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関係性に名前をつけるなかれ

恋人はいますか?
恋人って、なんですか?

もしかすると、一般的な人類であるみなさんは、この質問に対する答えを簡単に思い浮かべることができるかもしれません。しかし、私にはこの質問の答がよくわからないのです。

恋人、友達、セフレ、パートナー、ご主人さまと奴隷、飼い主とペット。

なんでもいいんですが、そういう関係性の名称って、どうしてつけるんでしょう?

関係性が先か、名称が先か

目の前に誰か人が現れたとして
「こんにちは、はじめまして。私とお友達になってください」
と言ったとします。そのときに2人は「友達」になるわけですが、その場合は友達という名称が先に与えられ、そこから実際に友達という関係性になっていくわけだと思います。

逆に、なんとなく席が隣になった同級生とちょくちょく話すようになり、LINEを交換して、なんとなく遊んだり話たりするようになって「こいつ、友達だな」と思ったとしたら、関係性がそこにあり、友達という名称がそこにふわっと着地したわけです。

関係性の名称へのイメージ

先日、Twitterのトレンドに一日中「共依存メンヘラ」なるパワーワードが居座った日がありました。トレンドの正体は、ZOOLの新曲「ササゲロ-You Are Mine-」の歌詞がヤバく大いに話題になった結果です。

こちらの曲、最高だったのでぜひとも聞いていただきたいのですが、それはともかくとして。歌の冒頭から「他の男と話すな 連絡先も全部消せ」で始まる曲でして、まあヤバい。重い。「俺は重いぜ」って歌詞でも言ってる。激重くん。

でも、でもなんですよ。彼にとっては「恋人」はそういう、絶対的に自分のものである存在なんですよね。それはめちゃくちゃきっと当たり前のことで、(病んでるとか病んでないとかおいておいて)「恋人なら自分のことしか見えない状態が当たり前」なのが「恋人の関係性」としての認識なわけです。

関係性のイメージが彼の恋人とずれていたら悲劇ですが、ずれていなければ幸せな共依存関係が成り立って、一生2人の世界で幸せに過ごしてほしいなあ、となるわけです。(現実世界ではなかなかそううまくも行きませんが)

「恋人」ならまだ「世間の一般的イメージの平均」がありそうですが、「セフレ」だとどうでしょう?
「セックスもする友達」だと思ってる人もいれば「セックスをたまにするだけの相手」と思ってる人もいますよね。
前者の認識の人が後者の人に「たまには飲みだけで遊びに行こうよ!」みたいなことを言うと「エッ!! ちんこがしゃべった!?!?!?」みたいな衝撃を受けるわけです。

汝、関係性に名称をつけるなかれ

私は、たぶん誰よりもかなりロマンチストなのだと思っています。

冒頭の「恋人がわからん」というのも、今まで読んだ無限の物語で描かれているのは、胸が焦げ燃えるような烈情の結果の感情である恋ばかりで、そんな感情は今まで持ったことがないな~という結果の「わからん」です。
想像するに、世間一般の人はそんな激しい感情ではなく、もっと緩やかな感情を「恋」と呼んでいる気がします。違うのかな、みんな本当はすごい感情を抱くのかな?

「恋人」ならこうあるんだろうなあというイメージ、そうしたイメージが色んな関係性にあります。「ペット」になるなら、「飼い主」さんはこう扱ってほしいなあ、こう扱われるんだろうなあ、これくらいの関係なんだろうなあ。

関係性への名付けは2人の関係をわかりやすくします。しかし同時にその名称に縛り付けてしまいます。それ以上でもそれ以下でもない。
「恋人」なら私を優先してほしいなと思う自由も言う権利もある気がするけど「セフレ」なら微妙な気がする。でも別に、私があなたにどういう感情を抱いて何を言うのも、全部私に権利がある。もっと自由で、もっと複雑で、2人だけの条件があっていい。

さらに言うと、関係性に名前がついた瞬間に、その関係性を演じるごっこ遊びが始まってしまう気がします。「奥様」と呼ばれだしたらなんだか奥様になるような。「人妻」属性がついたら急に巨乳で貞淑で料理上手になるような。

だから、本当に大事な人とは関係性に名称をつけずに、ただ2人でいられたらいいなあ、とぼんやり思います。

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考える参考

ラベリング理論

それまでの社会病理学的なアプローチでは、たとえば“髪を染めている者が「不良」だ”などと勝手に定義することによって「《不良の定義》は客観的に成立する」としてしまうような、非常に単純な考え方をしていた。だが、ベッカーは1963年に初版が発刊されたOutsidersにおいてそうした考え方を排し、「逸脱などの行為は、他者からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出される」と指摘した。

サピア=ウォーフの仮説

「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものだ」とする立場に疑問を呈し、言語はその話者の世界観の形成に差異的に関与することを提唱する仮説。

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閑話休題

何年か前、私は自分のことを「ポリアモリーなのかな?」と思っていた時期があります。

今となってはそうじゃない気もしますが、モノガミー的な社会にいまいちピンと来ないのは変わりません。しかし、自分のセクシャリティや立場や主張は自分の中にしっかりあればいいのであって、それにどういうラベリングもいらないんじゃないかなあ、と思うくらいにはのんびり過ごしています。


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