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1981年の冬休み。

 皆さま、はじめまして。note初投稿でございます。まだ何を書けばいいのか掴めていませんが、GO→STレーベル関連のブログGO→ST通信電子版では取り上げない内容やより掘り下げる場合、ここを使っていこうと考えております。

まだまだ頭の中だけで妄想している段階ですが、よろしくお願い致します。

・この記事は文中敬称略とさせていただきました。

 1981年1月1日に「ビートたけしのオールナイトニッポン」がスタートした。
 つい最近まで100日間続いていた水道橋博士のツイキャスがあまりにも面白くて、途中からではあるものの私は続けて参加していたのだった。
そんなこともあって、この時期のカルチャーを振り返るには私の考えを述べるだけよりも、水道橋博士についての考察を交えながらの方がわかりやすいかと思ったのでやってみることにしたのだ。

 「ビートたけしのオールナイトニッポン」を初期段階で評価した人はかなり少数なはずだが、小林信彦はその一人に挙げられる。
当時、夕刊フジに連載した記事をまとめた『笑学百科』に「ビートたけしの猛毒的DJ」として、偶然の出会いについて触れている。

・小林信彦『笑学百科』(新潮文庫)


しかも、それ以前に「恋のぼんちシート」を購入したエピソードがあって、近田春夫やジューシィ・フルーツについても書いているのだ。

 水道橋博士主催イベントに近田春夫が出演した際、この件、つまり「恋のぼんちシート」のパクリ問題について語っていて、それがファンが選んだアサヤン名場面としてピックアップされている。
詳しくは映像をまず見てほしい。

 個人的には現在のサンプリング問題とは違って、それほどシリアスになるべきではないと考えている。
この問題でビートたけしが筒美京平の名前を出して結論づけたことも、近田春夫と筒美京平の関係を考えると納得できるのだ。

 その後、水道橋博士はビートたけし門下となったわけだが、近田春夫、鈴木慶一、ムーンライダーズに深く影響されたことを考えると非常に興味深い。

 水道橋博士がオリジナル「気分は歌謡曲」を自らの「本業」で取り上げたり、「浅草橋ヤング用品店」で共演した際に親交を深めたエピソード、そして上記のイベント「アサヤン」出演時の模様を見れば、近田春夫の熱心なファンだったことは明らかである。

 ちなみにこのエピソードのもう一人の登場人物、鈴木慶一が『バラエティ』(角川書店)で「2001 Bock'n' Roll Club」(鈴木慶一と旬のミュージシャンとの連載対談)の連載を始めたのは1981年1月号(おそらく1980年11月20日頃発売)だった。第1回目のゲストは加藤和彦。
その後、PANTA、大滝詠一、高橋ユキヒロ(当時の表記)に細野晴臣等々が登場している。

・鈴木慶一の「2001Bock'n' Roll Club」最終回
「バラエティ」(角川書店)1983年1月号 

 水道橋博士が資料を提供した柳澤健「1974年のサマークリスマス」(集英社)に掲載された、林美雄のTBSラジオ「パックインミュージック」の代表的コーナーである「ユアヒットしないパレード」の1980年上半期の順位をここで示すと、
1位「雨上がりの夜空に」RCサクセション
2位「ルイーズ」PANTA&HAL 
3位「アンジェリーナ」佐野元春
4位「モダーン・ラヴァーズ」ムーンライダーズ
5位「憧れのラジオ・ガール」南佳孝
6位「ブレイクアウト・ジェネレーション」一風堂
という楽曲、顔ぶれである。
ちなみに2位のPANTA&HAL「ルイーズ」のプロデュースは鈴木慶一(アルバム『1980X』からのシングル・カット)。
ツイキャスで博士がPANTA&HALの『マラッカ』をメチャクチャ聴いたという話がチラッと出た瞬間、私が非常に納得したのはこの本で「ユアヒットしないパレード」のリスナーだったと知っていたからだ。

 更に述べると鈴木慶一が編曲をして、演奏をムーンライダーズが担当した斉藤哲夫「ダンサー」が1979年の「ユアヒットしないパレード」にチャートインしている。
ちなみに斉藤哲夫の代表曲である宮崎美子が出演したCM曲の「今のキミはピカピカに光って」の作曲と編曲も鈴木慶一、演奏はPANTA&HALのHALというのも素晴らしい。

・柳澤健「1974年のサマークリスマス」(集英社)

 そして、一風堂「ブロークン・ジェネレーション」にゲスト参加している遠藤賢司の代表曲のひとつ「東京ワッショイ」は浅草キッドの出囃子なのだ。
(南佳孝「憧れのラジオガール」も細野晴臣は不参加だが、YMO関係~坂本龍一、高橋ユキヒロ、大村憲司に松武秀樹の演奏による作品だった)

 ついでに書くと、ムーンライダーズの特集をしたり、PANTAのインタビュー、大滝詠一のロングインタビューなど、色々と興味深い記事を掲載していた「ミュージック・ステディ」の2号(現在、貸し出し中、表紙は忌野清志郎)ではRCサクセションの特集や鈴木慶一と高橋ユキヒロのビートニクス、ムーンライダーズのバンド内バンドのアートポートの貴重なインタビューとともに、ビートたけしのアルバム10選(コーナー名は「私の好きなアルバム」)が載っている。
 そこでは泉谷しげるとブルース・スプリングスティーンのアルバムを挙げ、バンド編成が共通していることに触れているのだった。
(ビートたけしのバンドのサックス・プレイヤが元サリー、ビブラストーンの佐藤公彦だったというのは偶然にも程がある。更に続けると佐野元春が自らのバンドにサックス・プレイヤーを入れたのも当然スプリングスティーンからの影響があると思われる、って長いよ) 
 泉谷しげるの1980年代前半のバンドメンバーは沢田研二のバックバンド、エキゾティックスと(鈴木慶一が初期をプロデュースした)リアル・フィッシュの混成バンド(しかもドラムスは鈴木さえ子)だったことを考えるとあまりにもドラマチックな展開だと思う。
 その上、ミュージック・ステディの当時の編集長、市川清師は片岡鶴太郎(当時のアーティスト名はつるたろーだった)のミュージカル・コーディネーターだったことを付け加えておく。

・ミュージック・ステディ創刊号(ステディ出版)
1981年8月20日発行

 ここで名前が出てくる方々のほとんどが現在も現役であることが重要である。
40年前の疑問や憧れを検証し続ける博士の姿勢に敬意を表したい。

 そして、現在、水道橋博士が音楽について、その完全主義からなのか、触れることが少ないのは残念でしかない。

 博士がツイキャスで音楽について触れる度にワクワクしてしまうので、博士が音楽を語る場所はどこかに残してほしいと思うのだ。

・水道橋博士「藝人春秋Diary」(スモール出版)
現時点での水道橋博士、最新作


・「古畑任三郎」出演時(画面撮り)の水道橋博士
少年の面影を残した一枚

 最後に、この記事を2021年内にどうしても書きたかったのは、「ビートたけしのオールナイトニッポン」の開始から40年という記念の年だったことと、1981年に日本のポップス&ロックにとって重要なアルバムが数多く発表されたからなのだった。

 水道橋博士のツイキャスは100日続けたところでめでたく終了。一問一答で卒業する生徒たち(参加者)の名前を読み上げる形が最後だった。。
と思っていたら、そう簡単に物事は進まない。新たにツイキャスを始めるということで生徒全員の卒業自体が棚上げになってしまったのだった。。
ま、そういうことだ。


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