。この言葉は、家庭内で親が子に教育することという意味であるが、「君子であっても、子に特別扱いはしないのである」という内容でも知られている。孔子であっても『特別扱いをしない』という特別な意識をもって親子間の距離を取り扱っていたのだから、これについては、現代の私たちが細心の注意をもって取り組まないことがあるだろうか。
 この物語は、主人公である巷の噂を調べることを生業とするライターが、最愛の娘の由加が話した「白いメリーさん」の噂を追っていくその顛末を記していくものである。由加は、彼女を育ててくれた母と祖母に先立たれており、彼女の内面には、その残滓ともいえる祖母、母の「役割」的な部分が存在している。主人公は、そんな「亡者の鋳型に忠実にそって固まった」娘の将来を案じている。しかし由加のことを案ずる一方で、主人公の行動の奥底には自身の「うわさ」のレポートの売文稼業がつねに存在しており、かつ主人公は由加との関係性に何かをしようという気概を持っていない。「なぁなぁ」で娘との関係を進めようとしている。そのまま、何も起こらずに進んでいけば主人公のいうとおりに「奪っていく男」の出現で由加がすべての役割から解放されて、由加は由加自身の人生を歩み始められるだろう。だが、作中で、主人公は、「白いメリーさん」を通じて由加の交友関係に踏み込んでしまう。
 ここから彼女は、彼女の形成した交友関係に生じたイレギュラーな不和から、ノイローゼになってしまい、物語の最後には、主人公の目の前で白い人影の海に「白いメリーさん」として迎え入れられて制止の声むなしく消えてしまう。これは酒に酔った主人公の幻視かもしれないが、由加がすべてを喪失した状態となって彼の目の前から消えていくという大きな不安を抱えていること、そこに白いメリーさんが関係していたことは間違いがないだろう。
 当作品における由加は、親の呪縛を大きく受けた子供であり、自分の力で獲得したものが親の不注意な干渉で破壊されてしまう。「役割」という言葉が作中でも出てくるが、本作では不憫な役割として存在している。
彼女は、年頃の複雑な女の子であり、主人公からしても下手に触れるべきではないというように主人公に扱われている。だが一方で、彼女は娘であり父としては導かなければならない存在でもある。主人公は、この二面性に自分自身で気づきつつも、何の手立ても取らないことを選んでいたが、「仕事に使えそうなことがある」という一点だけで、この一線を何の配慮もなく超えてしまう。その結果、当作品の結末では、彼女は母、祖母を失って役割を喪失してしまっただけでなく、自身の力で作り上げていた交友関係も失ってしまい、すべてをなげうとうとする由加が描かれる。(ラストシーンのそれは主人公の想像の世界かもしれないが)
 人の内面にずけずけと踏み込むことがご法度であるのは言うまでもないが、「白いメリーさん」においては、都市伝説にからめて、大人からすると一見関係のない所から、不安定な年代の女子が崩れていってしまうすがたを描いている。それも、父である主人公の手によって。由加に父親としての役割を求められている主人公は、「頼れて、間違ったときには叱ってくれる」存在であり、同時に「唯一の保護者」であり、「家という立場を提供してくれる家族」でもある。その存在から交友関係を崩す一手を下されるのは不憫としかいうほかない。子供が作る交友関係は彼ら自身の能力によってはぐくまれる初めての成果である。そこに親が無遠慮に土足で踏み入ってしまえば、彼らの成果はいとも簡単に崩壊の予兆を見せるだろう。あるいは彼女に主人公が慎重に接していればそうならずに、祖母、母の役割の継続という呪縛からおのずから解放され、自分の力で形成していた交友関係も失わずに済んだのかもしれない。最も近い家族という間柄であるからこそ、その触れ合い方、距離感、立ち回りは常に気を配らなければならない。

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