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将来への不安

今日は、盛大に寝坊した後ずっとベッドの上で溶けてた。
夕方のバイトが始まる寸前まで最低の気分だった。

今日寝坊したのは昨日の夜noteを書いていて、完成したころには3時を過ぎてて、その後また何回も読み返しては修正しを繰り返していたから。アドレナリンて感じ。

消えたいなーとか、我の人生いつもこうだとか、こんなにつらいのって私だけ?それとも全員?とか、精神科の先生に相談しようとか。
文字にすると陳腐でありがち。
けどその時の自分は真剣。
お決まりのセンチメンタル文句連発。
とにかく沈んでた。

けど制服着て売り場へ行って、「おはようございます。よろしくお願いします。」ってパートさんや店長と目を合わせて、笑顔を交わすと、さっきまでのどん底が嘘みたいになくなった。むしろいつもよりスルっと言葉が出る。優しさに触れたと嬉しくなる。実にちょろい。

じゃ私のどん底が大したことないのかというとそういうことではないと思う。不安と焦りと失望感が半端なくて。感情を消したい。何も感じなくなれば楽やのにと思った。自分以外の人間を生きたことがないから、自分の苦しさとか不安に共感してあげられん。「被害者面すんな。皆同じくらい辛いなか、それでも毅然として乗り越えてんねん。」なのか、「あんたそのスペックと脳みそでようやってるよ、あんたに与えられてる試練が特別多いんよ。」なのか。私が特段不安を感じすぎる人なら、あるいはADHDのように適応しづらい特性があるなら、皆と持ってるものが少し違うなら、納得はできる。できるが、それでも、やっぱり自分以外の人間はやれない。私はこの自分でこの自分の人生をやってくしかない。つまりその辺のことは、考えてもあまり意味のないことかもしれない。人との比較少ししか意味なし。

とにかく、私は弱音を吐きたかった。
誰か理解ある人に話を聞いてもらい、「うんうん、その通り。よくぞ言ってくれた。」って肯定してもらいたい。誰かからの好きがほしい。
どん底気分の中で、自分のことばっかり話して、自分のことばっかり見てる。自分大好き。

今の自分の存在意義って家族しかないなと思った。だからもし家族がいなかったら、すぐ死ぬかも。でも実際そうはならないやろな。今の自分は本気で死ぬ気なんかないし、家族がいなくなっても、ボーっとなんだかんだ生きていくよな。それに私はひゅんッて消えたい。アルプスの少女の世界にワープしたい。死にたくはない。すべて捨てて楽になりたい。そう楽がしたい!!

何も持ちたくない。けど持たな生きてけない。捨てたくない。もうちょっとほしい。あーしんどいしんどいしんどい。失うのも怖い。しんどい。
今のしんどさってこういう仕組み?
見えることできることが増えて、手が届きそうで、周りが見えてきて、欲が出て、見えてるのに手に入らず、しんどい。
見えてるのは何?本当にあるものなのか。

これは高校生のころからずっと思っていたこと。
好きなことをする高校生活を夢見て受験を頑張って、そしたら入学した瞬間大学受験に向けて頑張って、大学に入ったら就職のために頑張る。そういう世界観をもってる。将来のために今の楽しいことをおいといて、将来が実現したらその楽しいことをやるつもり。だけど、実際は、実現したらその次の将来のためにまた何かを頑張る。将来のために頑張る。その将来はいつなの。いつまでもたどりつかない。ニンジンをぶら下げるレベルじゃない。にんじんはちゃんとあるじゃないのよ実態が。その将来って何からできてるものなの。全部イメージ。想像。フィクション。ドラマや漫画の影響。いい悪いを言いたいわけじゃない。「実態のない将来の想像」これのために頑張るってシンプルに多くの人の原動力になっているもん。現にわしも、実際は誰に読まれるでもないnoteを、ふわっとしたどこかの誰か読んでくれるという想像のおかげで、読める文章を長々と書けているのであってね。

まあ長々と書いたが、まとめると、私は頑張りたくない。楽がしたい。ってことやねん。「頑張りたくないです!!もう無理です。」って言いたいのだと。誰に言いたい。母に。もう一人で頑張るの限界。手に負えない。一緒に頑張りたい。もう一回頼らせてほしい。

だけど母は私の弱音なんか聞きたくないだろう。
私の人生に不安と恐怖がいっぱいで、楽しいこともあまり見いだせないって、母はそんな話聞くの辛いと思う。
それに一度甘えたら、そこから自分が際限なく甘えそうで怖い。




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