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135の続き

先日、キックスクーターを知り合いに譲った。

以前、仕事場が駅から遠くて、大人用のキックスクーター、所謂キックボードを買ったのだけど、その会社を離れたことや、引越しなどで、乗る機会がめっきり減っていた。

友達がうちに遊びに来た時に、自分が自転車、友達にキックスクーターを貸して何処へか遊びに行くくらいだった。友達に自転車を貸さないあたりひどいやつだと自覚している。キックボードを自転車と同じ速さで走らせるとそこそこキツい。

引っ越してからは特に乗ることがなくて、知り合いに募集をかけたところ、子供用に、と手を挙げてくださった方がいた。

引き渡しの日「愛着があったのではないですか」と聞かれ「思い出はあるけど、このところあまり乗ってあげられないので」というと、経年の傷なども気にせずに、喜んで貰ってくださった。少し寂しく、それ以上に嬉しかった。

早起きしたので帰ってからは、れもんハウスに今度持っていく本の仕分けをした。前の家で使っていた照明やカーテンや椅子などもたくさんれもんハウスで使ってもらっている。

引越しの際に要らないものは大体売ったり、譲ったりしてしまって、本も要らないものは仕分け済みで、ほとんどもうない。なので、あげるというよりは、自分がそこに読みに行こうと思っていて、れもんハウスで読みたい本をイメージしながら選別している。いい形のシェアになるのではないかと少し心が弾む。

仮に、自分よりその本を必要とする人がいたら、いつの間にかその人のものになっても良いと思うし、また本が自分のところに帰ってくることもあるかもしれない。

出会いというのは、人と人に限らず、存在するなあ、と仕分けをしながら感じた。

モノはモノだけれど、モノを介して呼び起こされる記憶というのがある。思い出す人がいる。外付けのハードディスクのように思えて、不要でも手放せないモノが時々出てくる。それでも心も部屋も、スペースがないと切り開けないことがあるから、どこかで区切りをつけていこうと決めたのが去年。

その去年の初め、noteに135のタイトルで断捨離を135日間続ける投稿をしてからは、大切なモノは全て「今」のためにしか存在してないことを強く感じて、過去のためにある過去のモノは、ほとんど手放した。

長く使えるものを見定めること、未来に対して悲観的にならないこと、これはモノと向き合う上でとても大切だなと感じる。

なんでこんなにモノと向き合っているかというと、感謝してるし、好きだからだと思う。

いやしかし、旅先で出会ったものはなかなか手放せないものだなあ。




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