見出し画像

【タスクシュート】私もあなたも、存在そのものが素晴らしい

私がタスクシュート認定トレーナーを目指そうと思った理由として

  • タスクシュートを広めたいから

  • 協会の理念や考え方に共感したから

などと、以下の記事で書いた。

協会の理念の中で、最も好きな部分はここだ。

「存在が至高であり、行動によって人間の良し悪しは決まらない」
という主張。

とても重要で今後広まるだろうと感じているから、ここで一旦まとめてみる。


私達は行動で人の善悪を判断しがち

現代社会では
「良い行動をする人が良い人、悪い行動をする人は悪い人」
と自然に考えがちだ。

公共の場でおとなしくできる子どもは「おとなしい良い子」だし、ノーベル賞を受賞したら「すごい人」で、社長になったら「偉い人」とされる。

どの人も、1人の人間であることに変わりないのに。


実はこの考え方は古くから広く一般に受け入れられている真理ではないし、絶対的な決まりでもない


たとえば動植物など生物の世界の基本ルールは弱肉強食で、人間とは違う。

また、古くは奴隷制度や男女差別も当たり前だった。ご存知のように、王族や貴族と平民が階級でハッキリと区切られている社会もあった。

もしもそこから「進化」してどんどん「良く」なってきたと仮定するなら現代社会のルールが正統なのかもしれないが、そうとは限らないと最近思っている。

たまたまそう考えるのが自然で時代に合っている、多くの人にとって都合が良い……それだけなのではないか?


ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『ホモ・デウス』を読んで、余計にそう考えるようになった。


なぜ問題? 私の強迫観念・リベンジ夜更かしとの関係

「良い行動をする人は良い」と考えていくと、自動的に
「昨日悪い行動をした自分はダメな人間」
になってしまう。

このレッテル貼りが日々の自己嫌悪・後悔の元となり、現在のパフォーマンスを著しく下げているのではないか? と考察する。

自分に自信がなく、自己肯定感が低く、感受性が高い人は余計にそう。
……つまり、私のような人間には。

私の1番の願いは不老不死(正確には「好きなだけ生きていたい」)だが、それが叶わないならせめて歴史に名を残したい・爪痕を残したいと考えてしまう。

最近はそこまで渇望してないけれど、かと言って願望が消えたわけではない。「偉人にならなければ」という強迫観念じみた望みは、常に胸の奥にある。

その理由はここにあったのだ……と、腑に落ちた。

つまり
「歴史に名を残すほどに優秀で素晴らしい行動をしなければ、お前が生きている意味はない」
と自分に宣告していたんだと思う。


また、私は1日の終わりにリベンジ夜更かしをしてしまうことが多い。最近は減ってきたものの、まだゼロではない。

※ リベンジ夜更かし
特に重要な用事もないのに「このまま1日を終わらせることに納得いかない」という気持ちになり、ダラダラと夜更かししてしまうこと


無意識ではあるが確実に理由があってわざわざ夜更かししているので、単に
「体に悪いから早寝しよう」
「健康のためだよ」
などという普通の声かけをしてもほぼ無意味なのが、厄介なところ。


先日、なぜそうなるのかを考えてみた。

自分の思考を観察してみたら、1日の開始から夜までの間に無意識に自分を傷つけているのでは?と感じて、少し驚いた。

他人の発信・実績・偉業を見て
「比較したら私はなんてダメだのだろう」
と断罪したり、取ってしまった行動に対して
「どうしてこうしたんだ……本当にダメだ」
「いつもこの作業に時間がかかって無能だ」
「やることを終えられない自分は嫌い」

と思ったりして、知らず知らずのうちに自分に傷をつけているのである。

ある意味、精神的自傷行為とも言えるかもしれない。思考は勝手に自分を攻撃し続けるのだ。


その傷を癒すために、静かで落ち着く時間・場所でスマホを見続けたり、ゲームに興じたり漫画を読んだりぼんやりしたりしているのかも。

「こんな行動には何も意味もない」
「くだらない、人生の無駄」
「早く寝た方がいいのに」
とばかり思っていたが、
思考せずに目の前の情報に浸ることで、自分の心を癒していたんだろう……
と、ようやく気づいたのだ。


根底には「行動によって人の価値が上下する」思考がある

行動でレッテル貼りをしてしまう理由は、
「行動によって人の価値が変わる」
と私たちが思い込んでいることにある。

行動によって人の価値が変わらないと考えるなら、何をしても
「私はダメな人間だ」
とは思わないはずだからだ。


大昔のように「身分によって人の価値が変わる」とするのが良くないなら、「行動によって人の価値が変わる」とするのもまた、望ましくないのではないか?

少なくとも「良い行動をした人=良い人」と単純に固定化してしまうことは、階級社会をそのまま肯定するのと同様に危険なことかもしれない。

私は常日頃
「"罪を憎んで人を憎まず"を実践したい」
「行動だけに対して善悪を判断し、人格否定をしないようにしよう」
などと思っていた。もちろん今もその信念は変わらない。

でも、全然できていないのだ。

特に自分に関しては
「他人に害があるわけでもないし、私が自分をどう思ったっていいじゃないか」
としがち。

でも、その思考が実際の生活に悪影響を及ぼしている。
生きづらさを生む考え方は、手放してもよいのではないか?


思考の癖を変えるために有効なこと

ただ、なかなか思考の癖は簡単に変えられない。

私の場合は約40年かけて身に着けた考え方だから、10年単位で気をつけないと変わらないだろう。

でも、思考に対して
「あ、今この考え方に陥っているな」
「ふーん、こういう時に私は自責する傾向にあるのか」
などと意識できれば、多分徐々に変わるはず。

「存在そのものが素晴らしいんだから、行動によって上げ下げしようとしなくていい」
とするタスクシュート協会の考え方が、正しいか間違っているかは分からない。

でも、心地よくて安心できる有意義な見解。楽しく日々を送るために今後気にしてみよう。

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

54,021件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?