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色言語

#SF小説
 まるで落書きのような顔だった。
 
 僕は朝起きると散歩するのが日課だった。
 その日の朝も目が覚めると、顔も洗わないまま玄関のドアを開けて外に出た。
 犬の散歩をしているおばさんやランニングしているお兄さん、そして杖をついているご老人たちを横目に、僕は早朝の清々しい空気を吸いながらハイキングを楽しむつもりだった。
 でも――僕は家を出てから、まず自分の家がコンクリートの塊になってしまっていることに気づいた。
 四角い、直方体を組み合わせただけの消しゴムのような家が幾つも立ち並んでいる。
 きっと疲れているだけだ。
 僕は自分にそう言い聞かせて、とりつかれたように懸命に走った。
 そして町につくと、いつもとは違うものが待ち構えていた。
 ちょうど鉛筆でぐしゃぐしゃっと書きなぐったような顔の人々がたくさんいるのだ。
 首から飛び出した異様なそれは、見た目には針金を丸めたかのように見える。
 体はみんな人間だった。
 でも顔だけは、得体のしれない何かにすり替わってしまっていた。
 
 僕は唖然としていたが、耐えられなくなって公衆トイレ――トイレなのかすらも分からないが――へ駆け込んだ。
 鏡を見て、僕は気づく。
 僕自身の顔も、まるで幼稚園児の落書きのようになっていた。
 黒い少し太めの線の塊が、もともと首からにょきっと突き出していた僕の不細工な顔にとって代わってしまっていた。

 茹でるのに失敗したラーメンのようだ。
 僕は笑おうとした、それも必死で。

 頭の中では声が出そうになるが、言葉が発せられることはなかった。
 自分で考えて苦笑してしまう。
 そうか。発声器官もないのに、声なんて出るはずもないか。
 
 僕は外国語の勉強が趣味だった。
 そして、言うまでもなくここは言語のない世界だった。

 *

 冷静になって町をもう一度見てみた。
 町は全体が巨大なガラスで覆われていた。天蓋のガラスを支えるように聳えたつ無数の柱、あるいはビルは所々窓ガラスも嵌っていない四角い穴が開いている。
 昔のヨーロッパ人が作ろうとして失敗したような都市建築は、ひたすら重厚な無機質さを伝えていた。
 壁、土、植物――
 全てがCGかコンピュータで機械的に切り出したように見える。
 人だけが動き回っているが、頭の上に乗っているのはあの不気味で非合理的なぐしゃぐしゃの塊である。

 よく観察していると人々は『会話』をしていた。
 言語、といえるのかはよく分からない。
 しかし彼らはお互いに近づくと、呼応して黄色く光った。
 ほら、今右から歩いてきた人を仮にA、左から駆け付けた人物をBとしよう。
 彼らは出会い頭にまず針金を黄色い色に変える。(緑色の場合も、紫色の場合もあるのだがどのような差異があるのかは不明)今Aが針金を黄色に変えたところ、Bもそれに合わせて針金をAと同じ色にした。
 そして色はその後も様々な色に変化するが、一方がたとえば青色になればもう一方も決まって青色になるという具合に、お互いに模倣し合って色を変えるという性質を持っていた。
 彼らの『色言語』と呼ぶべき現象が一体どの程度の多様性や意味の伝達性を持つのかは知らないが、とにかくコミュニケーションツールであることは確かだった。

 『色言語』は音の代わりに色を使って言葉を発するという奇妙な代物だった。

 *

 僕は彼らに近づいて話をしてみようと思った。
 接触を図ろうと思った。
 エイリアンだろうが、なんだろうが、ファーストコンタクトというのは緊張するものだ。
 別になんでもいいから、誰かと話したい。
 僕はこの町でひどく孤独な気がしていた。
 僕は人なのかも分からない通行人たちに、道を尋ねるふりでもして話かけてみようとした。

 ところがみんな逃げてしまう。
 クモの子を散らすように、わらわらと僕を見るだけでみんな逃げてしまうのだ。
 激しい動悸がした。
 自分がまるで阻害されているような、拷問されて迫害されているような気分。
 それはまるで生きている価値すらも感じない、純粋なまでの生きたいという欲求だった。
 
 誰か、誰でもいい。
 俺の話を聞いてくれ。
 そして気がつくと、みんなは僕の周りに距離を置いて歩くようになってしまっていた。
 もう、こうなってしまうと終わりだな。
 
 現実にいたときもこうだった。
 僕の周りの人間たちは、僕のコミュニケーションの取り方に問題があると言い続けて、僕はどうしていいか分からずに一人ぼっちになっていた。
 たまらず誰かと話をしようにも、話せば話すほど追いつめられていく自分――

 いつからか、僕は自分の顔が悪いせいだと思い込むようになった。
 だけど、もう今は顔もない。
 なのにみんな僕を拒絶するのは、やはり僕が狂っているからだ。

 僕は顔を触ろうとしたが、目も鼻も口もない自分がどうして生きているのかという不条理に耐えかねて深く思考することをやめた。

 僕は自分が人間であることを拒んでいたのだろうか――
 いや違う。僕は人間であったけれど、言葉を使って物を考えているけれども、この世界でそういう人は僕しかいない。

 *

 人工的過ぎて自然物が一切ない町が、一人の人間によって存在意義を変えることはない。
 形も変わらない。
 色あせて見える全ては、僕の神経にただならぬ焦燥を与え、僕の心を絶望で満たす。

 だけど、そこに一人の人がいた。

 僕は彼女がどことなく女性的な感じがしたので、彼女と呼ぶことにする。
 彼女は僕と同じ光らない人だった。
 彼女の針金はまるで煤で黒く汚れてしまったように、まったく光ることがなかった。
 誰も彼女に近寄らなかったし、彼女はメタセコイア――僕が勝手に名前をつけただけで、本当は緑色の木のような何か――の下でだんまりと、何もしないままじっと椅子に座っているのだった。

 僕がこの世界に来てから何日の時間が経過したか分からないが、少なくとも彼女は最初に見た時からずっとああだった。
 いつ見てもいつ見ても、彼女の針金はブラックホールに飲み込まれそうなぐらい黒ずんでいた。

 僕は彼女に近づいて、話しかけようとした。
 言葉が分からないのに話しかける、というのは勇気のいる行為だ。

 でも僕は外国語が得意なのだ。
 人間が嫌いなのに、外国語が得意というよく分からない人間である僕なら彼女を理解してやれる。
 そういう傲慢で、僕は彼女に歩み寄った。

 少し間隔を空けて、彼女の隣に座ることにした。
 常しえの沈黙は、僕の心をどうしようもないぐらい蝕んでいた。
 誰もしゃべらない世界というのは、どうしようもないぐらいとても静かだった。

「ねえ――」

 そんな言葉が出ることはない。
 声が出ないのだ。
 僕は代わりに地面に指で文字を書こうとしたが、目もないのに、文字なら読めるかもしれないというのはどうか。
 文字を書くことも躊躇われて、僕は途方に暮れた。

 僕は隣の席に座ったまま、ふんぞり返って天を仰いだ。
 空は青かったが、原色に近い青色はどことなく人間世界の空とは違っていた。

 やけくそになった僕は、膝の上にちょこんと添えられていた彼女の小さな手を握った。
 彼女はとてもびっくりして僕の手を思い切り払いのけたが、同時に彼女のずっと変わらなかった黒色の針金が、一瞬白くなった。
 この時、僕は気づいていなかったが、僕の汚れてしまった針金も白くなったのだそうだ。

 白黒テレビなんだな。
 僕たちはようやく旧時代的な『会話』することに成功したのだ。

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