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要素は少なく 純度は高く


ということを意識するようになった。

大学に入ってからだろうか。

最小限の要素で構成された芸術に惹かれるようになってからだ。


映画より小説が好き

カラフルよりモノクロが好き
(上のは受験時代にはまっていたモノクロ写真)

本画より素描が好き

オーケストラより独奏が好き

賑やかな都会より静かな田舎が好き

というように。

情報量の多いもの、よりは情報量の少ないものの方が
自分は好きなようだ。


数年前までは全く真逆だったのだけれど。

「好み」も数年で真逆になってしまった。


もちろん、豪華でスケールが大きい芸術も、やはり圧倒される。

サーカスやミュージカル、パレード。
一瞬にして観客を別世界へと連れて行ってしまうような迫力がある。


どちらが好きかは人それぞれ違っていて、それが面白いところ。


私はどちらかというとミニマムな芸術の方が好きだ。

最小限の要素で構成された芸術には、独特の魅力がある。


要素が少ないと、その作品の核となるものが、より一層際立つような気がする。


そして何より重視するようになったのは、
表現における「余白」。


私はその余白を「詩的な余白」と呼んで大切にしている。

説明し尽くさないこと、想像の余地を残すということによって、作品に無限の広がりが生まれる。

そんな風に思う。

一昨年、ある文章の授業を履修していた。

先生がキーワードを出して、それについてエッセイでも小説でも、詩でも何でもいいので文章を書いてくる。
もちろん、分かりやすい文章を書くことが目的ではなく、むしろその逆というか、芸術として文章を扱うような授業だった。

その中で、ある油画の先輩が書く文章が私はとても好きだった。
謎めいていて、詩的で、味わい深い文章を書く人だった。

その先輩と話すようになり、一緒に神保町へ古本屋めぐりに行った。
引っ込み思案だった私を、彼女は明るく誘い出してくれた。

他の専攻の人と関わることは大変貴重なことだ。


先輩におすすめの本を訊くと、谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」という詩集を貸してくれた。


難解で、古い、活版印刷の詩集。

難しい。解らない。何だこれ。

と最初は思った。

でもその難解さが美しく、解らなさも想像が膨らんで面白いのだった。

詩は最小限の要素で構成された芸術の一つだ。視覚情報も音もなく、あるのは「言葉」という記号だけ。
その言葉も「分かりやすい」ものとは対極だ。

言葉が、言葉として見えてくるという純度。

そして、余白。
説明しないことで自由に遊びまわる、空想。

これには衝撃を受けた。
詩に興味を持った最初のきっかけだった。


以来、要素と純度、そして詩的な余白というものを考えるようになった。


私の場合、どうしても欲張りになってしまう。
欲張りな性格が、邪魔をする。


「やりたい」「やりたい」
「あれも、これも」

という足し算ばかりになって、
ごちゃごちゃと要素が増える傾向にあった。


それをグッと抑えて

最小限の要素で「純度」を上げること、

「詩的な余白」を必ず作ること。

これは、自分の場合、かなり意識しないと難しいようだ。



まだまだ試行錯誤の日々。


やっぱり、自分で「好きだ」と思える作品を作りたい。


「好きなもの」しか作りたくない。


すぐに、自信のある「できる」に走ろうとするのは、自分の悪いところだ。


できるからと言って、好きでもないものを作ることは、苦痛でしかない。


今日も、「好きなもの」と「できること」が食い違う。


「やりたいこと」はいつだって、「自信がない」ものなのだ。

自信がない、を受け入れて、「目を背けたくなるくらい下手なものを生み出す覚悟」が必要だと知った。

「得意」からの脱出。


「やりたいこと」が「できる」には、研究と試行錯誤を重ねるしかないと痛感する。

でも、その痛感が、近頃は喜びだと思えるようになった。










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