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折れたあとも日々は続く

ぼんやりと暮らしている。
実家に土下座して金の無心をしてから、そろそろ1年が経つ。障害年金も降りて、結婚もして、(この話はいつかまとめてしようと思う)、血反吐を吐くようにお金をかきあつめる日々は終わった。本当に辛かったな、と思う。人よりも重たい体を引き摺りながら。

1日4時間弱、今は働いている。清掃とバーの仕事をしている。でもそれじゃあ遊びに行くお金までは稼げないから、正社員の障害者枠で就職しようと思って、いまは就活中だ。

ばっきりと、何度も心は折れる。
もう生きられないと思っても、生活は続く。

そのことの残酷さが、なんだか今はすこし、悪くないような気がしている。深い深いあきらめと共に。

大学に、資格を取ることを条件として入学させてもらった。私は資格を取るのに失敗して、心底失望されたので、本当に死のうと思った。なんども1人で暮らす部屋のドアノブにロープを括って、けれど怖くて、遂に最後まで死にきれなかった。
就職はどうするのと聞いたゼミの先生に、さあ、分かりません。と投げやりに答えた時、先生が言った。「まだ若いよ。どうにでもなるよ。」なるわけない。私はちょっと笑ってありがとうございますと言った。

どうにでもなる。
落ちるところまで落ちて、そう思う、今。
どうにでもなるのだ。良くも悪くも。変わらないものがないという世界のルールで、何もかも変わってゆく。いいふうにもわるいふうにも。どうにでもなるのだ。ぼくたちは配られた手札を握って、されるがままに流されるしかない。それを諦めること。世界はアンコントロールなのだと知ること。そういうことを、最近になって、ようやく、気がついたような気がする。

ちょっと楽になった。
これからもきっと、心は折られるだろう。人にも、世界にも。けれど日々は続く。アンコントロールの日々。明けない夜は無く、沈まない太陽はない。そういう。

この文章を、清掃のバイトの、喫煙所で書いている。非常階段の一角。座り込んで、日差しに目を細めて、そろそろ行かなきゃなあと、僕はいま、煙草を消している。傷だらけの左腕、蚯蚓脹れが光の中で、ちらちらひかった。

苦いって分かっているけどまた吸って、それは朝日を見るのとおなじ/菅沼ぜりい

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