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デトックスと、遊び心。

山も好きだけれど、何種類かの花粉による花粉症と、蚊となめくじのようなニョロっとした生き物が怖くて、少々落ち着かない。鳥は大好きなので、鼻をすすりながらでも、鳥には挨拶をしたいけれど。

その点海はいい。いくらでも眺めていられるし、蚊も、あまり気にしなくていい。(ブヨはいる。怖い。)トンビも、浮かれてサンドイッチなどを食べたりしなければほぼ無害だし(カラスと頭上で魚を取り合う空中戦は迷惑)髪はバサバサになるけど、花粉で顔がグショグショになることもない。入水するのを想像すると楽しくて怖くてゾクゾクする。泳ぐことは人並み以上に得意だけど、なんだか怖い。何がと言われると困る。

時々、裸足で波打ち際を歩いていると、デトックスというのはこれかーと感じることがある。その時はとても自然にそう思っていたけれど、結果として「元気になる」という同じ作用について、どうして「もらっている」ではなく「抜けている」と明確に感じるのだろう。今朝、不意にそのことが不思議で堪らなくなった。

何かが「抜ける」「なくなる」ことで生き返る感覚というのがある、ということに、普段、あまりに鈍感に生きているのだと思う。

何かが「ある」という状態だけに依存したり満足感を得ようとしたりして、結果的に持ちすぎたりする。間や空白と言ったものの中に、次を考える可能性があることを、忘れがちだ。パソコンの方が、その点一貫している。容量が増えすぎると、効率が下がるだけでなく、持ち合わせた機能も最大の力を発揮できなくなる。パソコンのように容量が可視化されないから、私たちはいつも少し頑張りすぎてしまう。

私は浜辺で、確かに「抜けて」いくのを感じていた。
見えないのだから、抜けてなどいないのかもしれないけれど、入ってくるものよりも余分なものがなくなる感覚があった。

人生の道を、長く歩みを続けるのに、最適な荷物の量、というのがあることを感じる。最近読んだ本に、暑さの中で、持っていた上着を邪魔に感じた主人公が自分を律するために「備があるから、寒さの夜を超え、遠くへ行ける」というようなことを言っていたのが、心に残っている。

心や、記憶や、知識や、欲や、実際に手にした物の量もそうだし、そういう最適を決める物差しというのは、いつも、葛藤の中で育まれるのかもしれない。
葛藤を繰り返して、教訓になって、そうやって、やっと自分をしっかりと手懐けられるとしたら、様々なことは、やはり無駄じゃない。

日常の中には、いつも何かがあって、何かがない。
ないことが、悪いばかりではないとわかると、やっぱり少し軽くなる。
遊び心というのは、もしかすると、「ない」ところにこそ、ちゃんとあるのかもしれない。

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